屋上登下校 『句読点は可』
どうして、一人は一人と二人になったのか。どうして、彼女は二人になれなかったのか。
前回の『車窓逃避行』の関連作品ですが、そちらを読まなくても大丈夫です。前回の作品が詩のようだったので、今回は普通の小説に近づける努力をしてみました。
雲の動きが異様に早いと思って、なんとなく屋上に二人で上がった。誰も雨上がりの屋上の床の上にはおらず、水溜りが点在するばかりだった。二人は、屋上の緑のペンキがところどころ剥げたフェンスによっかかりながら、下校していく生徒たちを見ていた。登校時にはあるであろう生気は、長い授業の果てに薄れているようだった。
「空がきれいになったな。あの、アレだ、ほら、なんだっけ・・・昔文芸部のやつが、とんでもなく恥ずかしい詩を書いたは良いが、風で窓から外に飛ばされて、ひどい目に遭ったってことがあったんだが、どんなフレーズだったか・・・」
一人が、下の、水溜りを踏まないように気を付けている人たちのうちの一人を指さした。紺色の、洗ったばかりの冬用のセーラー服を着た、髪の短い女性徒だった。
「安島さんが書いた詩の、君が思い出そうとしているフレーズなら、
『 雨上がりの空がきれいだと君が言う。
雨上がりの空が好きだと君が言う。
何故かと問えば、君は笑う。
雨が空を洗ってくれたんだと君は、
どうして雨が空を洗うのと私は。
隣に座りたかったのに、ベンチの真ん中には水がたまっていて、
雨上がりの空を恨めしく思った。
いつまでもたまった水が乾かないみたいに、私は、君の隣に座れなかった。
学校に行く電車の中でも、帰りの電車でも、私は、君の隣にはいられない。
でも、もう、雨は止んだの。゜』だよ、確か」
「・・・失恋のやつか、それ。ていうか、半濁点って・・・」
「失恋なら、隣に座りたかったのに、いつまでもたまった水が乾かないみたいに、私は、君の隣に座れなかったまでで終わりだよ」
「何故?」
「でも、もう、雨は止んだの。ってことは、もうたまった水は乾くのだから、『君』の隣に座れるんだよ」
「ああ、そういうことか」
「そういうことなら、という前提だよ」
「まあ、良いさ。お、その安島が帰ってくわ」
「本当だね。でも、詩の中の『君』とは違う人を追いかけてるみたい」
屋上から見下ろす学校の帰り路には、少なくない数の生徒の姿があった。その中で、慌てて走る女子生徒は、誰かを追いかけているように見えた。
「詩の中の『君』が誰なのか、知ってるのか?」
「僕は知っているけれど、教えることはできないよ。プライバシーの侵害だ」
「・・・まさか、お前とか?」
一人は、一人を見た。目の前の相手は、時々女子生徒から告白されることがあった。
「それなら、答えられる。答えはノーだ」
少し残念がりながら、一人はもう一人の横顔を窺う。
「じゃあ、誰だ?」
「気になるのなら、本人に聞けば良い」
「できるかよ。同じクラスだから余計気まずいわ、っていうか、それだと安島のこと、俺が好きみたいだろ」
「君が、そう言うなら、それで良いんだよ、きっと」
「どういう意味だよ」
「そういう意味だよ」
一人は笑い、一人は怒った。
空は茜色に染まりあがり、太陽と空が同調し、一つになっていくようだった。
屋上の水溜りが、橙や黒に色を変え、パレットの絵具のようになった頃、一人がくるりと後ろを向いた。
「君が言う詩の中の『君』が、もしも僕だったなら」
一人は、空を見上げ、息を吐いた。クリーニングしたばかりの詰襟が、湿気で少し湿っていた。
「雨上がりの空を、あれほどまでに酷評したりはしないよ」
「いや、絶賛していただろう、詩の中の『君』は」
一人はそんな一人につられて空を見た。
「だって、きれいとはいえない雨が洗った空がきれいだなんて、おかしな話だろう。今のご時世なら、酸性雨だったのかもしれないのにさ」
「・・・お前、それを人は揚げ足取りと言うんだぞ」
「揚げ足を取っているのかもしれないけれど、僕は、雨上がりの空よりも、雨が降る前の、ただの空のほうが好きだよ。だから、『君』の言っていることは理解できないんだ」
「そうか。で、『君』の隣に座らないまま、安島の恋は終わりを迎えたと」
「どうしようもなかったのだから、仕方ないよ」
