パート2
一一
「ケイト、危ない! 後ろよ」
匍匐前進していたアンヌが注意深くうしろを振り返ったとき、その形相を変えて言った。その声に驚いて慧人が素早く身を翻すと、シュッと鋭い音がして、彼の脚がつくった砂のくぼみに白い閃光が走った。
つぎの瞬間、慧人の動きにねらいを定め、さらに一撃を加えようとしている敵兵にクーガーのレーザーキャノンが火を吹いた。
いつの間にか、ザンボア軍の兵士が慧人の後方十メートルほどに迫っていたのだ。地中戦略を得意とするザンボア軍との接近戦においては、地上だけでなく、地中の動きにまで気を配らなければならない。
慧人は改めてザンボア軍の恐ろしさを知った気がした。これが地底実験区の演習場であると知らなければ、いまごろはその恐ろしさに身震いしていたことだろう。
「ケイト、どこを見ている。地中の動きに気を配るんだ」
クーガーがほっとした表情をしている慧人に檄を飛ばした。「そんなことでは、砂漠を十メートルも進まないうちにバーベキューにされてしまうぞ」
クーガーに言わせれば、地中の動きを探るには、地中から聴こえてくる音に耳をすませるなど、かなり習練を要するコツがあるらしかった。
「そんなこと言っても、耳に聴こえてこないんだからしようがないじゃないか」
「それを言っている時点で、お前は骨まで炭になっている」
慧人が提示したオキシフィルトレータ破壊工作案が採択されて以来、三人はこうした軍事訓練を行うほか、寸暇を惜しんで体力づくりに励んでいた。しかし、日ごろ身体を動かさないでいた慧人には、それら各種訓練はかなりきついものだった。
朝、六時に起床。軽い食事のあと、ウォーミングアップを兼ねてのジョギングを数十分間行う。ついで実験区にある砂漠で、重いデザートブーツを装着しての歩行訓練。その脚腰の痛みを癒す間もなく、立体ウィンドウを相手にしていまのような実戦訓練が続く。
敵兵こそは立体ウィンドウ上のバーチャルな存在だが、その攻撃は慧人たちの装着した衣服に実弾の五分の一ほどの衝撃を与える。実弾による被弾にほど遠いとはいえ、ときには心臓、あるときは腕、酷いときには顔面へと、つぎつぎに繰り出されるその衝撃は、プロボクサー並みのそれと変わらなかった。男性陣に較べて体重があまりないアンヌは、腹部に受けた衝撃で二メートルも後方に飛ばされることもあった。
このようにして全員が、脚腰どころか、身体中を打ち身だらけにして日々の演習を繰り返しているのだった。
しかし、ことはそれだけでは終わらなかった。それを終えると、再びジムに戻って脚と腕、そして腹筋の力をつけるための筋力トレーニングが一時間余り続く。そして十五分間の休憩の後、十時きっかりに作戦会議。午前中いっぱいは、それに費やされる。そして二〇分ほどの休憩を挟んで、今度は実験区のプールをアスナジャ河に見立てた訓練がはじまるのだ。もちろんこれまた本物の潜水具や受発信装置、フィルトレーターを破壊するための爆薬などを携帯しての本格的な実地訓練だ。そのあと、ようやく眠りにつける。
最初のうち、慧人は前日の疲れが溜まり、大事な打ち合わせをしている最中でも朦朧としていることがあった。そんなとき、決まってクーガーが例の、渋い嫌み交じりの顔で慧人の不甲斐なさを難じるのだった。
しかし、いかにコンピュータ並みの知能を誇るフィクサロイドとはいえ、筋力そのものは人間。当のクーガーは、ひとに言う以上にトレーニングに励んでいた。
いっぽうアンヌのほうもまたあらゆる筋力トレーニングに励んでいたし、体力と敏捷さの点で二人に劣らないまでになっていた。彼女にあっては、二人の足手まといにはならないという思いが日々のハードトレーニングを耐えさせているのだった。
そんな部下たちに先を越されていては、言い出しっぺとしてのメンツが立たない。慧人は、日増しに筋力と体力をつけ、潜入作戦のためのあらゆる機器を考案して行った。
会議には、フリードマンとツヴァイゼンが必ず同席した。そしてフリードマンは最新の情報を提供し、ツヴァイゼンは会議の進行役を務めた。
そんな日々が三カ月程も続いたころには、あれほど脂肪だらけだった慧人の体格も筋肉だけの力強い肉体となっていた。
「なかなかいい身体つきになったじゃないか」
クーガーが通りすがりに、そのごつい手で慧人の肩を揉むようにして言った。
「ああ。お陰さまでな」
もうこのころになると、慧人とクーガー、そしてアンヌとの間柄は「俺・おまえ」のそれに近いものとなっていた。
作戦決行まで、あと三日――。
三人は、それぞれの職分に必要な技と知識を磨いた。
一二
三日が経った。ついに、あの作戦を実行に移すときが来たのだ。あの作戦は、ツヴァイゼンとフリードマン、そしてこの作戦に携わるスタッフ数名を含めた十人の間でだけ『プロジェクトMB』と名付けられていた。意味は極めて明瞭、モール・バッシング(モグラ叩き)の頭文字を採ったものだった。
三人が組織の特別仕様車であるアンチデザートヴィークル(ADV=対砂漠走行車)を駆って、ズハンガ丘陵の北端に位置するトロゲアの村落に着いたのは、午後四時を少し過ぎてからだった。
この戦争が勃発して以来、全住民が離散してしまい、廃村と化したトロゲアの様子はまさに砂漠のなかの一通路にすぎないように見えた。行く手の右側には、自然の姿を剥奪され、眩しさだけを跳ね返すズハンガ丘陵がなだらかに拡がっていた。そして踏みならされた一本の道路だけが、そのうねりを迂回するようにアスナジャに向かって続いていた。
その対岸にはザンボアの対空撃部隊のあるキュワナチ丘陵の白銀のような稜線が、空を覆うようにして自分たちの行く手を阻んでいるのだ。慧人は、まるで蜃気楼のようにその姿が震えながら空中に浮かんでいるのを想像した。
とりあえず、ここまでは無事に来れた。慧人は思った。その思いが通じたのか、他の二人が自分を見て頷いた。つまりは、ここからが勝負なのだ。
「あれを見て」
真ん中の席で双眼鏡を覗いていたアンヌが、ADVを運転していたクーガーの肩を叩き、はるか前方の陽炎のようになったところを指さして言った。
「光線屈折装置だ」
クーガーが眼をほそめ、彼女の指さした方向を見て言った。フィクサロイドは、通常の人間の数倍もの視力があるように改造されている。そのような人工レンズを装着しているのだ。生まれつきの砂漠の民であるザンボアの兵士たちも、その半分は楽に見ることができるが、アンヌや慧人のような北部都市出身の人間には、そのおよそ一〇分の一も見えはしない。
「つまり、あの辺りから、かれらの見られたくないものがあるという訳だ」
慧人が見ようとしても見えはしない敵の要塞を想像して言った。「車を止めろ。ここからは、全員で歩いてゆくことにする。ADVは受信装置をセットしておき、われわれが必要になったとき、自動で来れるようにしておくんだ」
「ここからアスナジャ河岸まで直線距離にして、ほぼ十五マイル。砂上ローターで行けば、二時間以内に行き着くことができるわ」
「だめだ」
慧人は、アンヌのことばを半分も聞かないうちに言った。「砂上ローターはモーターを内蔵している」
「そうね」アンヌは素直に認めて言った。「いくら小さなモーターでも、電子音であるかぎり、あちらさんにキャッチされる恐れがあるわね」
「ザンボアの軍は、ここ二カ月ほど前からすごく神経過敏になっている。どんな小さな電子音も聞き逃さない。本能的になにかを感じているのだろう。ここは、ケイトの言うように歩いてゆくしかない……」クーガーがADVの動力スイッチを切って言った。「車を降りて、彼の命令に従おう」
「これからの指示は、すべてミニCOMで行なう」
慧人は、喉のベルトに取り付けられたコムパッドを操作しながら言った。「みんな、おれの声帯振動域にチャネルをセットしておいてくれ」
慧人は、こんなときの場合に用意されている意味のないマニュアルことばを発し、自分の発声がちゃんとしたことばとなって再生されているどうかをテストした。ふたりが喉元のコムパッドに触れながら、にっこり笑ってオーケイの合図を出した。
そして、今度は慧人の番だ。まずアンヌの発するマニュアルことばが、しっかり受信できるようにセットする。つぎはクーガーのだ。思いのほか、再生能力は抜群だった。まるで実際に耳元で喋っているように聞こえる――。
これの正式名は、ヴォーカルコード・オシレイティング・ディスプレイサ(声帯発振音置換装置)だ。そんな風にいえば、なんだかいかにもものものしいもののように聞こえるが、要するに三人の発する音声の周波数だけを厳密にキャッチする超小型の通信器だ。
この先、なんの障壁もない砂漠地帯では、無線機などによる通信はすべて敵方に傍受されていると考えていい。その意味でも、各人の声帯が発する振動音を特別なプログラムによって作られたデジタル信号波に変え、相手の装置内でのみ再生するこのディスプレイサは、もって来いの盗聴防止装置だった。
これがなくては、三人がなにを話し、なにをしようとしているのかを第三者は知ることはできない。もちろん、敵方の受信装置にもこの種の信号は、理解不能の振動音に過ぎない。愛称ミニCOMは、こんな場合、もっとも有効で邪魔にならない通信機器なのだった。
「さあ、行くぞ。砂漠のなかを六時間の長旅だ」
慧人は、外気や水温によって内部の温度が相対的に変化するアクアスーツとオキシフィルトレータつきゴーグルに身をかためたふたりに眼をやって、ミニCOMで言った。
それぞれの背中には、ADVの荷台から引っ張り出した小型ソナーやハンドスイマー(手動推進泳具)、慧人の開発した酸素食剤散布器などの入ったファイバーケースが重そうに乗っていた。自分も含め、ふたりの恰好はまるで丘に上がったイルカのように精彩がなかった。かれは笑いながら、ことばを続けた。
「いいか。分かっていると思うが、念のため、もう一度言っておく。手筈どおり、ゴーグルはつけたままでいろ。なにがあっても、決して外すんじゃないぞ。敵はいつ、Gガス入りスプレー弾を発射して来るか判らん。アスナジャ河に行く途中で砂嵐がやって来て、前方が見えなくなった場合でも、決して単独行動をするな。つねにソナー音とCOMからの指令に気を配っていろ」
「アイアイサー」
ふたりの声が唱和した。あの作戦が決定されてから三カ月と数週間、この種のことは何度も何度も繰り返し身体に教え込んだ。いまさら言われずとも、あらゆる場合を想定した激しい訓練が行なわれたのだ。お陰で三人は、他の誰かがなにかを言おうとして口を開くだけでなにを言いたいのかが解るほどになっていた……。
しかし、もともと若い二人に較べ、自分のそれはなんとハードだったことか。慧人はこの三月ほどの苦しかった日々を想い起こし、熱いものが込み上げるのを感じた。
「いよいよ、始まりね」
アンヌが眩しそうに前方へ眼をやって言った。
「さあ、行くぞ――」
慧人がアンヌにやっていた眼を、渺々とひろがる砂の大平原に転じて言った。
そのまま無言で三人は灼けつき、さらさらと崩れる砂の上を一歩一歩と踏み締めるようにして歩いた。アンヌのコムパッドにはときおり、男たちの、口中に溜まった唾液を飲み下す音が聞こえた。これは、他の男たちにも同じことがいえたろう。
特製アクアスーツと特製ゴーグルのお陰で、セ氏五十三度の外気温も気にならなかったし、遊泳用にも使える幅広のデザートブーツを履いていたので、足が砂に埋もれることもなく、徒歩での行進もさして苦にならなかった。欲を言えば、背中の荷物がなければもっと快適なのに。彼女は思った。いくら万能のアクアスーツだからといって、背中に張り付いた荷物の荷重まで軽減してくれることはないのだ。
ケイトはバックパッカーなんかの経験はあるのかしら。彼女は思った。若いうちは、誰でも遠くへ出かけていって、それなりの冒険をして帰って来るというのに、不幸にして東洋に生まれた彼には、その面白さが分かってないのかも知れない。この仕事が一段落したら、一度かれと旅の話でもしてみよう。それに男だというのにケイトという名前も変だ。フォアライン博士は、女の子を望んでいたのかしら……。
当初こそこんなふうに、あれこれと想像を楽しんでいたアンヌも、ついに長距離歩行の疲れが出始めた様子だった。歩く速度が他のふたりにまして遅れがちになり、ふたりはときおり、彼女がちゃんとあとを従いて来ているかどうかを立ち止まって確かめなければならなくなっていた。
