15 俺が守ってやる
ざわめく人集りの中からお師匠様の声を聞く。
それは、ツェツイにとって救いの声。
立ち上がったマルセルはツェツイを一瞥し、乱れた服装を整えふん、と鼻を鳴らした。
「行こうぜ」
「で、でも、大丈夫かな、あの子……怪我したみたいだけど」
「怪我? かまうもんか。かすり傷だよ、かすり傷! たいした怪我じゃないし、それに、あの程度の怪我くらい自分で治せるだろ? 魔道士なんだから」
肩をすくめて立ち去るマルセルと、廊下に座り込むツェツイを交互に見ていたルッツだが、この場にいては自分も何かしらのお咎めをくらうかもしれないと恐れ、そそくさと逃げるようにマルセルの後を追う。
そんな二人の脇をイェンが駆け足で横切っていく。
駆けつけたイェンは廊下にぺたりと両手をついて座り込んでいるツェツイの姿を見つけ険しい顔をする。
「どうしたんだよおまえ、それに腕! 怪我してるじゃないか」
どうしたのかと聞かずとも、この状況をみれば何があったのか一目瞭然であった。
駆けつけたイェンに助け起こされたツェツイは、何でもないと首を振るが、震えはいっこうにおさまらなかった。
おもわずイェンの腕にぎゅっとしがみつく。
「何よあの子甘えちゃって、こういう時だけ子どもの振りをしてイェンさんの気をひこうなんて」
「子どもって、そういう小狡いところがあるからね」
「イェンさんもどうかしてる……わ」
先ほどの女たちが、側にいたノイとアルトの存在に気づき、はっとなって慌てて口を噤む。
相変わらず双子たちはにこにこ笑っているが、むしろ、その笑顔が怖い。
あなたたち、あっち行ってよという目で双子たちを睨みつけるが、相手が自分よりも階級が上だということを知っているためそれも言えずにいる。
自分たちがツェツイに何かするのではないかと思って見張っているのだ。
「私行くわ」
最初にツェツイを潰しちゃおうか、と言い出した女が突然、この場からくるりと背を向ける。
「え? 行っちゃうの? これからおもしろくなりそうなのに」
「もうどうでもいいわよ。っていうか、私こんなことしてる場合じゃなかったし」
「なら、私も。だいいち、イェンさんに嫌われたくないしね」
「私も研究課題まとめなきゃいけなかったんだわ」
そう言って、女たちは去っていってしまった。
イェンはこの場にいる見物人たちをざっと見る。
「誰がこいつをこんな目にあわせた! 出て来いよ!」
しかし、この場に居合わせた者たちは互いに目を見合わせ知っているくせにさあ、と惚けた顔をするだけであった。
「いいか、おまえらよく聞け!」
廊下の隅々までよく通る声に、辺りがしんと静まりかえる。
「こいつに何かしたら俺が許さねえ!」
そこでもれる失笑。
その小馬鹿にしたような笑いのほとんどが、男性たちのものであった。
「許さないって、無能な奴にそんなこと言われてもなあ」
「そうそう、おまえこそ落ちこぼれのくせに誰にものを言ってんだよ。ま、年はおまえの方がだんぜん上だけどな」
年はね、と男は皮肉を口にのせ、嗤いながら繰り返す。
「いちいち棘のある言い方する奴だな。何だったらやるか?」
「はは、魔術で勝負か? 初級のおまえが僕にかなうわけないだろ? もっとも、やらないけどね」
「あたりまえだ。魔術なんか使うわけねえだろ」
男はぷっと吹き出した。
「いやいや、おまえの場合、使わないんじゃなくて、使えないんだろ?」
何言ってんだ、と他の者も腹を抱えて笑い出す。
「魔術じゃなく素手でやりあうんなら〝灯〟の掟に違反することはねえよな。まあ、多少のお咎めは食らうかもだが。ま、俺は処罰を受けようが何されようが、どうでもいいからな」
「冗談じゃない。おまえはどうでもよくても、僕はそうじゃないんだよ! ここで問題でも起こしたら、こっちは最悪、階級を落とされかねない。おまえとは違うんだ」
「だな。何たって、俺は初級だからこれ以上落ちようもねえしな」
イェンはぱきぱきと指の関節を鳴らし不敵に笑って足を踏み出す。
男は顔を青ざめ後ずさる。
「お師匠様、けんかはだめです! 絶対にだめです!」
