第一場 楽譜を売る少女
時は19世紀後半。
パリ・オペラ座通りで、歌を歌いながら新曲の楽譜を売る一人の少女がいた。
彼女の名はクリスティーヌ・ダエー。
オペラ座から馬車で2時間ほどのところに住む、歌の大好きな美しい少女だ。
彼女の住む家は仮屋で、とても裕福とはいえない暮らしをしているが、別に不満はない。
オペラ座管弦楽団に所属していたヴァイオリニストの父は数年前に他界しており、母はクリスティーヌが幼い頃に病気で亡くなった。
今はまったくの一人ぼっちだが、自分が作曲した曲の譜面を売ったり、道端で歌を披露したりすることで生計を立てている。
父が残してくれた財産もあるので、生死に関わるほど生活が困窮しているわけでもない。
一階に住む親戚の女性に世話になりながら、必要最低限の物資だけ買い、地味な生活を送っていた。
趣味と言えるものもなく、楽しみは作曲と歌、あとは手芸ぐらいだ。
クリスティーヌは幼い頃からオペラ座に憧れており、いつか舞台で歌うのが夢だった。
昔、一度父に連れて行ってもらったきりだが、その時の記憶はずっと目に焼き付いている。
舞台で歌っていたのは、一人の女性だった。
銀の飾りが散りばめられた紺色のドレスを纏い、頭には銀色のティアラを乗せた姿は、まるで妖精の国から抜け出してきた女王様のよう。
素晴らしい歌声にも魅了され、クリスティーヌはオペラ歌手を志すと決めた。
あの日から7年。
父が遺した言葉を信じながらクリスティーヌはチャンスを待ち続けていた。
『クリスティーヌ、パパはこれから天の上にある国に行くんだ。』
高熱で顔を真っ赤にしながら、父は言った。
涙を堪えながら懸命に看病する娘の手を弱々しく握り、彼は亡くなるまでの間、ずっと病人らしからぬ様子でいた。
不可思議な夢のことを語り、体力を消耗してまで音楽を奏で、歌い。父からは絶望や苦痛などというものは全く感じられず、逆に以前よりも生き生きとしているようにさえ見えた。
『その国はとても綺麗なところでね。美しい風景に美しい音楽、自らの人生を全うし、正しい心を失わなかった人たちが行くところなんだ。』
父は幼い娘に童話を読み聞かせるように言う。
クリスティーヌほもう年頃の娘だというのに、父にとっては永遠に幼く純粋無垢な存在なのだ。
『そこにはママもいる。ママは音楽を心から愛していたから、音楽の天使が天上の国に連れて行って下さったんだ。だからパパは寂しくないよ…。でもクリスティーヌ、お前には寂しい思いをさせてしまうなぁ…』
『パパ、そんなこと言わないで。お薬も貰ってきたし、すぐ良くなるわ。』
『そうだな、早く元気になって、お前をまたオペラ座に連れていこう。…ゲホゲホッ…お前は…歌が大好きだからな…』
それからずっと、自分は夜を徹してでも看病を続けた。
だが父の容態は悪くなるばかりで、快方に向くことはなかった。
父はもう自分が長くない、というのを知っているようで、看病を続けようとする自分を引き止めては昔の話、ママの話などをした。
日に日に弱っていきながら、その瞳の輝きは増し続ける。
『死』は父にとって人生の区切り、あるいは新たな人生の始まりでしかなかったのかもしれない。父は私に、永遠の離別ではないことを教え込むかのように何回も言った。
だが誰も逃れることのできない悲しい別れは、必ずやってくる。
寒い冬の朝、とうとう父は亡くなってしまった。
銀色の朝日に優しく照らされた穏やかな表情で、まるでいい夢を見ながら眠っているように…
葬儀は近所に住む数少ない父の友人が手伝ってくれた。
私が摘んできたり買ったりしてきたたくさんの花に囲まれ、簡素な棺の中で安らかに眠る父。その表情を見ているうちに、父は本当に音楽の天使に連れられて逝ったと思えるようになってきてしまう。
