凍える身体を温めるのは。
吐く息も凍るようなその日の朝。彼はいつものように沢山の女の人に囲まれていて。私は相変わらずそれを遠くから眺めてるだけで。そんな一日を今日も始めるはずだった。
「ねえ、寒いんだ」
そう声を掛けられたのは大学の正門をくぐってすぐのことだった。思わず振り返ってしまったことも、その静かな声を振り切れずに絆されてしまったことも必然だったのかもしれない。
「寒いんだ……、あっためてよ」
でもずっと見ていたから、だから誘われて腕を掴まれた私に彼を拒むことなんて初めから無理だったんだ。
彼は大学内外問わず有名な人だった。女の人に限りなくだらしないのだと。だから次の日の大学は憂鬱だった。彼はそういう意味で一緒に過ごした人とはもう関係を持たないことは誰もが知っていたし、私の想いが報われないことは今朝彼が家から出て行ったことでもう分かりきっていたからだ。
一度も、名前を聞かれることもなかった。
私は今日もいつも通りの一日を始める。昨日私を抱いたその腕で誰か別の人を抱く。その様子を平気なフリをして遠くから眺める。
不意に口から零れた息は真っ白で、そんな大学二年の冬は何の変化もなく私の前を通り過ぎていった。
卒業式の日、その日は何の変哲もない私の大学生活で二度目の予定外の日となった。
どうして私に予測できただろう。彼は二年前と何も変わっていない。そして掴まれた腕を振りほどけない私も、何も変わってなどいなかった。
毎日彼を見ていた。二年前のあの日以来、話したことも目が合ったことすらもない。それでも気付けば目が彼を追っていて。そんな毎日も今日で終わる、やっと彼から解放される。
「寒いんだ」
そんな私にどうして予測できただろう。
「ねえ、あっためて」
そんな私に、どうして彼の手を拒むことができたのだろうか。
「あの日みたいに、あっためて……」
吐いた息はあの日と変わらず、酷く寒々しかった。
冷たい指が触れる度びくりと震える身体。滑らかな陶器のような肌が熱で霞む視界に広がっている。
首筋に微かに触れる吐息に肌が粟立ち、その度に自身の口から漏れる声が頭の中に響いていく。
「ふ…っ、ぁ……」
生理的に頬を伝う涙が、不意に聞こえる掠れる声が、時々酷く力の篭る冷たい指先が脳を溶かしていく。
「あった、かいよ、すごく………」
途切れ途切れに発せられる言葉に泣き出したくなる衝動を抑えて、私は小さく喘ぎ続けた。
私は今年で二十八になる。卒業式のあの夜からもう六年だ。
就職して一年目の冬。マンションの前で私を待っていた彼は相変わらず何も変わってはいなかった。三度目の再開は意図してのものだったのだろうか。変わらぬ寒さと変わらぬ笑顔。
――寒いんだ
紡がれた言葉も変わらない。何も変わらない。だから私は変えたのだ。
――あっためて
そう言って差し出された彼の手をかわし彼の傍を通り過ぎた。目も合わせず口も利かず。
あれから五年。仕事はそれなりに上手くやってるし恋人も何度か出来た。毎年変わらぬ寒さが私の前を通り過ぎてゆく。
もう彼に会うことはなかった。もう一生会うことはないだろう。
「はあ……」
ふうっと吐き出した吐息はすぐさま虚空に消えていく。それをぼんやりと眺めながら首に巻いたマフラーを鼻の上まで引き上げた。
「好きだよね、それ」
「え?」
「そうやって吐いた白い息見るの。いっつもやってるじゃん」
そう言って笑う同僚が同じように私の仕草を真似てみる。
「なんかさ……、生きてるって感じがする」
ぼそりと返した言葉に彼女はくすくす笑いながら寒さで赤くなった顔を向けた。そして私の顔に真っ白な息を吹きかける。
「どうしたの、いきなり」
私はもう一度息を吐いてそれが消えていくのを眺めた。なんだかその光景を見ていると……
「寒いって、確認してるのかも」
「確認しなくても寒いじゃん」
「目に見えると実感するよ、余計に」
そうかなあ、と確かめるように同じ所作を繰り返す彼女。
私は自身で言いながら、そうだったのか、と納得していた。私は今日も寒いのだと確認しているのだ。毎日毎日、あの日のように、今日も寒いのだと。
「あ」
不意に耳に入ってきた同僚の間の抜けた声に視線を上げる。鼻先にふわふわと白いモノが落ちてきた。
「どうりで寒いわけだよね」
降り出した雪に呆然と立ち尽くす。無意識に口からは、寒いね、と言葉が零れ落ちていた。
電車を降りた頃には辺り一面が白一色に染まっていた。暗くなった夜道を、ぽつんと所々に立ち並ぶ街灯と銀に輝く雪たちが照らしている。
まだ少しだが降り続ける雪が、着ていた黒いコートに斑な模様をつくっていく。
――あんたも毎日毎日ご苦労さまだよね
先程別れた同僚の言葉を思い出した。
電車で片道二時間の距離は確かに楽だとは言えない。引っ越しはしないのかと何度も聞かれた。その度に曖昧な答えで誤魔化している。
自分でもその理由は分からなかった。なんとなく、そうしたかっただけなのか。
視線を上げればもうマンションは見えている。見慣れた建物。もうかれこれ十年近く住んでいる。
歩きながら鞄の中をまさぐる。そしてカードケースからオートロックの鍵を出して視線を入口に向けたときだった。
一瞬時間の流れが分からなくなった。私はいま何歳だったか。
見慣れたマンション。一面の雪景色。眼前を覆う白い吐息。入口に立つ一人の男。
「……寒いんだ」
そう決められた言葉を発する人形のように彼は続けた。
「あっためて……」
でも何も変わっていないわけじゃなかった。
「君じゃないと、ずっと寒いままなんだ」
差し出された手はあの頃と同じように冷たくて。沢山言いたいことはあるはずなのに、彼の酷く落ち着いた声に、もうどうでもよくなった。
その冷たい手を握り返しながら白い吐息を彼にぶつける。
「ばかじゃないの、ほんとうに」
もう会うこともないだろうと、あの日手を離したのは私の方だったのに。冬になると毎日寒さを確かめていた。もしかしたらと、五年も同じ場所に留まり続けた。
触れた熱の低さを忘れられないまま、ずっと普通だと言い聞かせながら冬を過ごしていた。
私はあの日からずっと立ち止ったままで、目の前を通り過ぎていく冬をただただ眺めていた。
「待ってる間、引っ越してたらどうしようって考えてた」
「本当に引っ越してたらどうするつもりだったの」
「それでも待ってたよ、ずっと。たぶん」
本当に待ってたのは私の方だ。本当のばかは私の方だ。
「ほんとうに、ばかなんだから」
白い吐息と共に吐き出されたその言葉に、彼が小さく笑った気がした。
勢いだけで仕上げてますので、誤字脱字又は何らかのお叱りがあれば遠慮せずにどうか仰ってください。