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第89話 仮面の下の涙。砕け散った流星と「愛しさ」という痛み

【視点:ローズマリー】

「――なんですって!? スターゲイザーが、自滅ですって!?」


狂気のザカリー大司教の追撃を振り切り、研究所の冷たく長い通路をクリムゾン・ローゼスで紅蓮の光線となって疾走していたわたくしは、通信機越しに響いたユウキさんからの絶叫に近い声に、仮面の下で完全に絶句した。


自滅……?


やはり……。


コクピットのサブモニターに表示させていた、スターゲイザーのバイタルサイン。


それはまるで嵐の夜の蝋燭のように、急速に、そして絶望的な速度で低下していくのがリアルタイムで映し出されていた。


機体のエネルギー循環は完全に崩壊し、致死的なオーバーフローの警告が真っ赤に点滅している。


わたくしの心臓が、ドクン、と氷のように冷たく、ひどく嫌な音を立てた。


「……! 分かりましたわ! こちらも任務は完了! 直ちに、ベレット様の元へ向かいます!」


隠しきれない焦りと恐怖を、訓練された暗殺者の呼吸法で必死に押し殺しながら答える。


ですが、白い手袋に包まれたわたくしの指先は、操縦桿の上でどうしようもなく微かに震えていた。


『あたしはヴァルキリーで、今、ベレットの元へ向かっているわ! ローズマリーさんも急いで!』


ユウキさんの、泣き出しそうな、切羽詰まった声が鼓膜を打つ。


「了解! ですが、ユウキさん。あなたは絶対に深追いせず、研究所の外周で待機を! わたくしがスターゲイザーを回収し、その後合流いたしますわ!」


わたくしは瞬時に状況を判断し、最も生存確率の高い的確な指示を出した。


どんな極限状態でも、常に感情を切り離し最善手を選択する。


それが、わたくしが『ブラッディ・ローズ』として数多の死線を生き延びてきた所以(ゆえん)ですもの。


わたくしはクリムゾン・ローゼスのスラスターを、機体のフレームが限界を超えて悲鳴を上げるほどの、最大船速へと引き上げた。


真紅の機体は、もはや赤き流星。


研究所の迷宮のような通路を、壁に機体を擦りつけながら神業的な操縦技術で駆け抜ける。


壁面には、わたくしの機体が放つ熱と紅蓮の残像が、一瞬だけ焼き付いては消えていった。


同時に、わたくしは機体背部に搭載された「最後の希望」……小型の救助用カプセルの展開シーケンスを、祈るような気持ちで開始した。


最悪の場合でも……せめて、乗員だけでも!


あの方とミューの命だけでも、絶対に繋いでみせますわ!


ですが。


そのわたくしの必死の祈りを、宇宙(そら)は嘲笑うのでしょうか。


ナビィさんからのさらに絶望的な通信が、わたくしの鼓膜を、そして心を無慈悲に打ち砕く。


『……! ローズマリーさん! アルベルト王子が出現しました! エンペラー・オブ・コンドルです! マスターたちが……マスターとミューさんが、もう、持ちません! 救援を! お願い、します……!』


いつもは無機質なはずのナビィさんの声は、まるで人間が引き裂かれるような、悲痛な叫びだった。


その響きは、わたくしの心臓を氷の針で直接突き刺すかのよう。


アルベルト王子……!


あんな化け物が相手では、手負いのベレット様では……!


わたくしの完璧な思考回路が、一瞬、完全に停止した。


全身の血が凍りつくような感覚。


わたくしは、覚悟を決めた。


あの狂気の王子の圧倒的な力の前に身を晒すことになろうと、わたくしの命と引き換えにしてでも、必ずあの方を救い出すと。


ですが、その紅蓮の覚悟さえも、虚しく。


モニター上のスターゲイザーのシグナルが、ぷつり、と。


まるで、愛しい人と繋がっていた命の糸が、ハサミで断ち切られたかのように、完全にロストした。


「……そん……な……」


わたくしの唇から、間抜けな声が漏れた。


通路の最後の角を、火花を散らしながら滑るように曲がった瞬間。


わたくしの仮面の下の瞳が、永遠に忘れることのできないであろう絶望的な光景を捉えた。


―――閃光。轟音。そして、白銀の、砕け散る音。―――


目の前で。


スターゲイザーが、眩いばかりの、そしてどこか悲しい黄金の光を放ちながら、内部から爆散した。


まるで、燃え尽きた流星が、最後の輝きを放って砕け散るかのように。


美しく、あまりにも残酷な、魂の残骸が宇宙空間へと散らばっていく。


そしてその爆心地には、黄金の悪魔。


エンペラー・オブ・コンドルが、まるで全てを嘲笑い、勝利を誇示するかのように、血塗られたレイピアを携えて悠然と佇んでいた。


絶望。


完全なる、底なしの絶望が、わたくしの心を暗く、冷たく支配した。


呼吸の仕方を忘れ、思考が停止する。


わたくしの完璧に構築された世界が、音を立てて崩れ落ちていく。


ああ…………。


また、間に合わなかった……。


ですが。


その砕け散った希望の欠片の中で、わたくしの常人離れした動体視力と、諦めを知らない裏社会の魂は、確かに捉えた。


爆炎と飛び散る白銀の破片の中から、僅かな軌跡を描いて虚空へと……まるで神への最後の祈りのように放り出された、「何か」を。


それは、無防備なスターゲイザーから射出された、射出シートそのものでだった。


……! もしかしたら……!