「安心しろ。一撃で潰してやる」
「お師匠様っ!」
「な、な、何なんだよ! 何で僕が無能で落ちこぼれの奴に気後れしなきゃならないんだ。そもそも、僕は関係ないし……っていうか!」
男は辺りをきょろきょろと見渡した。
「マルセルの奴いつの間にかいないじゃないか! くそ! つき合ってられるか。毎日暇を持てあましてるおまえと違って、僕は忙しいんだよ!」
「だったら、さっさと行っちまえ」
「言われなくてもそうするよ!」
男は逃げるようにこの場から立ち去ってしまった。
「おまえらもいつまで見てんだ! とっとと散れ!」
怒鳴りつけるイェンの凄まじい形相に、その場にいた者はそれ以上何も言い返すことができず、そそくさと散ってしまった。
ようやく、人の群れが引いたところで、イェンはツェツイをかえりみる。
「大丈夫か? よく耐えたな」
「お師匠様は、けんかなんかしたことあるのですか?」
「いや」
あるわけねえだろ、とイェンは肩をすくめる。
「だって……」
「こう見えて俺、野蛮なことは嫌いなんだよ」
「ほんとに、けんかになっちゃったらどうするんですか……」
「まあ、その時はその時だ。そんなことより」
イェンはツェツイの側に片膝をついて顔をのぞき込む。
「マルセルの奴にやられたのか?」
「……先に手を出してしまったのはあたしです。つい……ごめんなさい。お師匠様にも迷惑をかけてしまいました」
「気にすんな」
「あたし、問題を起こしてしまって〝灯〟から追放でしょうか。お師匠様も……」
「追放? んなわけねえだろ」
「でも……」
「心配するな。たとえそうなったとしても、まあ、ならねえけど……この場にいた全員道連れにしてやるよ。それよりも、傷……大丈夫か」
擦りむいた腕の傷を見てツェツイはうなずく。
ほんの少し血がにじんでいるが、たいした傷ではない。
「腕もそうだけど。おまえ、顔にも傷つくりやがって」
手を伸ばしてきたイェンの指先がツェツイの頬のひっかき傷にそっと触れる。
マルセルとつかみ合いをした時の傷であった。
「俺は術が使えない……この程度の傷さえ治してやることも……俺には……できない」
「お師匠様?」
「痛むか?」
ツェツイは首を振った。
痛みはなかった。
むしろ、触れるか触れないか程度に頬をなぞるお師匠様の指先にくすぐったさを感じた。
ふと、ツェツイは不思議そうに首を傾げる
頬に触れるお師匠様の指先がかすかに震えているような気がしたから。
いつものお師匠様と違う。
どうして、そんなに苦しそうな顔をするのですか?
あたしが傷をつくったから?
でも、お師匠様がそんなにつらそうな顔をするほどの傷ではないのに。
どうして?
「平気です。このくらいどうってことないです」
そこへ、双子たちも走り寄ってきた。
「ツェツイ大丈夫か。俺がその傷治してやる」
「傷跡ひとつ残さず、きれいに治してやるぞ」
しかし、ツェツイはううん、と首を振る。
「ノイもアルトもありがとう。でも、ほんとに大丈夫。それに、この程度の傷なら魔術なんか使わなくてもそのうち治るから。だって、私利私欲のために魔術は使ってはいけない。〝灯〟の掟ですよね? ね、お師匠様?」
「私利私欲……ちょっと違うような気もするけど」
まあ、いいか、とイェンはかすかに笑う。が、すぐにその表情が真剣なものとなる。
「おまえ〝灯〟にいる間はできる限り俺の側にいろ。あいつらの嫌がらせや、根も葉もない回りの陰口から、何もかもすべて俺がおまえを守ってやる」
「お師匠様……」
「おまえの壁になってやる」
ツェツイの頬が赤くなった。
守ってやる。
そう言ってもらえたことが嬉しくて。
「お母さん以外の人にそんなふうに言ってもらえたのは、お師匠様が初めてです」
ツェツイの目にじわりと涙が浮かんだ。
イェンは困ったように頭をかくと、次の瞬間、片腕を伸ばし、ツェツイの頭を引き寄せ胸に抱え込んだ。
ぱふんとその広い胸に倒れ込み、ツェツイは顔をうずめる。
「何かあったら素直に頼ってこいって言ったろ。遠慮なんかするな。いいか、わかったな」
「あたし、じゅうぶん頼っているつもりです」
「全然、たりねえよ」