私は喪服姿で棺の側に立ち呟くようにレクイエムを歌った。
音楽の天使が天上の国で父と母を愛し、素晴らしい音楽を授けて下さるように想いを込めて。
教会の鐘の音がいやに遠くに聞こえる。友人たちの啜り泣きも、自分の心臓が脈打つ音も。
特に悲しみが押し寄せてきたわけではないのに、涙が止まらない。
葬儀が終わり友人や知人たちから哀悼の言葉をかけられて家に戻った。不思議と何かを失ったような感覚は無く、誰も自分に声をかけることがない空っぽの家の中で一人ぽつんと椅子に座った。
最初からこの家には自分しかいなかったかのような表情で、ぼうっとマントルピースの上を見やる。陶器の時計に家族写真、父が作ったオルゴール………
そのオルゴールの蓋には美しい天使の姿が彫られ、細かい銀細工が施されている。
クリスティーヌはその美しい箱を手に取り、ネジを回した。
ほどなくして美しい旋律が流れてくる。
クリスティーヌは再び椅子に座り、その旋律につけられている歌詞を口ずさんだ。
『───────誰も届かない場所に行こう。雪の降る丘を超え、森の道を辿り、蒼い花畑の向こうへ。二人だけになれる場所に…誰も見つけられない場所に行こう──────』
途端に抑えきれないほどの感情の波が自分を襲った。
先程とは比べ物にならないほどの量の涙が一気に溢れ出し、頬を伝っていく。
もう歌うどころではなかった。声は掠れ、詰まり、嗚咽が漏れる。
自分の顔が歪んでいくのが分かる。
それから、自分は椅子に座ったまま顔にハンカチを押し当て、感情が迸るままに泣いた。
やがて泣き疲れて、眠ってしまうまで。
夢の中で父の声がした。
ああ、これは父が逝ってしまう前夜の会話だ、などとぼやけた思考が頭をよぎる。
『クリスティーヌ…私が天国に行ったら、お前が寂しくならないように…お前が大好きな歌を続けられるように音楽の天使にお願いしよう。』
『昔、よく話してくれた童話みたいに?』
『そうだよ。お前は素直でいい子だ、きっと音楽の天使もお前を愛して下さる。』
『ありがとう、パパ。私、音楽の天使が来てくださった時に恥ずかしくないよう、ちゃんと歌の練習をしておくわ。』
『ああ、そうしなさい。お前は私の自慢の娘だよ。』
本当に音楽の天使が来て下さらなくても、クリスティーヌは父の言葉を信じ続けることにした。
そうしていれば夢の中で、思い出の中で父に会え、未だ見ぬ音楽の天使に思いを馳せることができるからだ。
家から歩いて少しのところに人通りが多い広場のようなところがある。噴水を中心に花壇やベンチが並べられ、今日は市が開かれていた。
クリスティーヌはいつものように、道行く人々に新曲の楽譜を勧めている。
空はからりと晴れ、心地よいそよ風が吹き抜けた。
今日はやっとできた新曲を何枚も写譜し、独学ではあるが歌の練習もしてきたのだ。
彼女はとびきりの笑顔で、軽快なステップを踏みながら歌い続ける。
「こんにちは、お嬢さん。それ、何ていう曲なんだい?」
ふいに、後ろから声をかけられた。
茶髪の巻き毛を揺らして振り向くと、そこには背の高い男性が立っている。
彼は柔和な笑顔を浮かべ、手には何かの本や包みを抱えていた。
クリスティーヌは早速、男性に新曲の楽譜を勧める。
「こんにちは。この曲は『弦楽四重奏と歌のためのバラード』といいます。あの、よかったら楽譜を買っていきませんか?」
「君が作曲したのかい?」
「はい。」
「どれどれ、見せてくれないか。」
譜面を差し出すと、彼はそれを興味深そうに見つめた。