「そろそろ疲れが出始めたようだな、アンヌ」
慧人が、足を引きずるようにして歩くアンヌを振り返って言った。「ここいらで休憩時間を取っておくとしようか」
「いいえ、まだ駄目よ」
アンヌは気丈を装って言った。「完全な日暮れまでには、もう少し時間があるわ。あと少し行ってからにしましょう」
言いながら、彼女はその場に座り込んでしまった。慧人がそう言ってくれなければ、恐らく棒のようになった足を抱えて途方に暮れてしまっていたことだろう。
「そうね。やっぱり、わたしたちには休息が必要なようだわ」
アンヌは足をさすりながら、《わたしたち》を強調して言った。
「そうだろう。われわれもそう思っていたところだ」
慧人も《われわれ》を強調し、クーガーに目配せをくれながら続けた。「あとあとのことを考えれば、われわれはここで《休息》を取っておく必要がある」
三人は並んで腰を降ろし、暮れなずんでゆく砂漠の丘陵とその黒いシルエットをつくりながら沈んでゆく赤い太陽を眺めた……。
辺りには人影どころか、動物の姿もなく、音ひとつとして聞こえてくるものはなかった。それを眺めていると実に平和な想いがして、いまが戦争のさなかで、自分たちはその敵地に乗り込んで行くのだということを忘れそうになったほどだった。クーガーが無言でアルカリイオン入り水筒を回して来た。乾いていた喉に、それはやすやすと入って行った。
「ねえ、ケイト。ひとつ、質問していいかしら」
アンヌは、この仕事を終えてからと思っていた、さきほどの質問を思わず口に出して言いそうになったことに自分でも驚き、半ば後悔して水筒の水を飲むふりをした。
「なんだね」
彼女の後悔をよそに、ミニCOMからのかれの声は大きかった。
「人間って、この先いがみ合わずに生きていけると思う」
後悔が、べつのことばを口走らせていた。ほんとうは、そんなことを訊ねたい訳ではなかった。人間ということばの意味が、《わたしたち》ということばにコード変換されて聞こえるといいんだけど……。あいにくこのCOMパッドは、そこまで賢くはない。
「さあ、どうだろうね……」
慧人は興味なさそうな声でぼそりと答えた。「たぶん、無理なんじゃないかな」
「どうして」
質問を発した手前、そう問うしかなかった。
「どうしてって、現にこうして長年戦争をやってきてるじゃないか」
「それは、いきがかり上そうなったまでのことでしょう。本質的に人間っていうのは、どうしようもない生き物で、いがみ合わなければ生きていけない動物なのかどうかってことを知りたいわ。訊ねたかったのは、そこなのよ」
とってつけたように、その場を取り繕って浴びせかけた質問の所為で、変なところに力が入ってしまったようだ。ちょっぴりヒステリックな議論口調になったのは否めなかった。こうなっては、この延長線上で話を進めていくしかない……。
「うむ。考えたこともないな」
まったく意に介していないように、慧人はのんびりと言った。
「こんな、きれいな夕日を見ていても?」
「……………」
「ごらんなさい。自然は、実に平和で美しいわ。人間が地上でなにをしていようともちっとも文句を言わない。人間が勝手に殺し合っていても、そのことで自然同士がいがみ合ったりすることはないわ」
「科学者らしくない感傷だな」
慧人は言って、右手ですくった砂を拳の間から流した。「自然は、人間のためにあるんじゃない。自然は、自然それ自体のためにあるんだ。だから、人間が自然のなかでなにをしようと、それが自然であるかぎりなんにも文句を言わない。ただ強く支配しようとすればするほど、人間の手から滑り落ちてゆく。まさに、この砂のようにね…」
「科学をすればするほど、自然はみじかになるけれど、肝心の心のほうはどんどん自然から遠ざかってゆくわ」
アンヌは、砂丘の端に消えゆく夕日の片鱗を眺めながら言った。「身体はついて行っても心がついて行かないの。とくに最近の、軍需産業を中心にして発達して来た科学技術の進歩には素晴らしいものがあるわ。でも、精神科学の分野では、いまだに二〇世紀の半ば頃に始まった化石のような理論が幅をきかしているのよ」
「化石のような理論というと――」
「心理学や哲学論議から始まった実体のない生命科学。統計学的解釈と大脳生理学が生んだ存在論的宇宙観とでもいえばいいのかしら……」
「どうやら、おれにはとんと不向きな議論になりそうだな」
「ごめんなさい」アンヌは正直に謝った。
こんなに複雑な気分を味わったことが、いままでにあっただろうか。まるで少女のようだ。変に相手を意識しすぎて、話がますます思わぬ方向にずれてしまっている。なにもこんなところへ来てまで、自分を賢く見せる必要なんてないはずなのに……。
「本当は、こんなこと言い出すつもりじゃなかったの。あなたにとって、わたしという女は、さぞかし鼻持ちのならない、虫の好かない女に見えることでしょうね」
「いや、そんなことはない――」
慧人は相変わらず前方の砂丘を見据えたまま、表情を変えずに言った。「だいいち虫が好かない女とだったら、こんなところまで一緒にきてやしないさ」
「そうだと嬉しいけど……」
アンヌは立ち上がって言った。「さあ、行きましょう。こんなところに座りこんでちゃ、よけいにセンチになって来ちゃうだけだわ」
「そのようだな」
慧人も呼応して立ち上がった。
クーガーも立ち上がり、彼女の手から水筒を受け取った。
三人はまた無言で歩み続けた。距離計によれば、目的地のまだ三分の一ほどでしかきていなかった。アスナジャ河の河湊は、まだまだあとの行路に控えているのだ。
いつの間にか周囲が完全な闇に変わり、なかば手探りのような状態で進まなければならなくなった。が、しばらくして眼が慣れて来るに従って、天空には降るほど無数の星々と巨大な月が出ていて、三人の動く影をつきまとわせているのがわかった。
周りには、三人が踏み締めて出す砂のこすれる音のほか、なにも聞こえてはこなかった。この凍りつくような、吐息をひそめさせるほどの深い静寂と沈黙――それがなにを意味するのか。いや、本来そうあって当然の、自然のもつ静けさや無言さに特別な意味を求めようとする、それ自体が人間のもつ悪い癖なのに違いない。
アンヌは、男どもの沈黙から自分の気をそらすため、そんな取り留めのないことを考えながら歩いた……。
外気温は、日中より五十九度も下がっていた。氷点下三度。が、全天候型のアクアスーツと例の遊泳兼用のデザートブーツのお陰で、寒さはまったく感じなかった。
むしろ、速足行進の所為で胸の谷間や背中のくぼみに汗が流れてゆくのが感じられ、気味の悪ささえ覚えるほどだった。もっとも、その汗も自動的に気化され、ほどなく外界へ排出されるのではあったが……。
荷の重さが徐々に肩に食い込み、身体ごとを砂に沈めてゆきそうな気がした。彼女は立ち止まって、バックパックの肩紐の位置を直した。息が荒くなっていた。ふたりの男たちは、彼女の五・六メートル先を歩いているはずだった。というのも、三人の着ているアクアスーツが外光量の減少にともなってカモフラージュ・パターンの濃度を増していくシステムを内蔵しているので、肉眼ではよく捉えられなかったからだった。
こうしておくことで、慧人によれば多少の危険はまぬかれるはずだった。彼女は月の光が醸し出す、ふたりの黒い影を頼りに従いて行った。影だけは黒く、まるで生き物のように独自の動きをして彼女の行く手を指し示してくれるのだった。
一三
「ちょっと待って。なにか聴こえない」
砂漠の地中音に関しては特別敏感な感知能力をもつアンヌが、足を止めて言った。
ゴーグルから接続された耳元のセンサーから、非常に小さな警報音が流れたような気がしたのだ。
「いまも聴こえるわ、ほら」
「ああ、おれにも聞こえる」クーガーがミニCOMで答えた。まるで耳元で囁かれているようだ。「どうやら、この近くに敵さんの仕掛けかなにかが潜らせてあるって訳だ。ふん、まったく敵さんもなかなかやりやがるぜ――といいたいところだが、却って墓穴を掘ることになるってことに気づいてないらしい」
「しっ。静かに――」慧人の声が言う。
「ディテクター(検流器)を見ろ。右だ。2時の方向」
クーガーの緊張した声が走った。アンヌは、リストウォッチのボタンを押し、表示灯のついたディテクターを見た。確かにその方向には、なにかがあるようだった。耳元のセンサーからは、さきほどの音がまだ続いている……。
「でも、アスナジャ河畔はまだまだ先よ。あと六マイル半ほどもあるわ」
「エリントセンサー(電子情報探知機)を使え」
慧人が言った。落ち着きと冷静な判断力。そして、準備。これが慧人をいつもシニカルで静観的に見せながら、いざというときには決断力を発揮できる人間にしているのに違いない――アンヌは、日に夜をついで、今回の諸機器を考案した慧人の強靭なまでの集中力を思った。
しかし、やっと背中の荷が活躍するときがきた。そして、肩の痛みや腰の痛みから解放される、ほんの一瞬の間隙が……。
「ダミーじゃない。ほんものの地下要塞だわ」
アンヌは自分でも驚いて、エリントセンサーのデータを眺めながら言った。「でも、このデータを見るかぎりでは小粒の要塞ね。たぶん、兵士を含めて一〇〇人もいないんじゃないかしら」
「ふむ。かもしれん」
慧人は、彼女の横にきてデータを覗き込んで言った。「だが、そうでないかもしれん」
「あなたは、自分の作った器械が信用できないの」
「そりゃそうだ。おれはなにも天才と限った訳じゃないからね。ときには、失敗をやらかすこともある。が、まあ、そうも恐れることもあるまい。こっちには、遠距離ステム・デストラクターの名手もいるし、きみという頭脳明晰なインティグレイターがいるんだ」
「そうだわ。ナイトスコープよ――」
アンヌは憶い出したように叫んだ。「それには、あれがなくちゃだめだわ」
「ご心配なく、マドモワゼル。そういうこともあろうかと、そのゴーグルにはちゃんと装備してある。左横を触れてごらん。小さな突起がある。そいつを押せばいいようになってる。使わないときは、もう一度おす。それでいいのさ。簡単だろ」
「それならそうと、初めから言っておいてくれればいいのに。この暗いなか、あたしは何度も転びそうになりながら、手探りで歩いていたのよ」
「まず、この闇に慣れておいてもらわなければならないからな」
「あなたも相当な――」
「相当な、なんだ」
「いいわよ、もう――」
ふたりが明暗順応やらなにやらと減らず口を叩いている間、クーガーはひとことも口を差し挟まなかった。暗視装置のスウィッチを入れ、センサーに耳を傾けながら遥か前方を見やっていた。
クーガーは、もちろん生身の人間で、洗練された知力をもつ一人の現存在ではあったが、その共同存在たる他の人々への顧慮を欠いていた。というより、そういう風には彼の脳はプログラムされていなかった。上からの指令(=行動プログラム)にはとことんまで追従し、その能力の最大限を費やして任務を遂行するが、とくに人間間の感情的な機微については疎いか、またはまったく関知しないように精巧に方向づけられているのだった。
ツヴァイゼン博士が以前、例の調子でアンヌに語ったところでは、ほとんどの人間がやりたいと思っていることや理想とするところのものを完遂できずにいる。だが、それは、実に感情というやっかいなしろものを後生大事にするあまり、目的を見失ってしまうからだというのだった……。
確かに感情は、その行動までも支配する。感情によって人生を狂わせられられたり、なにかに失敗して大切な人を失ってしまったりする人もいるかも知れない。が、人の思いや意志というものは、そんなにも簡単に変容してしまうものなのだろうか。アンヌは、いつしか慧人との話題も途切れ、ひとり無言で、見えない敵情をスコープしているクーガーを眺めながら思った。
「誰かが近づいて来る」
クーガーが両眼を閉じたまま片手を耳元のセンサーに宛てがい、もういっぽうの手で音量調節ボタンを操作しながら言った。「このリズムは、比較的小さな人間の呼吸数と一致している……」
慧人の顔色が変わった。が、一瞬のうちに元の冷静な貌に戻って訊ねた。
「距離はどのぐらいだ、アンヌ」
クーガーにではなく、エリントセンサーの前に陣取っているアンヌに彼は訊ねた。
