1 師匠になってください!
「師匠になってください!」
突然落ちてきた威勢のいい声に、イェンは飛び起きた。
柔らかい春の陽射しがそそぐ昼下がり。
心地よい風がふわりとそよぐ。
こんな日は昼寝が一番だと〝灯〟の裏庭でまどろんでいたのだ。
腕を支えに上半身を起こすイェンのかたわらに、十歳前後の痩せた少女が芝生にぺたりと座り、こちらをのぞき込んでいた。
知らない顔だった。
イェンはちらりと少女の左手首に視線を落とす。
〝灯〟に属する証はない。
つまり部外者。
とはいえ特に〝灯〟の回りに塀や囲いがあるわけでもないから、一般の者でも自由に出入りができる。
その証拠に遠くで子どもたちのはしゃぐ声が聞こえるし、芝生の上に座ってお弁当を広げている家族連れもいた。
青々とした芝生、所々に植えられた桜の木や色とりどりの花が咲く花壇。
くつろぐには最適の場所だ。
少女は眉間にしわを寄せ、真剣な目でじりっとにじり寄ってきた。
肩の辺りで揺れる栗毛色のふわふわの髪毛。
じっとこちらを見る瞳も同じ色。
ぱちりとした大きな目。
可愛らしい顔だちではあるが、そんな彼女の容貌にそぐわず、着ている衣服はやけにみすぼらしい。生地はどこかくたびれていて、よく見ると袖口はすり切れほつれている。
「な、何? って、どこの子?」
少女はさらにつめ寄ってきた。
「あたしの名前はツェツイーリア。ツェツイでいいです。いえ、好きに呼んでくださってかまいません」
「はあ……で?」
「どうか、あたしに魔術を教えてください!」
「はあ?」
「弟子にしてください!」
お願いです、とツェツイと名乗った少女は深々と頭を下げた。
風がさわりと吹き抜けた。
その風とともにしんとした沈黙が二人の間を流れていく。
首の後ろで一つに束ねられたイェンの長い黒髪が背中で揺れる。細身の長身にしなやかな身体つき、整った容貌。女性を惹きつける魅力と危険さがあった。
ややあって、ツェツイはゆっくりと視線を上げた。その目の必死さから、どうやら冗談やふざけているわけではなさそうだ。
イェンは困ったと左手で頭をかく。
その手首には腕輪がはめられていた。
それは〝灯〟に属する魔道士の証。
世界に平和と希望の灯を。
魔道士はこの世界では貴重な存在であり、重宝されている。
それゆえ、どの国にも必ず〝灯〟という魔道士組合的な存在があり、魔道を志す者に研究の場を提供する機関である。そして、国と〝灯〟は密接な関係を持ち、魔道士はその能力を国のために、国は魔道の研究費を援助するという仕組みになっている。
上級魔道士になれば華々しい将来は約束されたも同然。さらに最高位ともなると国王の側に仕えるくらいだ。
しかし、誰でも魔道を志すことはできるが、その誰もが魔道士になれるわけではない。どれだけ努力をしても、すべては持って生まれた才能がものをいう。そして、〝灯〟は階級がすべての実力世界。
ちなみにイェンの階級は初級である。言わずもがな〝灯〟では下っ端だ。
華々しい地位にはほど遠く、力量も底が知れている。
「いきなりそんなこと言われても困るし」
心底困った顔でイェンは少女を見下ろす。
「でも、あたし感じるんです。お師匠様の身体から放たれる、突き刺さすような熱く猛々しい魔力にあたし……」
ツェツイは、ぽっと頬を赤く染めた。
「どうにかなっちゃいそう……」
「どうにかなっちゃいそうって……」
こっちの頭が理解できずにどうにかなっちゃいそうだ。
何やらとんでもないのに声をかけられてしまった。
新手の嫌がらせか?
それとも、上級魔道士たちが俺の容貌を妬んでのいじめか。
そういえば、つい先日も〝灯〟の先輩の彼女が突然、付きあってください、と俺に抱きついて告白してきたっけ。断ったら、だったら、一度だけでいいから抱いてくださいとも。
だったらって何だよ。だったらって。
もっとも、さすがに先輩の女に手を出しちゃまずいだろって、その申し出も丁重にお断りさせていただいたが。
いや、まあ何にしても。
「とにかく俺、魔術使えないから教えられねえの。弟子入りは他の奴にでも頼め」
しかし、少女は引かなかった。
「どうしても、お師匠様がいいのです」
魔術が使えないのに何で〝灯〟の魔道士をやっているのかという根本的な疑問すらこの少女は抱かないのだろうか。
っていうか、もうお師匠様かよ。
これ以上つき合っていられるかと立ち上がるイェンにつられて、ツェツイも勢いよく立ち上がった。
少女は首をのけぞらせて長身のイェンを見上げる格好となる。
ふと、ツェツイは、あっ、と声を上げた。と、同時に頭の上にぴちゃりと何かが落ちてきた。手をあてて見ると鳥のふんがついていた。
「……」
「あそこに小鳥さんの巣がある」
すぐ側にある桜の木の上をツェツイは指さし、つられてイェンも頭上を仰ぎ見る。
確かにそこに小さな鳥の巣があった。
苦い顔をするイェンを見て、ツェツイはくすくすと笑っている。
「笑うな。ほら、早く帰ってお母さんのお手伝いでもしろ。学校の宿題だってあるだろう?」
帰れ帰れ、と手で追い払う仕草をするイェンに、ツェツイは唇を引き結び、今にも泣き出しそうに顔をゆがめた。
泣いてもだめだから。
「お願いです。あたしの話を聞いてください」
「無理。俺、今日働きすぎて疲れてるから」
それは嘘だ。
昼からずっと、ここで寝ていたのだ。むしろ、頭も身体もすっきりだ。
ツェツイはがくりと肩を落としたが、すぐに、真っ直ぐな目をこちらに向けてきた。
「あたし、絶対あきらめませんから。お師匠様が首を縦に振るまで、ずっとここに通い続けます。必ずお師匠様を口説き落として見せます!」
口説き落とすって……。
「ああ、期待してるよ。十年後にな」
少女の言葉を軽く受け流し、イェンは適当に相づちを打つ。
「あたし本気ですから!」
「はいはい」
もはや相手にするのもばかばかしい。
この場はいったん引くことを決めたのか、ツェツイは背中を向け歩き出す。
一度だけこちらを振り返ったが、イェンがそっぽを向いているのを見て再び肩をおとして歩き出す。
何だったんだ……?
