靴を履く娘
踵が床をノックする。長く尾を引き、残響までも耳にこびりつく。なぶられても、物言わぬ床だった。
私は、腕時計を見るふりをして娘の足を盗み見た。
制服のスカートからまっすぐ伸びた白い足、水気を含んだ柔いふくらはぎ。顔を埋めたら、どんな心地だろうか。
ローファーを履き終えた娘が、不思議そうな顔で振り返る。
「遅刻するよ」
玄関の姿見の前で、私は物の怪にでも憑かれたような顔で、立ち尽くしていた。
「今行く」
情けない声で返事をすると、とにもかくにも私の懐疑は晴れたようだ。
私たちは父と娘。血縁関係にある。
娘は十六歳。都内の女子校に通っている。私の意向が働かなかったとは言わない。悪い虫がつくのは、まだ当分先でいい。
会社員である私は、朝、示し合わせて娘と家を出る。毎日の日課だ。一日も欠かしたことはない。
「今朝の敏夫さん、何だかぼんやりしてるね」
娘は私と二人きりの時、名前で呼んでくる。傍から見たら、生意気だとか教育がなっていないと思われるかもしれないが、私は気にしない。
「昨日は飲み過ぎた。今日は早く帰る」
「うん、待ってる。またね、敏夫さん」
娘は私のネクタイの曲がりを直してから、駅の階段を上がっていった。よく磨かれたローファーがこぎみいい音を立てる。駅に響くいく数多の靴音を聞き分ける。その音が遠ざかるまで、その場を離れることはなかった。
帰宅後、ソファーで魂が抜けたような情けない姿で座っている私を、妻は疎ましそうに横目で眺めやった。
「帰ってらっしゃるなら、もう少し早く連絡くれないと」
「ああ、すまない」
私は見てもいないテレビに顔を向けて、返事をした。妻は小言を言いながら、やたらと大きな音を立てて、皿を洗っている。陶器がこすれる音は甚だ美しくない。それに比べて、娘の奏でる音はなんと耳に心地良いことだろう。
娘が風呂を終え、リビングに蝶のように飛び込んできた。肩まである髪は、湿っており湯気を立てていた。
娘は何も言わずに私の膝の間に腰を下ろし、テレビのリモコンを取った。
「髪、乾かさないと風邪ひくぞ」
「うん」
上の空で返事をして、テレビを食い入るように見つめる娘。彼女のシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。ソフランだったか。私も同じものを使うように強要されている。
テレビに娘を奪われたように感じ、寂寥した。
「それ楽しいのか?」
「ううん、別に」
「野球、観たいんだけどな」
控えめに言うと、娘は濡れた髪をぐりぐりと私の胸に押しつけた。
「敏夫さんが私のこと見なくなるからダメなの」
桜色の唇の動きまで手に取るようにわかる。娘は愛おしい。ただ、彼女の靴音だけが私の胸をざわつかせる。思い出すだけで、くつろげなくなった。夫婦ごっこは娘の気が済むまで続く。
夜、皆が寝静まってから私は玄関に向かい、娘のローファーを手に取った。
何の変哲もない黒いローファーだ。娘は足が小さいので、手のひらに乗りそうなほど小さい。実は毎晩、私が磨いている。娘は気づいているのか、いないのか何も言ってこない。
ローファーを片手に、ふらふらとトイレに入る。これもまた悪しき習慣になっていた。
翌朝も、娘と家を出る。
「敏夫さん、靴なんだけどね」
「えっ!?」
往来の真ん中で、素っ頓狂な声を上げてしまう。暑くもないのに、汗が止まらない。
「欲しいのがあるんだけど、今度の休みに一緒にどうかなって」
「この間、買ってやっただろ」
「欲しいの、マーチンが。じゃあ見るだけでいいから、一緒にお出かけしよ? それならいいよね」
結局、私は娘にブーツを買ってやることになる。妻から大目玉をくらうのは慣れっこだったが、自制しない娘をしかるべきだったと後悔する。
姦しく歩く女学生が通り過ぎる。彼女たちも革のローファーを履いていた。私の目が釘付けになっているのに気づいた娘が眉を吊り上げていた。妻とそっくりの不興のサインに縮みあがるしかない。
ある日、娘が友人を自宅に連れてきた。同じ高校に通うクラスメート。楚々として、慎み深い女の子だ。彼女なら娘を悪い道に引き込むことはないだろう。
私が帰宅した時、二足のローファーが玄関にあった。一方は 踵が揃えられている。私は、ため息をついてもう一足をきれいに並べ直した。
ふと私は、目を閉じローファーを手に取ってみた。いずれのものか判別しようはない。革のしっとりとした感触。鼻に近づけてやめた。
娘に対する裏切りに感じたのだ。迷夢を覚ますように頭を振り、リビングにまっすぐ向かった。