アンヌは急いでナイトスコープのスウィッチをオフにし、エリントセンサーの監視装置画面を見た。そうしないと、却って画面やキーボードが見えにくいからだった。が、それより先、クーガーが遠距離ステム・デストラクターを構えて言った。
「距離、およそ二五〇〇フィート。三人いる」
アンヌが移動体探査システムで検索を始めるより先に、クーガーの眼は、すでに三人の人間の姿を捉えていた。慧人は前方の闇に瞳をこらした。が、ナイトスコープでもそれを人間の姿と認めるのは難しかった。こんなことでは、エリントセンサーのハイテク機能も形無しだな。慧人は苦笑いしながら思った。
「三人とも銃をもってるわ。それも、ぐんと大きいやつ……」
アンヌがエリントセンサーのズーム機能を操作して言った。「こんなところで、あれを使わせちゃまずいわ」
「たぶん巡視の連中かなんかだろう。銃器の種類はなんだ。どんなものをもってる」
慧人は、ミニCOMの音声回路を通じて喋っているにもかかわらず、声を低く落とし、声帯域のバイブレーションだけが耳に届く範囲で言った。
「よくわからないわ。新手の火器かもしれない……」
クーガーが遠距離ステム・デストラクターの銃身を立てた片膝の上へ固定し、ファイア準備の姿勢をとった。
「待て。こっちが余計な手だしさえしなければ通り過ぎてゆくさ。やりすごせ。やっこさんたちがわれわれに気づいているはずがない」
「けど、やっこさんたちはまっすぐこちらを向いて歩いて来ているぜ」
クーガーが相変わらず遠距離ステム・デストラクターを構えて言った。「このままじゃ、三分も経たないうちにおれたちはぶつかっちまう」
「やっこさん」たちという情緒的ニュアンス表出のための機能語――いわば慧人の乱暴なことば遣いに呼応して、クーガーはさきほどまでとはがらりと雰囲気を変えて言った。
フィクサロイドの悲しい習性とはいうものの、この場合のかれの言い方は、あとの二人のいまの気持ちにぴったりしたものを感じさせた。いずれにせよ、今後のかれの情況語に対する語彙習得能力は、ことあるごとに集積され、より精確になっていくに違いない……。
「アンヌが言ったように、ここで撃ち合うのはまずい。なんとか、ぎりぎりまで待とう。よしんばうまく三人を倒せたところで、アスナジャに行き着くまでに俺たちの存在が知れてしまう危険性がある」
「それもいいけど、こんなのはどう?」
アンヌは慧人のことばを半分に聞き、ある思いつきに自分でも興奮を禁じ得ない様子で言った。「この三人に、あたしたち自身がなってしまうのよ」
三人に短い沈黙が訪れた。アンヌは、なにかに精神を集中するような熱心さでモニター画面中の人影を凝視している。それは確かに、回れ右をする様子はなかった。
「悪くはないな……」
〇・六秒後、慧人がぽつりと言った。
「でしょ?」
「反対はしないぜ」
クーガーが《あんたはどうなんだね》とでも言うように、慧人に顎をしゃくって言った。
「そうするか」
慧人がそう言うが早いか、クーガーの遠距離ステム・デストラクターが、あたかも指を弾くようにカチリと鳴った。一発、二発、三発。三度のカチリがあっという間に終わっていた。ズーム画面には、不意打ちを喰らわされた三人の兵士が横たわっていた。
「さすが、天才的ステム・デストラクターの名手だわ。たったの〇・〇八秒で、三人を倒してしまうんだもの――」
アンヌがエリントセンサーのディジタルウォッチを見て言った。
慧人は、ふとクーガーと初めて出会ったときのことを想った。もしあのとき、かれに逆らっていれば自分も即座にあんな姿にされていたろう。彼らの脳は、もう二度もとには戻らないに違いない。この遠距離ステム・デストラクターは、スウィッチの設定いかんでは携帯用のそれとは違って完璧な兵器なのだ。
クーガーがどのレベルにセットしているかは知らないが、彼らは二度と戦場に赴くことはしないだろう。生命や言語能力までなくなりはしないが、色恋や人間の感情になんの興味も抱かないフィクサロイドなどより、もっと深刻に彼らの脳は破壊されたはずだ。いわば、動く植物人間とでもいおうか――。
「さあ。行こうか」
慧人がバックパックのケースを背負って言った。アンヌがエリントセンサーを折り畳み、バックパックにしまった。クーガーはすでに立っていた。
局面は変化した。これからは、単なる敵地潜入作戦ではない。れっきとしたザンボア軍の兵士として敵地に赴くのだ。幸い敵にはまだこちらの存在は知られていない。ただかれらの通信装置が声紋反応式のものでなければいいのだけれど……。アンヌは微かな不安を覚えながら、兵士たちの倒れているところへ向かった。
一般にステム・デストラクターに被弾した者たちは、高範囲で高密度なイレイザー効果によって、過去三年間ほどの記憶を剥奪されるが、ことばを操ったり喋ったりする機能や思考回路までも失ってしまうのではなかった。ちょうど、ロボトミー(白質切断術)で海馬回周辺を切除された患者たちのIQや理解力が、そのために以前より劣ってしまうことがないのと同じだ。
ただ著しい前行性健忘症と記憶喪失が起こり、大抵の被弾者は自分がなぜここにい、なにをしていたのかを知らない。そして、とりわけ自発的意志を喪失し、自ら立案し、計画し、それによって行動する意欲を持ち合わせなくなるのだ。それゆえ、ステム・デストラクターのことをキャベツメーカー(植物人間製造機)などとふざけて呼ぶ者もいる。慧人もいつしかそんなことばを覚え、人前で平気で使うようになっていた。
「キャベツの意識を醒まさせろ」
慧人が言った。三人の兵士は、黒と茶のカモフラージュ・パターンの背を見せ、進行方向に向かったままの姿勢で俯せに倒れていた。というのも、ライフルの銃弾などと違って、ステム・デストラクターには衝撃力がない。したがって、前から撃たれたとしても、そのjま意識を失って前に崩折れるだけなのだ。
それぞれの兵士の横には、中型のレーザーキャノン(熱線放射器)が砂の中に埋もれるようにして転がっていた。苦い後悔のようなものが、慧人の胃をよぎった。が、すでに命中してしまったものはしかたがない。まして『そうするか』とクーガーに口走ってしまったのは、ほかでもない自分自身なのだ。
非情緒的で怜悧。理性的で、二値論理的な思考回路しかもたないフィクサロイドにあっては『そうするか…』も『なんだか、やらなくちゃいけないみたいだな』も『そんな気もするも、単なるトートロジー(同じ意味の反復)に過ぎないのだ。それがどんなにレトリカルで複雑な文章構造をもち、微妙なニュアンスを含んだ言い方であっても、クーガーにとっては、最終的にはただひとつの意味でしかもたない――。
人間の場合、なにかを宣言しようとするとき、内心で言いたいと思うことの半分くらいを曖昧にぼかして話し、そうすることで安心感を得る。それは、言質を取られ、後で責めを負わされるのを潔しとしないという、いわば逃げの心理が働くからだ。ところが、共時発生的な意味での近似値選択システムを内蔵されているフィクサロイド、とくに兵士として軍務優先の頭脳に改造されたクーガーには、人間に起こる通時的心理空間の変化が正確には理解しえない。とくに一般の言語主体によくある、内的空間の変容ということが論理的に正確でない限り、不完全にしか把握することはできない。すべては、不要な夾雑物として捨て去られてしまうのだ。
クーガーが無言で腰をかがめ、倒れている兵士のひとりを後ろから抱きかかえるようにして起こした。続いてアンヌがアトロピン液を注射しようと、兵士の腕をまくる。と、その瞬間、彼女は息を飲んで動作をとめた。
「どうしたんだ」
クーガーの後ろからアンヌを見下ろしていた慧人が訊ねた。
「この兵士は、女だわ。それもほんの子どもよ」
アンヌの顔には、なんとも言いようのない恐懼の表情が浮かんでいる。
強烈な罪悪感に襲われたかのように、アンヌがつぎつぎに兵士たちを仰向けにした。その顔のどれにも夜間の砂漠に適したカモフラージュ・パターンが施されてあった。が、その黒いまだら模様をふき取ってみるまでもなく、この兵士たちが女――それも、十二・三歳ほどの少女たちであることは明らかだった。
「この者たちが女であろうと、また子どもであろうと、兵隊は兵隊だ」
クーガーが立ち上がって言った。「相手は誰であろうと、こちらが敵と見れば発砲して来る。あのままにしておけば、おれたちのほうが殺られていた……」
確かに、クーガーの言うとおりだった。
ここは戦場で、子どもたちがよくやるサバイバルゲームの丘や林ではないのだ。相手がたとえおんな子どもであったろうと、このようなレーザーキャノンや電子通信機を携行し、ザンボア軍特有の黒と茶の戦闘服を着ている限り、れっきとした戦場の兵士だった。
まかり間違って、あのとき一瞬でも躊躇していれば、いまごろは三人とも身体の芯からこんがりと焼き尽くされ、みごとな人間ローストになっていたことだろう。
戦場では、殺るか、殺られるかだ。その中間というものはない。予想していたことではあったが、こうして現実になってみると、あまりいい気がしないのも事実だった。
「いいから、眼を醒まさせろ」
慧人は厳としてアンヌに命じた。ここで同調していてはならない。この動揺が、同情が、なまじっかな良心の呵責が、今後の作戦の鍵を握るのだ。ここでの指揮権を握っているのはほかでもない、このおれだ。ここで失敗すれば、もっと悲しい死者の貌を見ることになる。おれたちの後ろには、何億何十億という人々が控えている。ここは心を鬼にすることだ。慧人は思った。
「起きて。眼を醒まして」
アンヌは、少女の腕にアトロピンを打ったあと、その頬を平手打ちしながら言った。何度めかの打擲のあと、少女はうっすらと眼を開いた。が、意識がもうろうとしているのか、視点が定まらなかった。少女はぼんやりした表情のまま、アンヌの顔を眺めた。そして、なにごとか小さく囁くような声で言った。
「なんて言ったの」
アンヌは、クーガーを振り返って言った。共通語と自国語でしか話さず、南亜語族の用いる言語など学校で習ったきりで一向に耳にしたことのないアンヌには、少女の発したザンボア訛りのことばの意味が理解できなかったのだ。
「きみをママだと思っている」
クーガーが感情を含まない、静かな声で言った。「自分がなんで、こんなところにいるのかを訊ねているんだ」
「そう。残念だけど、あたしはあなたのママじゃないのよ」
アンヌは言い、少女の頬を撫でながら先を続けた。「でも、あなたに危害を加えたりはしないから安心して」
アンヌは、努めてゆっくりと南亜語族の公用語を使って言った。少女は、彼女のことばが理解できたのか、こっくりと上目使いに頷いた。少女の話すことばにはザンボアの方言が混ざっていたが、聴くことに関しては公用語が通じるようだった。多分、兵士としての訓練も公用語でなされているのだろう。
「できれば、あなたの名前を知りたいわ。教えてくれる?」
「ルメラ」
アンヌはクーガーを見やり、かれが頷くのを見て、少女に顔を戻して言った。
「そう。ルメラというのね。あたしは、アンヌ。それで、教えてほしいんだけど、ここはどこ、あなたはどこから来たの。どこに住んでいるの」
精神鑑定の際の基本的な質問項目のひとつだった。少女は、答えようとして口を開いたが、声が出て来なかった。声というより、ことばそのものが憶い出せないようだった。
「やめろ。いくらやっても無駄だ。ステムは、充分破壊されている」
クーガーが、さらに質問を続けようとするアンヌを圧し止めるように言った。「それより、われわれはこの兵士たちの戦闘服を身につけることはできない。きみの作戦は、変更されなければならない」
「わたしがこの兵士を起こさせた、もうひとつの理由を言おう」
慧人が、クーガーのことばを引き取って言った。「この兵士の司令本部へ異状のないことを報告させて、少しでも時間を稼げるようにしておくためだ。彼女の胸の認識票を調べて、IDナンバーと現在名を調べた上で連絡させろ。ルメラというのは、この少女の幼いときの呼び名かも知れんからな。
それとこれはアンヌに言っておくが、明日になれば、この兵士たちは回収されるだろう。だから、心配はない。だが、少なくともそれによって、われわれの行動も自由にできることが保証されたという訳だ。クーガーの言うように、彼女たちの戦闘服はわれわれの身体には合わないだろう。作戦は、計画どおり――」