ツェツイは身体を震わせた。
「怖かったんだろ? 無理するな。誰も見てねえから、好きなだけ泣け」
「俺たちがいるけど。ツェツイ気にするな」
「見てない振りするからな。泣いていいぞ」
「あたし、泣いていないです……それに、お師匠様はあたしのこと甘やかしすぎるような気がします」
「何言ってんだ。おまえは今までいろいろ我慢しすぎたんだ。それも、たったひとりで。だから、このくらいがちょうどいいんだよ」
「子どもだからって甘やかさないってお師匠様、最初の時言ってました」
「そうか? 厳しい時もあったろ?」
「そうかな。お師匠様はいつだって優しかったと思います」
イェンは笑ってさらにツェツイを抱きしめた。
「あいつらのやっかみなんて今のうちだけだ。そのうち、嫌でもおまえの実力を認めざるをえなくなる。そうなったら、もう誰も、おまえのことをあれこれ言う奴なんていなくなる。実力がすべて。それが〝灯〟だ」
「はい……」
「だからといって、それまで我慢しろって言ってるわけじゃないからな。わかってるな?」
「はい」
ほんとは悔しくて、怖くて、泣きたかった。
なのに、お師匠様に触れた途端、そういった感情がすべて消えていってしまった。
不思議。
心に広がっていく安心感。
胸がじわりと温かくなっていく。
「ツェツイ、俺の胸にも飛び込んで来るか?」
「俺もだツェツイ。ぎゅーって、してやるぞ」
ノイとアルトがさあ来い、と笑顔いっぱいに両手を広げた。
ツェツイはえへへ、と笑ってイェンの腰に腕を回し強く抱きつく。
「何だ? そんなに兄ちゃんのほうがいいのか?」
むーと、双子たちは唇を尖らせる。
あたし、もう大丈夫。
「お師匠様」
お師匠様が後ろで支えてくれる。
ノイもアルトもいてくれる。
そう思うだけであたしはもっと強くなれる。
前を向いて進むことができる。
だから、このくらいで負けたりしない。
少しくらい回りから何か言われたって、意地悪されたって気になんかしない。
「試してみたい……」
ゆっくりと顔を上げ、ツェツイは仰ぐようにイェンを見上げた。
ツェツイの瞳の奥に強い光が揺らめく。
かすかにイェンは息を飲む。
「あたし、どこまでいけるか試してみたい。まだまだ上を目指せそうな気がするんです。だから、また昇格試験を受けます。それとも、あたし……急ぎすぎでしょうか?」
これまで駆け足で階段を上がってきた。
早く立派な魔道士になって、誰かの役にたつ仕事をしたくて。
それ以上に。
もっと、いろいろなことを知ってみたい。
たくさんの知識を手に入れたい。
そう思ってきた。
「こんなことお師匠様に聞くのはおかしなことだと思うんです。でも、自分のことなのに時々、よくわからなくて……お師匠様、あたし、どうしたら……」
イェンは口元に笑みを刻んだ。
「何も迷うことなんかねえだろ。思う通りに、おまえが望むようにやってみろ。行って見てこいよ〝灯〟の頂点を。限られた者しか知ることのできない〝灯〟の最上階を」
おまえなら必ず登りつめることができる、と。
「〝灯〟の最上階……」
あたし、そんなだいそれたことまで考えてなかったけど。
でも……。
お師匠様が背中を押してくれた。
あたしの迷いを振り切ってくれた。
あたし、やってみせる。
とびきりの笑顔を浮かべてツェツイははい、とうなずいた。
「俺もツェツイに協力するからな」
「ツェツイ、もちろん俺もだぞ!」
そう言って、双子たちもツェツイとイェンに抱きついてきた。
ツェツイとノイとアルト、三人の明るい笑い声が廊下に響き渡る。
みんな大好き。
「そうだ。ツェツイ、今日はうちに飯食いに来い」
「たまには母ちゃんにツェツイの顔見せてやれよ」
「なあ、兄ちゃんいいだろ?」
「きっと、母ちゃんも喜ぶぞ」
「そうだな。傷の手当もあるし、来るか?」
「はい。行きます!」
よし、とうなずいてイェンはツェツイを軽々と抱き上げ片腕で抱っこする。
ふと、誰かがこちらを見ている気配に気づき、その強い視線に引っ張られるようにイェンは顔を上げた。
廊下の角でこちらをうかがい見る、マルセルとルッツの姿があった。