葛城裕太の騒動
よくある賃貸アパートでの騒動を描いています。
ある日、事件は起きた。
午後三時過ぎ。
店内は静かで、コピー機の駆動音とキーボードを叩く音だけが響いていた。
麻耶は重要事項説明書を作成していた。
宅地建物取引士としての署名が入る書類。
一言一句に責任が伴う。
電話が鳴った。
「はい、幸栄不動産、進藤が承ります」
受話器の向こうで、若い男の声が震えていた。
「大変です! 住人らしき人が僕の部屋の前で叫んでるんです!」
嫌な予感が走る。
「どちらのアパートですか?」
「✖✖アパートの105号室の✖✖です!」
葛城がいるアパートだ。
「すぐお伺いします。ドアは開けないでください」
現場に着くと、廊下に鈍い音が響いていた。
ドン、ドン、と玄関を蹴る音。
「出てこいよ! 音出してるだろ!」
葛城裕太が105号室の前で怒鳴っている。
「葛城さん!」
麻耶の声に振り向いた彼の目は、焦点が曖昧だった。
「進藤さん、聞こえないんですか?」
「何がですか?」
「機械音が。ずっと。夜も昼も」
廊下は静かだ。
105号室の学生は怯えきっている。
事情を聞くと、彼はイヤホンで音楽を聴いていただけだと言う。
むしろ、夜中に葛城の独り言や怒鳴り声で眠れないことがあると。
話の辻褄が合わない。
その日から、クレームは連鎖した。
「夜中に壁を叩く」
「廊下で独り言」
「インターホンを何度も鳴らす」
ある時は、隣室から“壁を叩く音”のクレームだった。
麻耶が現着して外から耳をすます。
特別な音は無い。
ごく日常な生活音だけだ。
クレームの住人が言う。
「突然、壁を叩き出したんです。
ここコンクリートの建物ですよね?大丈夫ですか?」
「構造的には問題ありません」
麻耶は葛城の部屋を訪ねた。
「誰かが私を虐めたくて音を出すんだ」
葛城はそう言った。
その瞬間、隣室で水道が使われた。
ドン、と低い衝撃音。
葛城が叫ぶ。
「ほら!誰かが!」
麻耶は落ち着いて説明した。
「あー、これはウォーターハンマーですね。
この建物は水をポンプから圧力で上げています。
栓を急に閉めると圧力が衝突して音が出るんです。
普通にある現象で、葛城さんに攻撃しているわけではありません」
葛城は納得していなかった。
その後もブツブツと何か言っている。
麻耶は部屋をちらりと見た。
壁に迷彩服。
棚に並ぶ銃。
「サバゲやるんですか?」
その一言で空気が変わった。
葛城の目が輝く。
「やりますよ!この銃はですね――」
一時間。
フィールドの話、弾速、カスタム、戦術。
音の方向を読むことが重要だと熱弁する。
麻耶はうんざりしながらも、聞いた。
そして最後に言った。
「とにかく、他の住人に迷惑をかけないようにしてください」
だが、クレームは止まらない。
別の部屋からも似た苦情。
夜中に叫ぶ声。
壁を叩く音。
葛城は“音”と戦っていた。
だが実際に怯えているのは他の入居者だった。
105号室の学生は、実家に戻ることを考えていると言った。
「怖いんです」
その言葉が重く響く。
管理とは何か。
一人を守ることか。
全体を守ることか。
葛城は家賃を滞納していない。
室内も破壊していない。
だが生活の平穏を壊している。
麻耶は休日、喫茶店で考えた。
コーヒーの苦味が、頭を冷やす。
優しさだけでは守れない。
数日後、葛城を事務所に呼んだ。
「複数の住人から苦情が出ています」
「僕が被害者です、俺は悪くない!」
「客観的に音は確認できません」
沈黙。
「環境を変えることも、一つの方法です」
「追い出すんですか」
「違います。あなたにも合う環境があると思います」
何度も話し合いを重ねた。
怒り、沈黙、独白。
そして一ヶ月後。
葛城は退去を決めた。
理由は「環境が合わなかった」。
引越しの日、迷彩服も銃も丁寧に箱に収められていた。
「納得いかないけど迷惑、かけました」
「新しい場所で落ち着けるといいですね」
彼は深く頭を下げた。
ドアが閉まり、廊下に静寂が戻る。
数日後、他の入居者からのクレームは止まった。
アパートは平穏を取り戻した。
だが麻耶の胸は重い。
もし、もっと早く気づけたら。
もし、違う方法があったら。
管理は白黒ではない。
グレーの中で決断する仕事だ。
夜、事務所で一人コーヒーを淹れる。
湯気の向こうに、かつて会社を去った若者の影が浮かぶ。
仕組みを作り、合理性を重んじた人。
彼ならどうしただろう。
数字か。
感情か。
麻耶はカップを置いた。
守るとは、誰かを切り離すことも含む。
その重さを知った日だった。
だが。
葛城裕太という名前は、
この物語から消えたわけではない。
それを知るのは、もう少し先のことになる。
賃貸業では頻繁にクレームが起きます。
クレーム本人は筋が通った話をすることが多いですが、意外と理不尽な場合がほとんど。
共同生活に馴染めない方が問題を起こします。
葛城裕太はこの後何をしでかすか気になります。
平穏な日常は意外と少ない賃貸業、麻耶の奮闘はまだ続きます。