「ありがとう。分かったわ、ケイト。もうそれ以上、言わないで」
アンヌは、ゴーグルを通した慧人の眼を見て言った。
クーガーは、少女の首にかかった鎖を手繰って、認識票を確認しにかかっていた。少女は、ようやく意識がはっきりして来た様子で、三人のやり取りを不思議そうに眺めていた。 認識票で彼女の氏名とIDナンバーを確認し終え、なにごとかを手帳に書き留めたクーガーは、顔をあげてザンボアの方言で言った。
「さあ、ルメラ。おまえは、字が読めるか」
少女は、にっこりと笑みを浮かべて頷いた。その顔は、まるで母親に自分の得意なことを訊ねられたときのように誇らしく輝いていた。クーガーは彼女によく見えるように、その傍らへ手帳を用意して、電子通信機の送信ボタンを押した。
「では、これに向かって『こちら、23a?6039。こちら、23a?6039。現在、ズハンガ丘陵を北北西に向かって進行中。もう間もなく、トロゲアの南端にさしかかる予定。これまでのところ異常なし。どうぞ』と言うんだ。覚えられなかったら、これを声に出して読め」
少女は傍らの手帳に眼をやって一読すると、差し出された電子通信機に向かってなんの躊躇も戸惑いもなく、すらすらと口に出して言った。その声や顔は明るく得意げで、面白い遊びの仲間に加えてもらった子どものように見えた。
クーガーは、応答ボタンに切り替え、向こうの反応を待った。
しかし、数秒経っても何の応答もなかった。
「もう一度、同じことを言え」
少女は、もう一度すらすらとザンボア語で同じことばを繰り返した。相変わらず、このお遊びが楽しくって仕方がないというように……。
『こちら、AP6。アブダル・イ・ロワットだ。23a?6039――ルメラだな。ラク・ルーは、どうした。なにか反応をキャッチしたんじゃなかったのか。応答せよ』
はっきりとした男の声が聴こえた。アンヌの眼が、慧人のそれと出会った。クーガーは、いったん回線をきり、さらさらとザンボア語を書きしたためると、無言のまま、少女に見せた。ダブルプッシュ式の回線ボタンを不規則な間隔をおいて点けたり消したりしながら、少女の口元にもって行く……。
「AP6。こちら、ルメラ。よく聴きとれません。もう一度、言ってください」
少女がすらすらと声に出して読む。どちらかといえば、屈託のない陽気な感じで……。『こちら、AP6。アブダル・イ・ロワットだ。すごく陽気な声だが、ラク・ルーはどうした。そこには、おまえ一人なのか、ルメラ。ラク・ルーがさきほどの連絡で、なにか動くものの気配をキャッチしたと言っていた。なにがあったのか。報告せよ』
その間、クーガーはまたなにかを手帳に書き記して、彼女に見せた。
「あれは、なんでもありませんでした。ラク・ルーの見違いでした。その後、前進を続けていますが、近辺に異常は見当たりません。どうぞ――」
『ルメラ。いいか、よく聞け。それ以上、前進するのは危険だ。それにわれわれの無線は、敵側に傍受されている可能性がある。三人とも、二三五〇までにRSポイントまで後退し、そこでわれわれからの連絡を待つようにせよ。それまでよほどのことがない限り、無線は使わないようにせよ。これ以上の無線使用は、きみたちの生命を危うくする。いいな』
クーガーが、手早く書いたものを少女に見せた。
「われわれ三人は、二三五〇までにRSポイントまで後退する。そして、そこで司令本部からの連絡を待つ――これでいいですか、どうぞ」
『よし。そのとおりだ。二三五〇時点で、きみたちと連絡が取れない場合、なにかあったものと見て、きみたちの救出に向かう』
クーガーは手帳の一ページに大きく書いた文字を示して、少女に顎で促した。
「了解」
少女がそれを読み、素早く言い終えるのとほとんど同時に、まるで断ち切られでもしたかのように相手側の断続音が消えた――。
一同の顔が、ほっとしたように緩み、それぞれの深い溜め息が辺りの静寂に吸い込まれていった。月光の下の、音ひとつしない暗闇の世界……。それは、砂漠特有の果てしない茫漠さを象徴するかのように、孤独な三人の姿を浮き上がらせていた。
一四
「アスナジャの河湊まで、あとどのくらいだ」
慧人が沈黙を破り、さきほどよりは足早に歩いているアンヌに向かって言った。
「そうね。ほぼ四・五マイル。いまの調子だと、時間にして、あと一時間五〇分ってとこが必要かしら」
「ということは――」
慧人は頭のなかで、素早く計算を弾き出して言った。「三五分後、敵が例の女兵士からの連絡がないのを怪しんで出動を開始したとき、おれたちに残された距離は、ほぼ一マイル――時間にして、三五分間弱が勝負時ということになる。その三五分間弱で、やっこさんたちがどこまで敵地である、このズハンガ丘陵を突進して来ることができるかだ。
AP6というのは、恐らくさっき、エリントセンサーに引っかかった地下要塞のことだろう。ここらで、もう一度、その方角と距離を確認しておいたほうがいい」
「そういえば、耳元のセンサーがあれ以来、さっぱり途絶えているわ」
アンヌは、肩の荷を降ろしながら言った。「下手をすると、敵さんの真っ只中に踏み込んでしまわないともかぎらないわね」
「ザンボアの歩兵部隊は、砂漠の上の行進でも、ひと晩のうちに五〇マイルを走破することができる」
クーガーがバックパックからチューブ(液状食糧)を取り出し、ふたりに手渡しながら言った。「かれらの脚力は、ふつうの人間の二倍近くもある。われわれと同じように考えていると、痛い目に合うのはおれたちだ。かれらは、驚くほどの速さで進んで来る」
「それも、一睡もせずにな」
慧人が手渡されたチューブの縁を噛みちぎり、その縁をぺっと吐き出して茶化すように言った。が、クーガーは眉ひとつ動かさずに続けた。
「以前、ザンボアの歩兵を甘くみて、自分の隊ともども人間ステーキにされた将校が何人もいた。知識と実戦経験の不足が招いた、もっとも不名誉な死だ」
「辛辣きわまるお話だな。肝に銘じておこう」
慧人は言った。確かに自分には実戦経験はない。それどころか、こんな砂漠を踏破した経験すらもないのだ。さかしらに上官ぶってみたところで、なんの得にもならない。ここはクーガーの言うとおり、慎重を期すにしくはない……。
「出たわ。三時の方向。距離は、ちょうどこの丘陵の真裏にあたるところ。地下およそ十五メートル。ここから、ほぼ十六マイル離れた地点にあるわ」
「なるほど。うまく地形を利用して、モグラごっこをしてらっしゃるって訳だ。どうだ。まさか、そこからこちら側に向かって、地下道なんかが掘ってあるなんて言わないだろうな」
「大丈夫みたい……」アンヌがエリントセンサーを覗き込みながら答えた。「どうやら、地下要塞だけのようよ。要塞以外はすべて緊密レベルで一致して、空隙反応が出て来ないもの。いくらなんでも、まだそこまでは進んでないのじゃないかしら……」
「そうか――」と慧人が引き取って言う。「おれたちみたいな者にも、神さまってえのがツイてらっしゃるって訳だ」
クーガーが言うように、たとえザンボアの兵士が倍のスピードで行進したとしても、自分たちが向かうところに行き着くまでに、最低、三時間半はかかる……。こうなればしめたものだ。まさか空撃戦略を得意とする敵地を、威風堂々と戦車や装甲車で行進して来るほど、迂闊なザンボア軍でもあるまい。
「それにしても、そのAP6が言っていたRSポイントというのが気になるわね。いったいどこにあるのかしら。それらしい反応が少しも出て来ないわ……」
「たぶん、やっこさんたちの暗号で、どこかの地点をそう名づけているのさ」
「それにしても、あと三五分くらいで行けそうなところといえば、いくらもないわ。後退せよという限りは、どこかこの辺りになにかがあるはずだわ。そうでなきゃ、変よ」
「クーガーは、どうだ。おまえの意見を聞かせてくれ」
「意見は、愚論の始まりに過ぎない。おれは事実だけをありのままに言う」
「なんだ。その事実というのは――」
慧人が、拗ねたような顔でそっぽを向いたアンヌを制して訊ねた。
「ザンボア軍は、つねに三角形を基準に行動する。彼らの後退は、われわれのそれのように来た道を戻ることを意味しない」
「どういうことだ」慧人が訊ねた。
「つまり――」クーガーは、砂の上になにか絵のようなものを描き始めながら言った。
しばらくして二人の眼の前に現れたそれは、明らかに三人がこれまで何度も頭のなかへ叩き込んだ、ズハンガ丘陵と対岸のキュワナチ丘陵に挟まれたアスナジャ河周辺を俯瞰する簡単な地図だった。アスナジャ河は、トロゲア街道の終点に位置する河湊付近を最後に南に向かうほどに河幅を増し、大きく広いエイドス湾に達して終結する……。
かれは、アスナジャ河の対岸にあるオキシフィルトレータの設置場所と推定される地点とさきほどエリントセンサーで確認した地下要塞、そして、あの三人の兵士を撃ち倒した地点とを結んで二等辺三角形を描き、その頂点となる尖端を示して言った。
「かれらが後退の指令を出すとき、この三角形の頂点にいる者に対してなされる。頂点にいる者は、この二辺のいずれかの方向を取らねばならない。Rは右、Lは左を意味する。知ってのとおりSは南、Nは北だ。従って、RSポイントに後退せよと命令を受けた者は、進行方向とは逆の、南に向かって右の方向へ進めといわれたことを意味する」
「でも、それじゃ……。進むべき方向や角度は分かっても、距離、つまりポイントを指定できないのじゃなくって」
アンヌが割って入って言った。
クーガーは、さきほどの三角形のさらにその内側へ、オキシフィルトレータ地点と地下要塞地点とを結ぶ辺の二分の一の距離を頂点とした、逆向きの、小さな二等辺三角形を書いた。そして、それぞれの接点へ、左回りに小文字のアルファベットを順に書き記して続けた……。
「仮に大きな三角形の頂点である地点をA、地下要塞をBとすれば、小さな三角形の接する地点cが、かれらにとってのRSポイントということだ」
「なるほど。そうすると、ぴたりズハンガ丘陵の頂上に来るわ。つまり、それがかれらの待機地点という訳ね。理屈としては、確かにうまくできてるわ」
「つまり、ザンボアの軍は、このc地点で合流するつもりだというのだな」
慧人が小さな三角形が指し示す、それぞれの地点に思いを巡らせて言った。というのも、このクーガーの理論が『事実』であり、単なる蓋然論でないとすれば、そのb地点こそは自分たちが向かおうとするアスナジャ河湊に外ならないからだった。
「そうだ。かれらは、多分Bからa、aからb、そしてbからAへというコースをたどってやってきた。そうやって平坦なコースを取り、ズハンガの丘陵を遠巻きにしてやって来たからこそ、われわれと時間的にかち合ってしまうことになった……」
クーガーは、両者が時間的にうまく遭遇するよう速度の違った左右の指先をそれぞれの足に見立て、両者を器用に歩かせて説明した。
「――とすると、逆に言えば、いまb地点には、敵はいないと解釈していいのだな」
「俺の計算によれば、九一・二六パーセントの確率でいいと思う。かれらの光線屈折装置は、砂丘の裏側に埋められた地下要塞だけを気にして設けられていた。河の上にあれを設けるには、そうとうな技術力と年月が要る。いまの技術レベルでは、われわれにだってできやしない。あの三人は、いま言ったコースを巡回して、アスナジャのパイプラインやオキシフィルトレータの安全を見回っていた偵察隊の類いだ。A地点に達して思いがけない人影を発見し、報告しようとした途端、俺たちにやられた……」
「なるほど、妥当な推論だな……」
「推論じゃない。実際に、結果として起こった事実だ」
「分かった。もうそれ以上いうな。おまえの『事実』に基づく意見は、大いに参考にさせてもらう」慧人は、言い募りかけたクーガーの肩をぽんと叩いて言った。「さて、そうと分かったら、行くぞ。ぐずぐずするな」
実際、フィクサロイドというやつは、統計分析学やら論理数学なんかの素養があるだけにモウロク一歩手前の頑固じじいよりずっと始末が悪い。慧人は思った。モウロクじじいのたわごとなどと一笑に付す訳にはいかないのだ。
