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第86話 逃げ場なき死線。紅蓮の薔薇と黒衣の聖職者の因縁のワルツ

【視点:ローズマリー】

コンドル王立研究所、メインシステム室。


破壊された端末の残骸と、情報の死骸が散乱する静まり返った墓場。


けたたましく鳴り響く警告灯の赤い点滅が、時折、この冷たい空間を血の色に染め上げては闇に沈む。


わたくしの戦闘服の胸元には、先ほど手に入れたばかりの『禁断の知識』が収まっている。


それは、重すぎるパンドラの箱。


背後の分厚い壁の向こうからは、研究所の通路で繰り広げられているであろう、ベレット様とクラウスの死闘の気配が、微かな振動となって伝わってきていた。


今すぐにでも駆け出したい衝動に駆られる。


――ですが。


コツ……コツ……コツ……。


通路の奥から響いてくる、規則正しく、有無を言わせぬ圧力を持った軍靴の音。


そして、肌の表面をチリチリと舐め回すような、ひどく悪趣味で冷たい殺気。



死線で研ぎ澄ましてきたフォワードの感覚が、急速に接近する致死の危険を告げていた。


……まさか、このタイミングで来客ですの!?


忌々しげに舌打ちを呑み込み、音もなく、破壊された巨大なサーバーラックの深い影へと、身体を滑り込ませた。


息を殺し、気配を完全に周囲の闇へと溶け込ませる。


ですが、あの方の安否を気遣う心臓の鼓動だけが、ドクン、ドクンと耳元で大きく響いていた。


やがて、通路を塞ぐように複数の人影が現れた。


重武装したコスモノイド解放戦線の兵士たち。


その先頭に立っているのは、かつて理想主義的な光を宿していた副官のサーシャ。


しかし、今の彼女の表情は蝋人形のように硬く虚ろで、まるで何かに操られているかのよう。


彼女の纏う青と白の制服が、赤い警告灯の下で異様に生気を失って見える。


そして。


サーシャの隣に立つ『もう一人の人物』の姿を認めた瞬間、わたくしは仮面の下で息を呑んだ。


深い、闇色の豪奢なローブ。


その下に隠された、痩身ながらも周囲の空気を歪めるほどの底知れない威圧感。


鋭く尖った顎、薄い唇に浮かぶ冷酷な笑み。


全てを見透かし、全てを嘲笑うかのような、爬虫類を思わせる冷たい光を宿した瞳。


アンドロメダ正教会、大司教ザカリー。


教会内部でも、その権力欲と危険な思想で恐れられる、強硬派の巨魁。



やはり、ザカリー大司教……! コスモノイドのサーシャを精神支配して共に現れるとは。


少々、いえ、かなり面倒なことになりましたわね。


わたくしの背筋を、絶対零度の悪寒が駆け巡る。


「サーシャ」


ザカリーは、まるで羽虫か召使いに命じるかのように、尊大な態度で口を開いた。


「周囲の警戒を怠るな。そして私の援護を。他の鬱陶しいネズミどもが、紛れ込んでこないようにな」


静かで、聞く者の魂を凍らせるような冷たい響き。


「はっ! 承知いたしました、大司教閣下!」


サーシャは感情のない声で応え、ザカリーに恭しく敬礼すると、部下たちに素早く指示を出す。


兵士たちはザカリーを守護するように、システム室の入り口周辺へ効率的な防御陣形を展開した。


ザカリーは満足げに頷くと、システム室の惨状へと目を向けた。


破壊された端末、散乱するデータの残骸を、まるで生ゴミでも見るかのように冷ややかに一瞥し……かろうじて稼働していたメイン端末へと、ゆっくりと近づいてくる。


ローブの下から、死人のように細く白い指が伸び、コンソールに触れようとした、その瞬間。


―――警告! 不正アクセス検知! システム、完全ロックダウン! データ汚染プログラム、起動! カウントダウン開始!―――