ため息一つ落とし、イェンは少女とは反対方向へと背を向け、さらにもう一度ため息を繰り返す。
視線を向けたその先に、二人の少年がにやにや笑いを浮かべて立っていたからだ。
「万年初級、無能魔道士のイェンじゃないか。仕事もなくて相変わらずひまそうだな」
「そうそう、ひまそうだな」
少年のひとりが小馬鹿にした物言いをする。
年の頃は十五、六。
色白でひょろりとした身体つきの少年だ。
名をマルセルといい、魔術の腕は優秀。
〝灯〟でも注目を置かれている存在だ。そんな将来有望とされている人物が、何が気に入らないのか、ことある事にちょっかいをかけてくるのだ。
マルセルの横で、そうそう、とうなずいているのはルッツという、見た目もあまりぱっとしない背の低い小太りの少年。
ちなみにこの二人はイェンよりも年が下だが魔道士としての階級ははるか上である。
〝灯〟では年齢ではなく階級がすべての実力社会だ。
ふと、マルセルは遠ざかっていくツェツイの後ろ姿を見てすっと目を細めた。
「ち、あいつまた来てたのかよ」
「そうそう、ここのところ毎日ですよね」
「あんなみすぼらしいガキがうろついてたら〝灯〟の品格が下がるってのによ」
「その通りです」
イェンははっとなって少年たちをかえりみる。
「おまえら、あの子知ってんのか?」
「知ってるも何も。なあ?」
「そうそう、同じ学校だからね」
彼らのいう学校とは、〝灯〟とはまた別の普通に学問を習う場所のことである。
〝灯〟はあくまで魔術を習い研究する機関なのだ。
マルセルが言うには。
たったひとりの肉親だった母親を半年前に亡くし、以来、毎日〝灯〟にやって来てはじっとこちらの様子をうかがっているのだという。
母親を亡くしてからは学校にも来ていないと。
咄嗟にイェンは去って行く少女を振り返り舌打ちをする。
「俺としたことが……」
知らなかったとはいえ、うかつな発言をしてしまった。
追い返す口実に、母親の手伝いをしろと言ってしまったのだ。
そういえば、少女の顔立ちは、ふっくらとした子どもらしい感じはなく痩せていたような気がする。いや、痩せているというよりも、やつれてる?
あいつ、ちゃんと飯食ってんのか?
「何のつもりか知らないけど、あいつのせいで〝灯〟のみんなは薄気味悪がって迷惑してんだよ」
マルセルは鼻を鳴らし肩をすくめた。
その横ではルッツがやはりそうそう、と大げさにうなずいている。
そんな二人に背を向けイェンは走り出した。
去っていく少女の背中を追いかけ追いつくと、華奢な肩をつかんで引き止め振り向かせる。振り返ったツェツイは、大きな目を驚きいっぱいに見開かせた。
「飯……」
飯って……。
何言ってんだよ俺。
たった今、追い返したばかりなのに。
こんなことしてどうしようってんだ。
「めし?」
ツェツイは首を傾げぽつりと聞き返す。
「うちで飯食ってかねえか?」
言ってしまって心の中で大きなため息をつく。
いや、飯に誘っただけ。
そう、それだけのことだ。
「でも……」
「いいか、勘違いするなよ。別に弟子にするわけじゃない。ただ、飯を食わねえかと聞いただけだ」
ツェツイは言葉をつまらせたまま口許に手をあてた。その目には大粒の涙が浮かんでいる。
「来るのか来ないのか、どっちだ!」
「は、はいっ! 行きます!」
ツェツイは大きくうなずいた。瞬間、目のふちにたまっていた涙がぽとりと足元にこぼれ落ちる。
「おい、何で泣くんだよ! 子どもとはいえ、女に泣かれんのは弱いんだよ……」
参ったな……と頭をかき、イェンは涙をこぼす少女の腕をとり、軽々と抱き上げると片腕で抱っこする。驚くくらい、その身体は軽かった。
ほんとに、何やってんだ俺。
「ほら、泣き止め。な?」
そう言って、イェンは少女の背中をぽんぽんと叩く。
ツェツイは両手の甲でごしごしと涙を拭い、ひくひくと肩を震わせながらにこりと笑う。
「はい、お師匠様」
だから、お師匠様じゃねえって……。
歳の差、十二歳。
これが、イェンとツェツイーリアの出会いであった。