しかし、一笑に付す訳にいかないのは、自分も同じかも知れない。慧人は思い直した。結局は、ふたりとも同じ穴のムジナに過ぎない。人から変わり者と渾名されて育って来た自分が、手に負えないと感じる相手、クーガーというのは、他人から見れば大同小異、ともに滑稽で頑固な存在でしかない。かれは、苦笑いをしながらふたりの行動を促した。
この地上に残された永遠の砂漠――ズハンガの段丘は、あれからもなにごともなかったように静まり返り、なだらかな凹凸の陰影を描いて前方へ続いていた。いくつかの凹凸を越え、長い登りの絶頂にたどり着いたとき、ゆったりと音もなくたゆたうアスナジャ河が三人の眼の前にどっしりとした威容をみせ、まるで全天空パノラマで見るような光景を繰り広げていた。
月光に照り映えるそれは、まさに大海に注ぐ大河のうねり。それこそは地を這い、地を削り、何万、いや何十万年もの間、人類の生き死にや生物の興亡をその冷徹な眼で眺めて来た偉大にして聖なる王《アスナジャの眸》にほかならなかった。
「ようやくたどり着いたようだな」慧人がぽつりと言った。
確かにアスナジャ河のそれは、東亜大陸の外れ、しかも列島生まれの慧人を圧倒させずにおかなかった。元来が出無精で、公用以外にはあまり出歩くことをしなかったかれは、生まれて初めて、このように広大で、茫漠とした大河の威容を眼のあたりにしたのだ。大河のなかの大河、偉大にして聖なる王――アスナジャ。南北に文化を分け、両者を寄せつけずに来たアスナジャの大河よ。いま、汝の偉大さを知る……。
「噂に違わず凄いわね。なんだか圧倒されるわ」アンヌが蕩々とたゆたうアスナジャの流れに眼を細め、深い溜め息を吐くようにして言った。「いよいよ、『偉大にして聖なる王』アスナジャの眸のなかへ潜り込むって訳ね」
「これから、われわれの小さな水中ドラマが始まるのさ」
慧人がデザートブーツの底へ小型のサンドスキーを取りつけ、ゴーグルをナイトスコープに切り換えて言った。
「さあ、ここから一気に砂浜へ滑りおりるぞ。用意は、いいか」
「いいわよ」
「こちらもオーケーだ」
アンヌについで、クーガーが言った。
「よし。行くぞ」
慧人は、言うが早いか直滑降で砂丘を下る。慧人の後に砂煙が立ちのぼり、ふたりがその後に続いた。アスナジャ河が、口を開けた怪物のように見る見る目前に迫って来る。
平坦な砂の上ではなんの役にも立たなかったサンドスキーが、これほどまでに気分を浮き立たせてくれるなんて――まるで、スキーに来ているみたい――アンヌは思った。
アンヌは、存分に爽快感を味わいながら、他の二人とほとんど同時にアスナジャ河の岸に降り立っていた。アスナジャ河岸の砂浜は、思っていたよりもきめが細かく、砂の浜というよりは、打ち固めたセメント道路のようになっていた。これなら、敢えて道を設けずとも、百年ほど前の摩擦力を利用したタイヤ車で走ることだってできたろう。彼女はナイトスコープをオフにし、三人で下り降りて来た丘をふりあおいで見た。
その丘は、黒く重く、卑小な自分を圧倒するように聳えたっていた。
その空を覆うほどのシルエットを見上げた瞬間、彼女はさきほどの爽快感をすっかり喪なってしまっていた。不吉な予感が彼女の脳裏をよぎる。果してもう一度、三人でこの丘を帰ってゆくことはできるのだろうか。怖い。なにかが、彼女のなかで小さく震え上がっているような気がした……。
クーガーが悠久の大地を横切るアスナジャ河に視線を走らせ、左方の彼方にあるはずの湊の様子を確かめているようだった。もちろん、そこになにがあるかは、ふたりの眼には見えなかった。慧人は、砂丘の頂上を脅えるような表情で見上げるアンヌを見た。そして、自分も同じようにその頂きを見上げる。
果てしなく空に向かい、左右に伸び広がるその丘は、鉛色をやや黒くしたような、どっしりとしたシルエットを見せ、切り立った崖のように空を覆いながら、ふりあおぐふたりの姿を見下ろしていた……。
「アンヌ」慧人が彼女の肩に手をおいて言った。
「え」アンヌがびくっと肩をすくめ、慧人を振り返る。
「美観をお楽しみ中のところ、まことに申し訳ないんだが――いまから三時間後に、ADVが例の地点に来ているようにセットしておいてくれないか」
「ああ、ごめんなさい。あたし、すっかり……」
「まあ、いい」慧人はアンヌのつぎのことばを手で制し、さして肉づきのいいともいえない彼女のヒップを軽くパッティングして続けた。
「人間、ときには、自分を偽ってでも成さねばならないときがある」
アンヌが微笑み、無言で頷いた。彼はその場に腰を降ろして、手早くサンドスキーを取り外し始めた。クーガーがすでに用意を整え、ハンドスイマー(手動推進泳具)を小わきに抱えたまま、ふたりの動作を眺めて立っていた。アンヌは、ADVのセットをし終えるが早いか、すぐさまハンドスイマーに水中銃を取り付けて、準備を完了した。
いよいよ、始まるのだ――史上始まって以来の、最小にして最大の作戦。それが始まって以来、切に待ち望まれていた長期戦終焉への初端が、いま開かれる……。
三人は、目前に迫った水辺への数百歩ほどの砂地を一気に突っ切り、岸にたどり着くと、互いに顔を見合わせ、一・二・三の合図で音もなく水中に滑り込んだ。
水中でのハンドスイマーの調子は、きわめて良好。一定の力でグリップを握っているだけで、ぐんぐんと自分たちを引っ張って行ってくれる。
ここから、四・五ノットほどの速度で東に進路を取れば、南へ向かう水流がほぼ四〇度ほどの角度で彼らの身体を南東へ向かって押し流す。そうして一時間後には、ちょうどアスナジャ河を斜めに横断した形で、ザンボアの取水基地にたどり着くことができる。そし
て残る三時間のうち一時間を使って、敵のオキシフィルトレータとパイプラインの取水装置に時限爆弾とオキシイーター(酸素食剤)をセットし、来たときとは逆に進路を西に取って進む……。
その一時間後、斜めに到着したズハンガ丘陵の西南地点で、あのADV車が静かにかれらを待ってくれているという訳だった。
そうして三人がADVに乗り、帰途につく頃には、MFSの誇る巨大軍事シェルターのなかは、発電が止まった所為で、あらゆる機能がストップしていることだろう。さまざまの機械のオペレータたちは、徐々に暗くなってゆくシェルターのなかで、動力源を求めて右往左往。そのうち、清浄な空気も得られなくなり、全員が息苦しく感じ始める頃には、無数の地中戦艦や各種戦略兵器を格納するシェルターには、鉄砲水のような濁流がさまざまの機器や用具、塵・芥の類いまでも飲み込んでひたひたと押し寄せている。
いくら水を汲み出したくとも、排水装置への送電がストップされているかぎり、水浸しになる運命からは逃れようがない。そこにいる大勢の兵士やオペレータたちにしたところで、自分たちの生命を救うのが精一杯で、各種兵器や機器類のことまでを考えている心の余裕はないだろう。どんなに優秀で、無敵や精確さを誇る兵器や地中戦艦であっても、水のなかでは無用の長物と化すということをかれらは知っている。それこそ何十万年もの昔から、アスナジャ河は満々と水を湛え、尽きることなくエイドス湾に注いでいる。
人間は、自然の力を利用してなにかを行なうことはあっても、自然力そのものには抗いようがないのだ。MFSが頼みの綱とする、さしもの屈強なザンボア軍も最大の地下要塞をこれほど完膚なきまでに叩かれては、少なくとも数年の間は、反撃に転じようとする気は起こらなくなるだろう。
ツヴァィゼン博士が最新のデータを用いて調べさせた計算によると、ザンボアにはもう、あのように大規模な要塞を再建する資力は払底していた。そこを一気に和平交渉へと持ち込んでゆく。あとは、慧人ら民間人の知ったことではない。国と国との、いわば政治力と国威による駆引きの問題だった。
少なくとも、ここ半世紀ほどの和平交渉は、ことごとく失敗していた。が、今度こそは間違いなく成功するだろう……。アンヌは、慧人という新たな人材を得て、にわかに活気づきはじめた組織員たちの期待と信頼感を自分自身のそれに置き換えて思った。
アスナジャの水は、思っていたより澄んでいた。
慧人は自分なりの勝手な推測とはいえ、長年にわたる廃棄物や化学的な薬品などで、アスナジャ河の水はかなり汚染されていると踏んでいたのだ。かれがミニCOMを使ってぶつやくようにそのことを伝えると、アンヌが同じように頷いて同意を示すようなジェスチャーを送ってよこした。そしてクーガーが、いつもの感情を押し隠したような低い声で、それはアスナジャ河自体のもつ自浄作用の所為だろうと言った。
アスナジャ河にはたくさんのプランクトンや微生物が棲息する。つまりそれだけ、ここを棲み処にする魚たちには一等棲みやすい環境となっているということだ。
ハンドスイマーは、ちょうど両手の間に抱えられるようにしてあり、その照準はぴたりと東に合っている。が、身体こそ東を向いているものの、航跡モニターで見ると、南東に向かって進んでいることを示していた。つまり三人は、確実に四〇から四五度の角度で水流に圧し流され、ザンボア軍のオキシフィルトレーターに向かって進んでいるのだ。
深度百二十八メートル。眼下を後じさってゆく砂底には、海水も混ざっている所為か、無数の海水性と淡水性の生物が眠っていた。
光とてなく、色とてない漆黒の水中。ナイトスコープの撮像素子が送り出すモノクロームの画面だけを頼りにして進む闇の世界だ。
この戦争が勃発して以来、初めて採択され、試みられようとする破壊工作のための特殊プロジェクト──それは隊長慧人の指揮と二人の忠実なスタッフとともに練られ、敵地の動脈であるオキシフィルトレータに確実に潜入するためにだけ行われる秘密の作戦であった。
水中に棲む生物たちは、音も光も発しないで自分たちの上を泳ぎ過ぎる三匹の大きな生き物を自分たちの隣人と思っているのか、あくまでも静かに水底での眠りに身を横たえている。この作戦のためにだけ、特別に開発されたゴーグル内蔵のナイトスコープやハンドスイマーは、こんなところにも特殊効果を発揮しているのだった。
一六
「時間からすれば、もうそろそろよね」
アンヌが痺れを切らしたように言った。
慧人はその声に航跡モニターへ眼をやり、ついで周囲を見渡してみた。が、かれの眼には、いや、ナイトスコープの送り出すモノクロの映像情報からだけでは、それらしいものの姿を見出すことはできなかった。
さまざまなものの形や奥行きから、ある特徴的なものを見いだし、その在りようを正確に見定めるには、まず見かけに対する思い込みの排除ということが必要になる。並の人間がこれをやれば、あたかもロールシャッハテストの図柄から、ありもしない人面や物体の形を想像するのと同様、観察者の主観以外のなにものでもない代物ができあがる。
だが、特殊な論理計算脳を付与されているクーガーは、ふつうの人間のもつ主観反射的なものの捉え方を厳しく排除することができた。かれには、なんの変哲もない道端の石ころひとつからでも、客観的な、あらゆる情報を抽き出す能力が付与されているのだ。
「どうだ。なにか感じるか」慧人は、かたわらを泳ぐクーガーを見やって言った。
しかし、自分でも質問の不自然さを感じたのか、「──というより、見えて来たものがあるかと訊ねるほうがいいのかな」と言い直した。
「いや、まだだ」
クーガーはぶっきらぼうに答えた。「多分、もう少し先だろう」
その数分後、キュワナチの岸べりに沿って眼をこらしていたクーガーが言った。
「あったぞ。あそこだ。うまくカモフラージュしてあるが、俺にはわかる。あれがやつらの取水口だ」
「どれだ」
「右前方、二時の方向だ」
「なるほど。確かにあれじゃ、そうじゃないといわれても素人にはわからんだろうな」
慧人が、クーガーの教えてくれた、ほの暗い岩陰を見て言った。
「魚がたくさん群れているわね」
「たぶん、水を吸い取る動力の所為で、あの辺りの水が温かいからだろう。あるいは、かれらの使った汚水や汚物を吐き出す装置があるのだ」
クーガーがアンヌの観察に応えて言った。「つまりは、あそこに群れている大小の魚たちは、人間さまのなにから出た排泄物や要らなくなったグレイビー(汚物の類い)を、生命維持に必要なアミノ酸やタンパク質の代わりにしているということだな」
慧人が、いつものブラックな口を叩いて言った。
「あまり、ぞっとしないお話ね」
アンヌが、ぶるっと身を震わせながら言った。「そんなにご親切な解説を聞かせていただいちゃうと、ますます潜れなくなってしまうわ」