男性は金の刺繍が施された深緑の上着を着て、左手には高級そうな装飾のあるステッキを持っている。
身なりのいいところを見ると、貴族なのだろう。
「うん、とても良さそうな曲だね。僕は音楽が趣味でね、よく家でコンサートを開くんだよ。スコアを1部と各パートを2部ずついただこうかな。」
「ありがとうございます!」
彼は懐から財布を出して代金を払うと、唐突に話題を変えた。
「ところでお嬢さん、君の歌声はとても素晴らしいけど、誰か有名な先生に師事しているのかい?」
今までずっと独学で歌っていたクリスティーヌは首を横に振った。
「いいえ。ずっと独学ですが…。」
すると、男性は驚いたような表情で言う。
「なんて勿体無い!ちゃんとした歌のレッスンを受ければ、もっと上達するのに。」
男性の言葉に、クリスティーヌは少し残念そうな顔をする。
「本当はちゃんとレッスンを受けたいんです。でも受けられるだけのお金がなくて…」
「そうか…」
男性はうーんと何かを考え込むようにして顎に手を当てる。
少しの沈黙の後、彼の瞳に閃きが走った。
「そうだ!いいことを思いついた!」
子供っぽい表情で、とても嬉しそうに彼は続けた。
「君ほど有望な生徒なら、オルタンスが弟子に迎えてくれるかもしれない。どうかな、オペラ座で歌ってみる気はないかい?」
一瞬、クリスティーヌは何が起こったのか理解できなかった。
ぽけっとするクリスティーヌに、男性はにこやかな笑顔で続けた。
「君は歌の才能がある。せっかくの綺麗な声を無駄にしてはいけない。僕がオペラ座のプリマドンナに歌の指導をしてもらえるよう手紙を書いておくよ。」
この一言が、クリスティーヌの運命を変えた。
それはいい意味にも、悪い意味にもとれる運命の変化だった。
クリスティーヌは驚きから歓喜に変わった感情に目を輝かせ、喜びに満ち溢れた声で「はい!」と答える。
男性は頷くと一枚の紙を取り出し、何かを書いていった。
これが自分の夢への第一歩だと確信するクリスティーヌは、踊り出しそうな心を抑えてじっと待つ。
「君の名前は?」
「クリスティーヌ・ダエーです。」
クリスティーヌが即答すると、男性は白い歯を見せて笑い、また書き始めた。
少しの時間がクリスティーヌにとってはとても長く感じられる。
「さぁ、これを。」
「ありがとうございます!…わぁ…。」
クリスティーヌが受け取ったのは、紹介状だった。
一番下には、フィリップ・ドゥ・シャンドンと書かれてある。
これがこの男性の名前のようだ。
男性は短く切った焦茶色の髪をかきあげ、プレイボーイ風の顔に微笑を浮かべる。
「僕はオペラ座のパトロンを務めているんだ。シャンドン伯爵って言えば分かるから、支配人のキャリエールを訪ねてくれ。彼がオペラ座の近くの住居や仕事の手配をしてくれるだろう。」
彼は手を振ると、クリスティーヌが礼を述べる前に足早に去ってしまった。
つま先立ちしてみるが、人混みに紛れてしまったらしく既に姿は見えない。
「…行っちゃった。」
彼女はもう一度、紹介状をじっくりと眺めた。
まさか、幼い頃から抱き続けてきた夢が叶うとは。
彼女は紹介状を抱きしめ、くるくると回った。
何人かが不思議そうな視線を投げかけてくるが、そんなのは気にならない。
「まるで夢のようだわ!オペラ座で歌えるなんて!」
クリスティーヌの頭の中は、既にこれから始まるバラ色生活でいっぱいになっている。
試しに、自分の頬を軽くつねってみる。
やっぱり、夢ではなかった。
これは現実。
クリスティーヌはその後も踊り出しそうな心を抑えて楽譜を売り続けた。
残りの枚数も少なくなり段々と暗くなってくると、彼女は嬉しそうに飛び跳ねながら、すぐさま家に向かった。