万に一つ。


いや、億万分の一の可能性。


それは、暗闇の中に差し込んだ、あまりにもか細く、眩しいほどの一縷の希望の光だった。


わたくしは、その蜘蛛の糸のような希望に、己の全てを賭けた。


思考よりも早く、身体が動いていました。


エンペラー・オブ・コンドルが、まだ勝利の余韻に浸っている。


そのほんの一瞬の、瞬きほどの隙を突いて。


クリムゾン・ローゼスの背部から展開された救助用カプセル、そのハッチが音もなく開かれる。


わたくしは機体のマニピュレーターを、まるで自身の指先のように、極限の集中力で繊細に操る。


射出された座席を、まるで壊れやすい生まれたての雛鳥を巣へと拾い上げるかのように、慎重にカプセルの中へとそっと回収する。


ドクン、と。


わたくし自身の心臓が、大きく痛いほどに高鳴った。


中にいるのが誰なのか。


ベレット様なのか、ミューなのか。


そして、生きているのかどうかさえ分からない。


ですが今はただ、この小さな希望の欠片を守り抜くことだけを考えた。


回収完了と同時に、わたくしは機体を猛然と反転させた。


爆心地の惨状を、愛する人の墓標かもしれない場所を、黄金の悪魔の姿を、決して振り返ることなく。


振り返れば、わたくしは怒りで我を忘れてあの悪魔に特攻してしまう。


それだけはダメですわ。


わたくしは、この命を送り届けなければならない!


ただひたすらに、全速力で研究所からの脱出ルートを駆け抜ける。


すべてを振り切り、地上へ。


研究所の外周で不安げに待機していたユウキさんのヴァルキリー・ストライカーと合流すると、二つの翼、紅蓮と白銀は言葉を交わすこともなく、ただ互いの存在と悲しみを共有し合うように、スターダスト・レクイエム号が待つ漆黒の宇宙(そら)へと急いだ。


                     ◇


(ふね)へと帰還したわたくしは、回収した救助用カプセルを、祈るような気持ちで医務室へと運び込んだ。


カプセルのハッチを開ける手が、ひどく震えていた。


「……っ」


わたくしは、声にならない悲鳴を飲み込んだ。


ナビィさんに治療を託し、わたくしは逃げるように自室へと戻った。


その足取りはまるで鉛のように重く、心には拭い去ることのできない暗い影が、深い深い絶望となって落ちていた。


部屋の重厚な扉を静かに閉めると、わたくしはゆっくりと冷たい壁に背をもたせかけた。


そして、震える指先で、顔を覆い隠していた仮面を外す。


ひんやりとした金属の感触が顔から離れる。


緊迫した状況下で流れた汗と、抑えきれなかった涙で、ぐっしょりと濡れていた。


窓の外を見つめる。


そこには、醜く歪んだ顔が。


星々が煌めく瞳には、未来が繋がったことへの深い安堵の色と同時に、あの方が負った傷の深さ、そして激しい喪失感が入り混じっていた。


ベレット様……なぜ、あなた様はいつも、そうやって自分ばかりを犠牲になさるの……!


どうして、わたくしを頼ってくださらなかったの!


そして、その感情の底には、何よりも深く、あの方をあんな地獄へ追い込んでしまったことへの、鋭い刃のような罪悪感が、渦潮のようにわたくしの心を蝕んでいた。


わたくしが、もっと早くあの『星詠の巫女複製計画』のデータに辿り着いていれば。


わたくしが、ザカリー大司教との無駄な戦闘を避け、一秒でも早く駆けつけていれば。


ベレット・クレイ。


あの、一見すると粗野で不器用に見えながら、どうしようもなく優しく、そして誰よりも強い意志と悲しみを秘めた男。


彼の存在は、わたくしの心の中で広大な大地のように大きく、そして、わたくしの汚れた命を懸けてでも守りたいと願う、かけがえのない光。


その事実を、今、否応なく突きつけられ、改めて自覚し、激しく戸惑っていた。


それは、ブラックホールに恒星が吸い込まれるような、息を呑むほどの衝撃。


これまで、己の役割と使命のために、意識的に深く深く封じ込めてきたすべての感情が、堰を切ったように溢れ出し、今、止めどなくわたくしの胸を満たしていく。


わたくしは微かに震える自らの手を、そっと祈るように胸元に押し付けた。


戦闘服のポケットに入った、あの忌まわしいデータユニットの固い感触が、罪の証のように胸に刺さる。


手のひらの下で、心臓が激しく、不規則に、痛いほどに高鳴っているのが分かる。


この胸全体を締め付けるような、どこか甘く、そして息ができないほどに切ない痛みは、一体何という感情なのでしょうか。


わたくしはただ独り、静まり返った部屋の中で、この激しい感情の波に身を委ね、その一つ一つを深く深く噛み締めた。


彼のあの無骨な中にも垣間見える、力強い笑顔。


わたくしの淹れた酒を美味そうに飲む横顔。


ミューに向ける、不器用な優しさ。


それを思い出すたび、この胸の痛みは深まり、涙がとめどなく溢れ出す。


「……愛しておりますわ、ベレット様。ずっと、ずっと前から」


わたくしは、静かに、誰に聞かせるでもなく、誰もいない部屋の虚空に向かって呟いた。


この魂を根底から揺さぶるような激しい衝動が、単なる守りきれなかった者への後悔などではなく、まさしく「愛しさ」という名を持つ、最も根源的で、美しく、そして残酷な感情なのだということを。


わたくしは、声を殺して泣き崩れた。


ブラッディ・ローズという仮面を捨てた、ただの一人の女として。


(第一部 完)

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