「それが本当だとすると──」アンヌの非難を無視し、妙にシリアスに聞こえる声で慧人がつぶやくように言う。「オキシフィルトレータは、あれより上か、その手前に設置してあるということになるな……」
「そうだ。自分たちの捨てた汚水を魚たちにくれてやるだけじゃなしに、またぞろジュース(飲料水)として汲み上げることにもなるからな」とクーガー。
「そうなりゃ、やっこさんたちも、さぞかしマンズグレイビー(うまい汁)を吸えただろうに」
「たぶん、あの人たちにとっては──」
慧人の、世にも下らないジョークにアンヌが負けじと言った。「とってもスーパージューシープロフィット(美味し過ぎる)お味なんじゃないかしら」
「かもな」
慧人が素っ気ない口調で返す。「それでは、われわれもひとつ、そのお味とやらを試させてもらうとするか」
そのことばを合図に、二人はクーガーの後について、さらに深く潜った。
そして入り組んだ岩礁の間を十六〜七メートルも進んだ頃、ふたりを仰ぎ見たクーガーが手のひらを向けて『ここで停まれ』の合図をした。水の流れとは逆の方向にハンドスイマーの推進口を向け、空いたほうの手で上方を指さす。その指先の前方には、巨大なテーブル珊瑚が口を開けたような岩棚があった。上からでは決して窺い知ることのできない構造物だ。構造物の表面にへばりついたヒトデや貝類の多さが、その古さと自然らしさを演出している。
構造物の縁に身をくぐらせ、瞳を凝らすと、人ひとりがやっと通れるほどの亀裂が斜めに走っていた。慧人が無言で亀裂を指さし、入るという合図を送る。ふたりがオーケーサインを出してそれに続く……。
亀裂と見えたそれは、三人を足した身長分も進まないうちに、坑道のような円筒形に変わっていた。前方に眼をこらすと、奥へ行くにしたがって、粗削りな坑道が急激に太さを増している。その意味で、ここはまるでアンプルの首にあたるといっていい。
「あれを見て」
アンヌが、慧人の後方から、自分たちの来た道を指さして言った。その坑道の先に例の亀裂が上下の凹凸を奇妙に一致させているのが見えた。
「まるで口を開けた二枚貝ね」アンヌが続けた。「ひょっとすると、あの裂け目は開閉式になっているのかも知れないわ」
「まさか──」慧人が受け流す。「見たところ、継ぎ目もないし、蝶番みたいなのも見当たりゃしないぜ」
「急ごう」クーガーが言った。
四・五人の男が並んで泳げるほどになった円筒形の内側をしばらく進む。
と、その奥に黒い色をした無数の棒が、まるでピアノの黒鍵のように立ちはだかっていた。埋め込まれた超硬質セラミックスの柵。魚やネクトンたちの侵入を防ぐためか、それとも慧人たちのような他所者の侵入を防ぐためなのか。あたかも一世紀前に犯罪者たちが入れられていた監獄のように、なに者かの侵入を拒んでいるのだった。
慧人はその向こうに、明らかに酸素の吸入口を防護していると思われる、蜂の巣のようになったオキシフィルトレータを見た。
「オキシイーターをセットしろ。時間は、0240」
「アイアイサー」
アンヌが言った。
彼女は、手早くオキシイーターの噴射装置をセットする作業に取りかかる。オキシイーターは、単純に図式化していえば、水を酸素と水素に分解し、海水に含まれるバクテリアの硫黄分と結合して二酸化硫黄となる性質をもっている。つまり、水から酸素を喰って姿を変えてしまうので、そう呼ばれているのだ。
だが、この場合、無限に流れ込んで来る水のすべてを二酸化硫黄に変えることはできはしない。そんなことをすれば、その作業をする自分たちまでもが毒にやられてしまうことになるだろう。彼女は、用意して来た透明の超高密度シールドを押し出す装置をクーガーに手渡し、それを柵の間に貼り付けるのを手伝わせた。
こうしておけば、新たに酸素が入り込むことはない。それに透明だから、ちょっと見にはなにかが貼ってあるとはわからない。棒と棒との間隙は、ほぼ十一センチ。もって来たシールドテープの幅が、それより若干長いのが嬉しかった。これがほんの数センチでも足りなかったら、作業時間は二倍になっていたろう。
「さあ、最終仕上げにかかるわよ」
最後に貼り残された柵には、ちょうど女の腕が肩まで入るほどの間隙が開けられている。彼女はできるだけ腕を伸ばし、オキシイーターの入ったボンベに刺激を与えないよう一個ずつていねいに蜂の巣部分に向けて転がす。もちろん慧人に言われたとおり、タイマーを0240にセットして。ボンベは、水平よりやや坂道になった勾配をまるでスロモーション画像のようにゆっくりゆっくりと転がり、オキシフィルトレータの入り口部分に向かって行く……。
「つぎは、パイプラインね」
彼女はすべてのボンベが所定の位置に停まったのを見定め、クーガーがていねいに貼り終えたシールドの出来栄えを満足げに見やりながら言った。「オキシイーターは、いまから三〇分後にイーティングを開始するわ」
特殊セラミックスのシールドテープで覆われ、一種の密閉状態にさせられたオキシフィルトレータ前の緊密なトンネルは、タイマーの作動後、二〇分もしないうちに全室を二酸化硫黄を大量に含んだ海水に変えることだろう。もしかすると、空気のあるオキシフィルトレータの向う側では、酸素と一体化した大量の亜流酸ガスが発生するかも知れない。そう思うと、アンヌの脳裏にザンボア軍兵士たちの阿鼻叫喚が浮かんだ……。
「さあ、アンヌ。仕事が片付いているのなら、退却だ」
慧人がアンヌの肩をつついて言った。これが空気中での動作ならば、叩くという表現がもっともふさわしかっただろう。
「あのセットで、うまくイートしてくれるかしら」
心とは裏腹にアンヌが呟くようにして言うと、慧人がアンヌの腕を引いて言った。
「大丈夫だ。さ、行くぞ」
クーガーはすでに、あのアンプルのくびれのようになった亀裂部分に向かって、二人の数メートルほど先を進んでいた。こんなところに長居は無用──妙な心配性に陥っている暇などないのだ。アンヌは気を取り直し、慧人の後に続いた。
円筒形の通路が尽きようとする寸前、クーガーがくぐもった声を出した。
「なんだ」
慧人が訊ねた。
「全員、壁面のどこかに身を伏せろ」
クーガーは、散れという合図をし、自分も上方のくぼみに向かって泳いだ。その声はするどく、あもうもなかった。全員が各々の壁面にたどり着き、適当なくぼみに身を隠した。誰がどの方向に逃げたのかは判らなかった。もちろんナイトスコープではなにも見えない。「ディテクターをセットしろ。互いの位置を確かめるんだ」
慧人が言う。言う間もなく、慧人たちの向かっていた方向から、眩しいばかりの光が周囲を襲った。アンヌが身を堅くした。最初、ひとつと見えた光源はふたつあるのが判った。
並んだ二つの光源が闇を照らし始めた。闇の中をゆっくりと移動していく巨大な光の束。まるで人間の眼のように、左右が同時に同方向に向かって動く。
それはじっくりと、執拗に周囲の壁をなめて行く。壁面にへばりつく微生物の一匹たりとも見逃しては、ザンボア軍の沽券に拘わるとでも言うかのように……。
慧人は、光の束が自分とは反対の方角へ向かった一瞬の隙を縫って出口のほうを探った。よく見ると、光源の下には小さな穴が二つ穿たれ、薄暗い光が漏れていた。多分、トンネル内の様子を見るために設置されたカメラアイだ。慧人は思った。ビジプレートで再生する映像を立体的に構成するためかも知れない。
全体を照らす大きな光源が怪物の眼だとすると、小さく光る二つのレンズはさしづめ鼻の穴ということになる。幸いにして全員が、光源からは影になるところに位置していることをディテクターは示していた。クーガーが数メートル離れた上方の壁、アンヌは、そのずっと下の自分とは反対側の壁。それぞれが壁のくぼみに吸いつくようにして息を潜めているのだ。
「おれたちが来ると、あの亀裂部分がすでに動きだしていて──」クーガーがミニCOMからの波長をもっとも短くして言った。「手前に差し掛かったときには、子どもの身体でも通れないほどになっていた……。俺たちは、閉じ込められたのだ」
慧人の背中に戦慄が走った。アンヌの心配が現実となったのか。そう思った途端、ずしりとした波動とともに、なにかがぴたりと止んだ。これまで体感していたはずの、すでに習い性となっていた振動音だった。瞳を透かして見ると、もう亀裂は見えなくなっていた。慧人は、急いで耳元のセンサーに注意を集中してみた。なんの反応もない。くそっ。なぜ、あの振動音に気がつかなかったのか──。
アンヌがコムパッドに触れ、こちらを見た。ことばを発しようとしたが、思い止どまったのだろう。彼女のミニCOMからは、くぐもった声と唾液を飲み込む音だけがした。
慧人は思った。あの亀裂はまさにこの怪物の口だった──彼女の言うとおり、上下に開閉するドアだったのだ。
「ということは、われわれの行動はすでに敵に察知されており、それで出られないように蓋をされてしまったということなのか」慧人は言った。
「可能性はふたつある」その質問を、クーガーが引き取って答えた。「ひとつは、あの裂け目が定期的に自動開閉を繰り返しているということ。もうひとつは、ケイトのいうようにわれわれの行動がすでに察知されていたということだ」
「どっちなの」
アンヌが声帯だけを震わせて訊ねた。
「これじゃ、まるで『ミイラ取りがミイラになった』ようなものだ」慧人は、平静を装って言った。「手はさまざまにあるが、しばらく様子を見よう──」
半ば負け惜しみ、半ば時間稼ぎの答だった。
原因は、証拠は、この状況をどう分析する。慧人の脳裡に目まぐるしい数の質問が押し寄せ、それらが一緒くたになって回転する。これがクーガーの言う、悪いほうの場合だとして、その理由にはどんなものが考えられるかだ。
もしあるとすれば、われわれが侵入したとき、なんらかの形で敵側のセンサーに引っ掛かったか、あの少女兵たちが発見されたことによってでしかない……。
しかし、それでは、必ずしもわれわれがここへ忍び込むことの理由にはならない。むしろ、前者こそが原因だろう。入り込むとき、なにか通常ではない異変のようなものがかれらのセンサーに起こったのだ。そうだ。このハンドスイマーのモーター音だ。それがかれらの感知センサーに引っ掛かったのだ。それとも、水中銃やハンドスイマーの金属が感知されたのか──。
仮に百歩譲って、金属を飲み込んでいる魚がいたとしよう。銛を打ち込まれた鯨か鮫の類いだ。だが、いまどき、そんなものを食糧にするやつはいない。よほどの物好きでもないかぎり、そんな原始的な漁法を採用しているやつもいないだろう。センサーに反応するほどの金属を携帯して、あの亀裂を通れるほどの訪問者となれば、複数のダイバーしかない──ザンボア軍のオペレータは、そう踏んだのに違いない。
こいつはちっとばかし、敵さんを甘く見過ぎたかも知れないな──慧人は、自分の軽はずみな決断を憶い返して思った。こうなれば、手早く打って出るにしくはない。まずあの鼻をやっつけ、入り口の二枚扉のいずれかいっぽうを爆破する、そして……。
考えをまとめ、ふたりに伝えようとしたとき、怪物の眼が閉じた。つまり、あれほど明るかった光が一瞬にして消えたのだ。アンヌがこちらを窺っているのが、ディテクターの様子で判る。もしかして、あれはなんでもなかったのかも知れない。クーガーがもうひとつの可能性として示したそれに過ぎなかったのかも知れない。そんな安心感が、慧人の心に頭をもたげ始めた……。
「ケイト──」心語こそ使えないが、勘のいいクーガーには慧人の心理が読めてしまったのだろう。かれは慧人が動き出そうとするのを圧し止めるようにして言った。「ライトは消えたが、カメラのレンズはまだ開じていない……」
「水中ナイトスコープの類いか」
「かも知れん……」
「あれを撃って、見えなくしてしまえばどうだ」
「だめだ。却って怪しまれる」
「じゃ、どうするのよ」アンヌが横槍から言った。「こんなところに閉じ込められちゃ、わたしたちまでが呼吸困難になってしまうわ。オキシイーターの作動まで、あと二一分しかないのよ。あれが作動してしまったら、この程度の容積じゃ、三〇分以上の延命は期待できないわ」
「その口を閉ざすんだ、アンヌ」
