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Phantom  作者: よいやみ
序曲
2/3

プロローグ

華やかな舞台で観客を魅了するオペラ座。


煌びやかな歌声が劇場に響き、観客たちの目はチュチュを揺らしながら宙を舞うバレリーナに釘付けだった。




しかし世間の人々は、このオペラ座の地下にもう一つの空間があることを知らない。

そこでは毎日のように音楽が流れ、歌声が響く。

まるで今、観客たちが魅了されている舞台のように。

しかし、オペラ座の地下は地上のように華やかな場所ではなかった。


光の届かない真っ暗な空間は蝋燭の炎がぼんやりと照らし、湖の底は闇のように暗く。

冥界の入り口を思わせるその景色は、ここに住む一人の青年の心を映したようだった。

地上へと繋がる螺旋階段を降りると扉があり、それをくぐった先にはたくさんの蝋燭が照らす湖が広がっている。

水面に浮かぶ燭台の炎が道を照らし、暗闇の中へと続いているのだ。

黒いゴンドラで湖を進めば、やがて灰色に覆われた岸に着き、さらに進めば大理石の通路が見えてくるだろう。


青年はその奥の部屋で、オルガンを奏でていた。

壁を這うように造られた銀色のパイプからは重厚な音が響き、大気を揺らす。

空気が震え、低音から高音までの間を細かい旋律が舞うように駆け抜けた。

ふと音が止み、青年は顔を上げる。


「…違う」


彼は呟き、楽譜の脇に置いてあった羽ペンで修正を加えた。


「僕が求めるのはこんなものじゃない…もっと…もっと…」


彼は譜面を手に取って椅子から立ち上がり、落ち着かなげに部屋の中を歩く。

2日前から寝食も忘れ没頭していたため疲れ果てていたが何事にも完璧さを求める彼は中断することも妥協することも許さない。

彼は再び鍵盤に指を這わせ、音を紡いでいく。

そして己の心が訴えるままに音符を書き加え、それを演奏する。

音楽こそが彼を『宿命』という名の苦しみから解放してくれる唯一の存在だった。



どれくらい経っただろうか。

青年は曲を書き終えると散らばった譜面をまとめて椅子から立ち上がり、湖に向かう。

ずいぶんと長い時間部屋に籠もっていたせいか、けっこう疲れてしまった。

湖の畔はひんやりしていて気持ちいい。

ふと水面に目を向ければ、そこには黒い仮面をつけた自分が映っている。


彼は天才的な音楽の才能に恵まれ、仮面の下の素顔とは反対に、美しい歌声の持ち主だった。

幼少期に負った顔の傷のせいで常に仮面をつけ、人目につかない地下での生活を送る毎日。

薄いアッシュブロンドの波打つ長髪をなびかせ、黒い衣装を身に纏う彼はいつしか『オペラ座の幽霊─ファントム─』と呼ばれるようになっていた。

顔を覆う仮面を、青年の細い指がなぞる。

顔の右半分は一度見たら忘れられないような蠱惑的な美貌の青年。だが左側の顔には痛々しい火傷と裂傷の跡が残り、目を背けたくなるような酷い有様だった。


彼はそっと仮面を外し、闇に包まれた湖を眺める。見慣れた風景に変わりはなく、遠くからオペラの合唱が聞こえてくる。

旋律から、近々公演される『ギヨーム・テル』だと分かる。

嗚呼、今回もいい歌手はいなさそうだ。


彼はため息をついて寝室まで歩いていく。

仮面を机の上に投げ出し、ブーツを脱ぎ捨て、ベッドに倒れこんだ。


緩やかな眠気を感じた彼は生まれたばかりの旋律に即興で歌詞をつけ、歌い出す。

夢の世界へと誘うかのごとく溢れ出た歌声は冷たい石の壁を這い、暗い湖の上を波紋のように広がった。

ちょうど舞台下の奈落で休憩をとっていた係員の男は地の底から微かに聞こえてくる歌声を聞き飛び上がった。「ゆ…幽霊だ…!」と喚きながら少し離れたところで雑談中の仲間たちのもとに走っていった。

男の言葉に彼らの雑談はピタリと止み、全員が耳を澄ます。

途端に、ほとんどの者の顔がさーっと青ざめていく。中には十字架を切る者もいて、両手を組み神に助けを乞うている。

風の悪戯だと笑い飛ばせたのは新しく入ってきた舞台装置係の若者だけ。

他は皆、しんと静まり返ったまま美しい歌声を聞いていた。



滑らかで透き通った青年の歌声はただ美しいだけでなく、たった一声…たった一声発しただけで聞いたものを陶酔させ、服従させてしまうような魔力を持っていた。そして時に威厳を持ち、時に甘い旋律を奏で、時に雷鳴のように激しい彼の声を聞いた者は皆、口を揃えて言う。


『天使と悪魔の声がした。神の声を聞いた。』と。


その言葉は端から見ればただの狂人の戯言に過ぎない。

幻覚だ、幻聴だと人々は笑う。

だがこれは青年の声を聞いた者にしか分からない感覚なのだ。


彼は歌を通して、光溢れる地上の世界に想いを馳せる。

やがて歌声は徐々に小さくなり、青年は夢の世界に沈んでいった。

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