「どういうことだ?」
一人はにっこりと笑い、一人は首をかしげた。
「ベンチなら、座れなくなったんだよ。座らなかったのではなく、ね」
「何故?」
「安島さんもさ、ライバルとか、いわゆるその、恋敵なら、諦めなかっただろうに、ね」
「はあ?お前、何を言ってるんだ?」
一人は、近くの水溜りをジャンプしてまたぐと、体操選手がするような制止のポーズを取った。
「諦めざるを得なかったんだよ。だって、そのベンチに『君』はもう座っていないんだから」
「・・・まさか」
深刻な顔になった一人に、一人は深く深くため息をついた。
「言っておくけれど、座っていた『君』は、死んでなんかいない。ただ、そのベンチからいなくなっただけだ」
「どういうことだ?」
「そういうことだよ」
一人は、再び空を見上げた。自身が好きではないその空を。
「お前さ、なんでそんなに詩の中身が分かるんだ?確かにお前は、いつも現代文の試験は学年トップだし、文系の大学への進学を教師達から勧められるほどには国語の能力が高いが、安島の詩は、はっきり言って直球で、そんなに深みがあるとは思えない」
「そう思っているなら、君は三振でバッターボックスを去らないといけないね」
夕陽を背景に、一人は微笑んだ。
「あれか?消える魔球的な・・・」
「全然違う。君は選球眼が無いんだね。体育の野球ではあんなに凄かったのに」
やれやれと、露骨なまでに、一人はため息をついて、首を振った。
「・・・悪い、全然わからん」
「わからない?つまりね、安島さんは待ったんだよ。『君』がベンチに戻るのを。だけど・・・『君』は戻らなかったんだ。だから、安島さんは諦めた。そして、さっき、下校中の誰かを追いかけていたよね?つまり、他の人のベンチに座ろうと頑張っているんだよ。『君』が、一人掛けのベンチに二人で座ってしまったから」
「・・・は?」
一人掛けのベンチが想像できなくて、一人は頭をうならせた。
そうこうしているうちに、太陽の仕事は終わり、いい加減、月の出勤時間が迫っていた。
「そろそろ帰ろうか。学校が閉まるよ」
「・・・あ、ああ」
「戻った頃には、『君』のベンチには、『君』と、他の人が座っていた。だから、安島さんはやめたんだ」
「他の人って、彼女?」
「いいや。詩の中の『君』は、恋に興味を持たないで、友情を取ったんだ」
「なんでまた」
「それは、僕が知りたいくらいだよ・・・」
一人は遠い目をして、もう一人はその視線の先を追いかけた。
一階に降りると、最後に学校を出る教諭と鉢合わせになった。
「さっさと帰れよ」
「はい、今帰ります」
外は、すでに薄暗くなり始めていた。
「ところで、なんで安島は半濁点なんかを詩に入れたんだろうな」
「それなら、きっと涙を現したかったんだと思うよ」
「ああ、なるほど」
「でも、句読点でも良い気がする」
「まあ、なあ・・・句読点なら可。しかし半濁点は不可」
「それで良いよね、もう」
時間はずれのカラスが一羽、夜になりかけの空を、鳴きながら飛んで行った。
「綺麗だね」
「カラスからしたら、はぐれて迷子になって・・・散々かもしれないけどな」
「見るだけなら、綺麗だよ。カラスの濡れ羽色っていうたとえは、髪の毛だったら褒め言葉。でも実際は、どうなんだろうね」
「さあ、な」
一人と一人、二人で歩く帰り路。さきほど安島という少女が走っていった路。今は不思議なくらい、静かで、嘘のように、雰囲気だけは明るい。
「君はさ、下駄箱に手紙が入っていて、しかもそれが可愛らしい、女の子が買うような便箋と封筒で、これでもかと言うくらいに女の子の字体で書かれた呼び出しの手紙を見たら、どうする?」
突然、一人はそんなことを言った。
「ありきたりな話だが、告白か?と思うよな」
「でも、詩の中の『君』は違ったってことだよ」
「ふーん・・・」
最後まで、詩の中の『君』は、自分の過去に気がつかなかった。一人の、意図的な企ては、乾いてなくなってしまった水溜りのように、跡すらも残らなかった。
空は黒く、青く。
人は、黒く。
星は、消える。
一人が、笑う、一人が、訝る。
二人は、雨上がりの帰り路を、ゆっくりと辿っていった。
最後まで、一人がけのベンチには、一人は戻らない。
もう、たまった水は、乾いていたのに。