クーガーがぴしゃりと言った。その声は冷静でなんの焦りも感じさせなかった。むしろ高ぶっていないぶん、コンピュータの合成音のようでもあった。
「論理計算の結果、あれは定期的に開閉してトンネル内の状況を観察するための自動扉であることがわかった。あと暫く待てば、新鮮な海水を入れるためにドアが開くだろう。そのときに出れば問題はない……」
「なるほど、やつらだって、酸素の供給は必要だろうからな」
「でも、二一分以内に扉が開いて、わたしたちを逃がしてくれる確率はどうなの」
「二度といわない。黙って待つんだ、アンヌ」クーガーがぴしりと言った。
その叱声に、慧人は自分自身も内心取り乱していたことを恥じるとともに、冷静なクーガーの態度に感謝した。あの猛烈な訓練の間にもしばしば感じさせられたが、ローマ神話に出て来るクピドのような存在がどこかにあって、次第しだいにフィクサロイドという存在を好きにさせられているような気がした。
たとえ二一分後にオキシイーターが作動したところで、それがこのトンネル内に及ぶまでにはまだしばらくの間がある。最悪の場合でも、四〇分間もあの扉が開かないでいることはあり得ないだろう。慧人は思った。
一七
「なんだ。なにかあったのか」
オペレータルームに入って来た背の高い兵士がオキシフィルトレータ監視装置の映し出すビジプレート映像に向かって、しきりに小首をかしげているオペレータに言った。
「いや。なにもない。同じ景色ばかり見ていると、妙に肩が凝っちまってな」
「なんだ。ばかばかしい。変なところで脅かしっこなしだぜ」
「だがな、くる日もくる日も同じ景色ばかりを眺めていると、どの辺にどんな形の岩があり、どんな魚が出入りするのかってことが、眼を瞑っててもわかっちまうんだ」
「だからといって、眼を瞑ってちゃ監視役は勤まらんだろ」
「そりゃそうだが、見張りってのもはた目に見るより楽なもんじゃないぜ」
「ああ、そんなことはわかってるさ。で、どうだ」
「ああ。いまのところ『異常なし』。いつもと変わらずだ」オペレータは生あくびを押し殺すためのしかめっ面をしながら言った。
「大分疲れているようだな。さぁ、交替だ」
「ついでに言っとくが、あの開閉器──」オペレータが背の高い男に席を譲りながら言った。「俺的には、ぼちぼち修理したほうがいいと思うがな」
「そういや、ここんとこしばらく開閉がしにくくなっているみたいだ」
「扉を上げ下げするパイプの内側に穴が空き、海水が浸透したかなんかして、中の油が少しずつ漏れ出しているんじゃないかと思うんだがね」
「うーむ。それで、水圧を押し上げる力が足りなくってきているのかも知れん」
背の高い男は開閉器の「開く」にスウィッチを入れ、席を譲った男がさきほどまで見ていたビジプレートの映像に眼をやりながら応えた。「だが、まだしばらくはもつだろう」
「つぎのオキシフィルトレータ点検まで五日。それまではたぶん大丈夫だな」
「しかし、メンテの連中に連絡だけはしておこう。ローテーションを変えて、早めにこっちを点検するように、とな。でないと、あとでお目玉を食らうのは俺たちだから」
「そうそう。頼んだときにはなかなか来てくれないくせに、上からの命令とあらば、なにはさておいても飛んでくる。そういう連中だからな、やつらは」
「メールだけじゃなくて、一応、口頭での連絡もしておいたほうがいいだろう」
メンテナンスの連中に連絡しようと受話器に手を伸ばした男が、椅子から飛び上がらんばかりにして言った。「おい、これはなんだ。おまえ、いままで、本当にこのモニター画面をみていたのか──」
「え、なんだって」
「肺呼吸音と心音のマークが出ているぞ。それもみっつもだ」
男は、モニター画面を一気にビジプレート枠いっぱいにして続けた。「見ろ、こことここ、そしてここだ。貴様、いったい何のためにライトを消してモニターするのか。その意味を分かってここに座っていたんだろうな」
「そりゃ、もちろん、そうだが……」
「やつらは、すでに出口に向かっている」
男はモニターのライトを点灯し、開閉器の方向に向けて言った。「くそっ。『開』にセットしてしまった以上、完全に開ききるまで閉まってはくれん」
「に、人間の侵入者がいたんだ。そ、それも三人も……」
「なにをのんびりしたことを言ってる。かれら以外に別動隊が基地内に潜入しているかも知れん。メドレーエフ大尉に連絡を取れ。そしてすぐに警戒態勢をとるように」
「あ、ああ」
「早くしろ。行って指示を仰ぐんだ」
一八
沈黙のなか、ダイバーウォッチに眼をやること十六分。果して、あの微弱な振動が耳元のセンサー音とともに次第に強くなって来るのが三人にわかった。
あの二枚貝が、徐々に口を開きはじめているのだ。
「もういいだろう」クーガーが、それが閉じられてから十六分四三秒の長い沈黙を破って言った。開閉器の幅があれくらい開けば──の意味だった。
「作動まで、あと四分十七秒よ。きわどいところで、助かったわ」
アンヌがほっとした声で言った。「あのシールドを考えた人の能力は高く評価するけど、肝心なモノが偽物だったらどお」
「そいつは言いっこなしさ」
慧人が笑いながら応じた。そして立てた親指の先で、先を行くクーガーの精悍な後ろ姿をつつくようにして続けた。「けどその気になりゃ、俺たちにはなんだってできる。なにせ俺たちには、クーガーという『歩くスーパーコンピュータ』さまがついてらっしゃるんだからな」
「さあ、どうかしら──。でも、どこかの、フォアなんとかさんより頼りになることだけは確かなようね」
「好きに言うさ」
慧人は、前をゆくクーガーを見ながら思った。確かにユーモアやジョークこそ通じないが、このクーガーほど頼りになるやつはいない。どうしてこんないいやつをあれほど毛嫌いしていたのだろう。フィクサロイドであるという、ただそれだけのことで、俺はかれを嫌っていたのだろうか──いずれにしても、フィクサロイドという存在に対して、ちょいとばかり認識を改めなければならないようだ。
「われわれは捕捉された」
監視所に設けられた怪物の眼にスウィッチが入ったのを誰よりも早く感知したクーガーが言った。かれがそのことばを言い終わらないうちに、辺りは真昼のように明るくなり、出口に向かって推進する三人の姿を追いかけてきた。
「急ごう」
慧人が言った。
「アイアイサー」
「まったく。なんて大きさなの」
ひとつの横穴に一歩を踏み入れたアンヌが、思わず驚きの声を上げて言った。内部には、度肝をぬく太さの何本ものパイプが天を突くように立っていた。「なにか、とてつもなく巨きなパイプオルガンのなかに入ったみたいだわ」
一本の周囲はといえば、最大のもので、大人五人が手をつなぎ合わせても届かないほど。細く見えるものでも、三人は必要と思われた。それらパイプの下端は、水中の闇に消えて見えなくなるほどに続いていた……。
彼女は、見上げるほどに天を突く水圧管の凄さに圧倒されて、上のほうがどうなっているのかを知りたくなった。取水口近くから見れば、その向こうは重力ダムのように、反力の角度を保ったパイプラインが地下数百メートルにもわたって続いているはずだ。そして、その先にあるものが……。
「あの上には、近づかないほうがいい」
クーガーが、アンヌの心の動きを察知したかのように、いつもの口調で言った。
「判ってるわよ」
機先を制された悔しさからか、わざとふて腐れた声音でアンヌが言った。「ここからは見えないけれど、あれの少し先には、水の取入口があるから危険だというんでしょ」
「ダムから滑り落ちる水の力といえば、相当なものだからな」
慧人がクーガーの味方をして言った。「数メートルも近付かないうちに、あれよあれよと言う間にパイプのなかを滑り落ち、いやというほど面の皮をひん剥かれる。それだけじゃないぞ、その可愛い尻の皮もだ。それで、さしもの美女も『ジ・エンド』って訳さ」
「そうなったら、あなたは悲しんでくれるかしら──」
「さあ、どうかな」
慧人は、肩をすくめてみせて言った。「少なくとも名誉の戦死とやらで、何千万もの国民──とまでは行かなくとも、最低十人くらいは悲しんでくれるんじゃないのかな」
「なんなのよ、その『最低十人』っていうのは──」
アンヌが気色ばみ、慧人を睨んで言った。
「まあいい。その話のつづきは、後でたっぷり時間をとった上でやろう。それよりクーガーを見てみろ。俺たちが無駄口をたたいてる間に、すでに自分の仕事をし終えそうになってるぜ」
確かに、かれはすでに仕事に取りかかっていた。海水に強い皮膜で覆われた時限信管つきプラスティック爆弾──ただの一個でミサイル艇に風穴を空けるほどの威力をもっている──C56が、いくつもの黒く鈍い光を放って、あたかも太い腕に吸いついた蛭のように水圧管の継ぎ目を取り巻いていた。
クーガーが、別のパイプの作業に移りながら落ち着いた声で言った。
「ひとつのパイプにそれを取り付けるのに、ほぼ三分かかった。全部に取り付けようとすれば、九〇分は要かってしまうだろう。もっとも、三人でやりさえすれば半時間ほどで終わってしまうだろうがな」
「分かった。手伝おう」
それから約半時間後──正確にいえば、三六分以上かかってしまったのだが──三人は、すべてのパイプラインにC56をつけ終え、周囲1キロに及ぶ秘密の横穴を後にしていた。
これで、ADVの待つ対岸へたどり着ければ万事予定どおりだった。もしその地点にたどり着くことができなければ、二六〇本ものC56が一斉に爆発したその余波で、三人ともアスナジャ河の藻屑と消えてしまうだけのことだ。
それでも三人は、国民的英雄として崇められこそすれ、計算違いのドジを踏んだ結果として蔑まれたり、暴かれたりすることはないだろう。
「最初の洞穴で手間取っていた所為で、あまり時間がないわ」
アンヌがダイバーウォッチの数字を見ながら言った。
「うむ。シェルターにいる連中も、そろそろなにか異変を感じ始めている頃だ」
慧人がアンヌのことばを引き取って言った。「下手をすれば、オキシフィルトレータの様子を見に出て来たやつらと、ばっちり鉢合わせしてしまう可能性がある……」
「それと、陸にいる連中と連絡を取って──」クーガーが、珍しくふたりの会話に割って入って言った。「向こう岸や水上で、われわれの出て来るのを待ち受けているということも考えられる」
「ま、そんときは、あっさりと諦めるこった。多勢に無勢──敵さんの命綱を吹き飛ばせただけでも御の字だと思わなけりゃな」
「そうは行かない。われわれには、生きて報告する義務がある。それに、われわれの動きが少しでも感知されていた場合、必ずしもあの作戦が成功するとは限らない」
「おいおい、なにを言ってる。ここまで来た以上、いまさら議論の余地はないはずだろ」 言ってはみたものの、慧人にはこれまでいつも正しい判断を下して来たクーガーのことばが気になった……。
確かに可能性としては、それも考えられない訳ではない。しかし、そんなことをいまさら蒸し返してみたところで、なんの益になるものでもない。後は、『野となれ山となれ』だ。報告など俺の知ったことではない。
──だいいち、このおれは軍人なんかではない。ただの雇われ技術屋なのだ。だが、アンヌはどうなる。いくらフィクサロイドとはいえ、れっきとした人間であるクーガーの生命は、その素晴らしい脳髄はどうなる……。なんの欲得もなしに、俺のちょっとした思いつきに共感し同道してくれた、このふたりの友情はどうなる。俺は、俺ひとりの思いつきでこのふたりを道ずれにしてよいのか……。
ことが起こる前に、蓋然性のすべてに検討の手をゆるめないクーガーの行き方──それこそがいま、隊長のこのおれに求められているすべてではないのか。かれらは、少なくともこの俺よりは五年や十年は若い。『人生四十年』時代の五年十年といえば、それこそどんな財産を犠牲にしてでも手に入れたい代物だ。それを俺は俺のエゴで、身勝手な論理によって、ないがしろにしようとしているのではないか。それも、単なる運動暴発的な逃げ口上を使って……。
考えろ。考えるんだ、最悪のときを。この最悪の事態を切り抜ける方法を──。
「そうら、噂をすればなんとやら。案の定、おいでなすったぜ」
クーガーのやや甲高い声が、慧人の思索の糸を断ち切って言った。「二時の方向。上方三五度。距離、およそ三〇〇メートル。全部で五人。かれらは、まだわれわれの存在に気づいていない……」
「誰かが小型ソナーを使っているわね。反応音があるわ」
アンヌがクーガーの言った方向に眼をやり、五つの白色光がほぼ等距離に並んで進んでいるのを眺めやりながら言った。
「まさか、こんな深くにわれわれが潜っているとは思っていないのだろう」
慧人は手元の深度計から、水中の闇を切り裂いて進む五つのライトに眼を転じて言った。深度百七十二メートル。かれらの防水スーツでは、ここまでは潜れないはずだった。こちらには水中ナイトスコープがあるお陰で、あちらの動きが手に取るようにわかる。だが、あちらには、水中ナイトスコープから較べれば遥かに照射距離の短い光源──蓄電式のヘッドライトを使っての視認手段しかない。頭の向いた方向だけが有効視界の、そして、己の視力だけが頼りの、極めて原始的な代物。そんな一時代前の武器や軍事物資を当代一級の品と称して『安定』供給している国や商人もあるのだ。
その理由には、さまざまのものがある。
メディクスレニアンの完全独立支援のため。忌むべき大ヘミノージアニズムの謀略からメディクスレニアンの純潔性を護るため。あるいは、せっかく立ち上がり始めた後進小国群を寄ってたかって苛めているのがけしからん、北亜連合の横暴を黙って見過ごしているのは人道にもとる、人命を賭けて闘っている立場の弱い者にこそエールを送りたい、といった判官びいきのものもある。
もちろん、表立ってのことではない。すべては、利権・利害がらみの各国各人各様の思惑の上で成り立っている秘密裡のものだ。南北の経済格差は、覆うべくもない。明らかに南亜の経済圏は、自国の資源のみに限られ、それのみに頼られていた。しかし、それは天然資源だけのことであって、開発資源のことではなかった。かれらには相次ぐ戦争で、豊富な天然資源を有効に活用するためのノウハウ、そしてそれを知る人材が欠けていたのだ。なかには、そのノウハウをもった優秀な人材を売りつけ、その代わりに豊富な天然資源のほんの一部を分けてくれというのもいる……。
仮に南亜にあれだけの豊富な天然資源がなかったら、北亜の連中もこれほどには真剣に気を入れなかったにちがいない。所詮、自分に利害のないかぎり、他国の独立紛争や戦争などといったものは対岸の火事的存在でしかないのだ──。
「どうやら、われわれの存在に気づいたらしい。ライトを下に向け始めたぞ」
慧人が言った。
「各自、三方に散れ。やつらの攻撃目標をなるべく混乱させるんだ。おれは真っすぐ上方に向かう。アンヌは、十時の方向に向かってもっと深く潜れ。クーガー、おまえは二時だ。ズハンガの岸で会おう。成功を祈る」
「オーケイ。ズハンガで会おう」
クーガーが答え、アンヌが言った。「また会えるといいわね」
右後方で、なにかがふたつ炸裂し、慧人の身体を強く圧し流した。こちらの姿が見えなくなったので、単発式のデプスチャージ(深度爆雷)をほうり込んだのだろう。
誘発式のデプスチャージならこうはいかない。そいつを二十も同時に放りこまれていたら、慧人たちはすでにあの世へ行っていた。だが、慧人たちのハンドスイマーによる行動が機敏すぎたのと、やつらの投下したデプスチャージの深度設定がほんの少し違っていたのとで、危うく難を逃れることができた。
敵側のダイバーたちが誘発式のそれを使わなかったのは、下手をすると自分たちも誘曝してしまう恐れがあったからだろう。誘発式のデプスチャージは、目標物に接触または命中しなくとも、そして設定深度に達しなくとも、目標物の近接領域にあるすべてのものに反応して爆発する。そして、沈降していくひとつでも爆発すれば、その爆発に呼応して付近にある最近接領域のものが爆発する。そうして次第に上から降りて来る爆弾や周囲にある爆弾をその数の続くかぎり炸裂させてしまうのだ。したがって、これにかかればどこへどんなに機敏に逃がれようと、生命を奪われない保証はなかった。
慧人は、ハンドスイマーに取り付けられた水中銃の照準をこちらに向かって進んでいるひとつの光点の、やや手前に合わせて、トリガーを引いた。
ほぼ三秒後、それが無駄に終わったのがわかった。彼の撃った水中弾は、光点のはるか後方で炸裂した。身体の位置が固定している陸上での射撃ならまだしも、水中での狙い撃ちは非常にデリケートな計算力を必要とする。距離、方向、角度、水流、そして水圧。これらのうち、どの把捉が欠けても目標には当たらない。むしろ、敵のようにデプスチャージによるランダムな攻撃のほうが、よほど効果的なのだ。
慧人は舌打ちをし、自分がクーガーでないのを呪った。クーガーなら、恐らくその命中率は格段に違っていたにちがいない。こうなったら、接近戦しかない。デプスチャージの欠点は、水平または上方にいる敵には使えないことだ。慧人は、より上方に向かってハンドスイマーのスピードを速めた。やつらと同じ高さでの撃ち合いなら、ハンドスイマーの性能が高い分だけこちらが有利だ。かれらには、こちらほどには機動力がない。いまごろようやくユーターンし、慌てふためいた恰好で後を追って来ているくらいだ。が、敵もさるもの。慧人の心理を読んでいるのか、絶対に下に降りて来ようとはせず、つねに上方で一定距離を保っての追跡行を開始している……。
かなりやり過ごしたと思った時点で、かれは後ろへ向き直り、ハンドスイマーを構えた。
その一瞬、敵側の撃った水中弾が慧人の頭上をかすめ、五・六メートル後方で炸裂した。やや遅れてもう一発。それは、もう少し遠かった。プロクシミティヒューズ(近接電波信管)の威力。当たらなくても、その近くで爆発する。恐らく敵は、慧人がそのまま上昇を続けると判断して発射したのだろう。
あそこで動きを止めていなかったら、敵の水中弾は確実に慧人の背中に命中し、その肉片を飛散させていたはずだ。翼つき水中弾は大ぶりの葉巻ほどもあり、その速度は水圧をおしのけて進む分だけ、空気中のそれに較べていくぶんかはおそい。それが、かれの生命を救ったのだ。敵は、どうやら水中戦のプロフェッショナルのようだ。
そうと気づいた途端、恐怖がかれを襲った。初めての恐怖だった。こんなとき、クーガーはどんなことを感じるのだろうか──慧人は、クーガーの落ち着きはらった表情を想った。敵は、より深く潜行したふたりを諦め、そのまま上昇を続けた慧人を標的にしているようだった。
『こうなったら、破れかぶれだ』
慧人は、上方で放射状に散ろうとしている光のひとつに狙いを定めて、水中弾を放った。クーガーがやったように続けさまに六回撃った。少しずつ角度を変えて──。
数秒後、そのうちのひとつが炸裂した。続けて、他の五発が炸裂。光のひとつがまっすぐに落ちてゆく。首が持主の身体を離れたのだろうか。それとも、持主自身が爆風で気を失って沈んでゆくのだろうか。いまの炸裂で磁気場が乱れた加減でか、ナイトスコープではよく見えなかった。
しかし、今度こそはまぐれ当たりでも命中したのだと解してよかった。
少なくとも、ひとりは沈んでゆく。プロクシミティヒューズの威力は、下手な射撃手である慧人の腕をも援護したのだ。慧人は敵が四散し、あちこちの方向から自分を照射しようとしているのを見て、もう二発ほど撃って踵を返した。
ザンボア軍は、めったやたらには銃弾を費消しないと聞く。いくら判官びいきの武器商人がいるといっても、銃弾をただで譲ってくれる訳ではない。生産資源のないザンボアでは、武器弾薬は兵隊の生命よりも大切なのだ。
逃げるなら、いまのうちだ──慧人は、ハンドスイマーのグリップを最大にし、かれらが追って来れない深みに向かった。
慧人は思った。クーガーたちは、うまく逃げおおせているだろうか──ひょっとして、クーガー自身が言っていたように、水上艦艇からの爆雷攻撃や陸上からの攻撃でやられてしまっているのではないだろうか。自分を襲った小型のデプスチャージなんかと違って、艦艇の発射する爆雷と来たら、ちゃちな潜水艦など簡単に海の藻屑と化す。
不安が慧人の脳裡をかすめ、少なくともふたりの死を確認してからでなければ自分は死ねない、とかれは思った。考えてみれば、物ごころついてからこのかた、人のために生命をなげうとうと思ったことなど一度もなかった……。
いや、そうではない。一度だけ、友人のために身代わりになってやったことがあった。まだ小学生の頃、いつも苛められていた同級生のひとりが打ち明けた、ひとりの上級生に対する憎しみがきっかけだった。それを真に受けて、抗議に立ち向かっていったのだった。もちろん、自分が逆襲されるかも知れないと分かっていてやったことだった。案の定、慧人は徒党を組んでいた上級生の数人に叩きのめされ、肋骨にひびを入れるほどの怪我をした。相手の数人は、それでも眼に青あざができたり唇の端を切ったり腕をくじいたりするなど、多少の怪我はしていた……。
翌日、担任の講師が慧人の親を呼んで、かれの行状を叱責した。上級生の親から学校にクレームが来ている。学校では、一体どういう教育をしているのかといわれた。息子がああなったのは、実に他国人を生徒にして、他生徒と同等の教育を施さないでおいた学校の責任だ。理由はどうであれ、暴力をふるうのはよくない。ましてや、身体の大きいことをいいことに上級生に言い掛かりをつけて、上級生を押し倒したというではないか。ただでさえ風変わりな子どもなのだから、その辺はちゃんとしつけておいてもらわなくては──。
その帰り道、慧人の父親は言った。
義を見てせざるは勇なきなりとは、東洋の古いことわざだが、おまえにはもう少し、なにが勇でなにが義なのかを勉強してもらう必要がある。つまり、世の中には、身体を張ってなすに価することと、そうでない場合との二種類があるということだ。今回のおまえの喧嘩は、後者のほうだ。むしろおまえのするべきは、その友人の告白の真偽のほどをただし、なぜそうなったのかの分析をし、真理を究明することにあった、と。
慧人は、父親の言に反論した。そうした一連の手続きを踏み、自分なりの結論を出したうえでの行動だった、と。そして、数日後、くだんの友人が自分の軽はずみな安請合いを嘲笑い、級友たちに吹聴している噂を耳にした。かれには、慧人がつねに級友たちに敬愛され、女生徒たちの憧れ的存在であったことが妬ましかったのだった。以来、かれは、人のためにはなにごともなすまいと心に決めた──。
どこか遠くから爆圧が続いて起こり、慧人の身体を激しく圧し流した。腰に強い圧力がかかり、それに対抗しようとする筋力が一瞬、音立てて切れたような気がした。明らかにほんもののデプスチャージかなにかが、本格的に炸裂した余波によるものだった。
かれは、水中に起きた巨大な波に呑まれ、それに強く圧し流されながらCOMに向かって叫んだ。
「アンヌ、クーガー。大丈夫か。生きているのなら、返事をしてくれ」
が、十秒たっても二十秒経っても、いや、二分を過ぎても返事はなかった。
まさか。いや。爆裂そのものにはやられないまでも、あまりもの爆圧に気を失っているのかもしれない。かれは、ふたたびCOMに向かって呼び続けた。が、やはり応答はなかった。センサーからの反応もない。頭からすうーっと血の気が引くのが感じられた。
絶望か、それとも──不吉な予感が慧人の脳裡をよぎる。位置を確認する。爆圧の関係で、だいぶ下流へ押し流されているようだった。ズハンガの約束の地点に、果してふたりは無事な姿を見せてくれるのだろうか。
慧人は、流れに逆らうようにハンドスイマーを二時の方向に向け、グリップを強く握った。それにしてもおかしい。当初の計画どおりだとすると、もうとっくに爆発が起こっていなければならないはずだ……。ダイバーウォッチに眼をやる。それは0308で停まっていた。あの爆圧で壊れてしまったのか。彼はすぐさまセンサーをオンにし、耳を澄ませた。なにも聴こえない──というより、動作している様子そのものがない。くそっ、こいつまで壊れてしまったのか。
彼がようやくたどり着いた岸から恐る恐る這いあがり、再びリストCOMに向かってふたりに呼びかけようとしたとき、
「おっと、そこまでだ──大将」
後方から落ち着いた、しかし鋭い声が届いた。「せっかく岸にたどり着いたところ、まことに恐縮だが、まずはその身体につけているややこしいものをあっさりと捨ててもらおう。言うまでもないと思うが、わたしはいまレーザーキャノンでおまえの心臓を狙っている……」