わたくしが最後の置き土産として仕掛けておいた、悪意たっぷりのトラップが発動した。


けたたましい警告音が鳴り響き、端末の画面が血のように赤く点滅し始めます。システム全体が、後戻りのできない自己破壊シーケンスへと移行していく。


「……! ふっ、ふふふ!」


ザカリーはトラップの発動にほんのわずかに眉を動かしたが、すぐに、面白い玩具を見つけた残酷な子供のように、歪んだ笑みを浮かべた。


「これは、これは。実に見事な手際だ。この小賢しく、そして実に悪趣味なやり口。……間違いないな。この甘美な毒の香りは」


彼は、ゆっくりとシステム室の闇――わたくしが潜む影へと、その冷たい視線を向けた。


虚空に向かって、まるで恋人に呼びかけるかのような、蛇のような粘っこさで囁く。


「そこにいるのだろう? 我が愛しき宿敵、『ブラッディ・ローズ』」


……「愛しき」ですって?


吐き気がしますわ。


わたくしの愛は、とうの昔にたった一人の殿方に捧げましたのよ。


わたくしは観念し、深く静かに息を吐いた。


そして、物陰から音もなく、凛とした気品を漂わせながらゆっくりと前に出た。


「殺せ!」


サーシャが叫び、部下たちが一斉にレーザーライフルを構えた。


「待て、サーシャ!」


ザカリーはそれを(みやび)やかな仕草で制します。


「ふふ、久しいな、ブラッディ・ローズ。いや……今は、ただの『ローズマリー』とでも呼ぶべきかな?」


ザカリーは、獲物を嬲るようにゆっくりと言葉を紡ぐ。


「相変わらず美しく、危険な香りを放つ薔薇だ。それで? この情報の墓場で、一体どのような甘美な『蜜』を手に入れたのかな? 君のその蠱惑的な仮面の下の素顔と同じくらい、興味深いものだと嬉しいのだがね?」


ザカリーの瞳には、ねっとりとした粘つくような光が宿っていた。


本当に、気持ちの悪い男。


わたくしの素顔を見せていいのは、この銀河でただ一人だけですわ。


「あらあら、大司教閣下ともあろうお方が、そのような下世話な詮索をなさるなんて」


あくまで優美に、口元に艶やかな笑みを浮かべて答えた。


「わたくしはただ道に迷い、偶然この埃っぽい部屋に迷い込んでしまった淑女に過ぎませんわ。どうやらここは、わたくしのような、か弱い女性がいるべき場所ではなかったようですわね。では、これにてごめんあそばせ」


エレガントに一礼し、出口へとゆっくりと歩き出す。


「ふん、しらばっくれるな、この狡猾な女狐めが!」


ザカリーの声が、瞬時に氷のように冷たくなった。


彼のフォワードが発する威圧感が、システム室の空気を水底のように重くする。


「貴様ほどの女が、何の目的もなしにこのような場所に来るはずがないであろう? なぁ、ブラッディ・ローズ!」


「今日は本当に無駄足でしたのよ。あなた方こそ、この何もない埃っぽいところで油を売っていないで、早くお帰りになって、銀河の平和のために祈りを捧げてはいかがかしら?」


「フン、戯言を。この私を誰だと思っている」


ザカリーの瞳が、爬虫類のように細められた。


「我々は常に、銀河の平和のためにフォワードに祈りを捧げる。そして我々は常に、フォワードを乱し仇名す者共を、フォワードの御力をもって討ち滅ぼす!」


彼はローブの下から、黒曜石のような禍々しい輝きを放つ杖を取り出し、神託を宣告するかのように掲げた。


「やれ、サーシャ! あの忌々しい女狐を、生け捕りにしろ! 抵抗するなら手足を潰しても構わん!」


「はっ!」


サーシャと兵士たちが一斉に襲いかかってきた。


レーザーライフルの赤い閃光が、闇を切り裂き、壁や床を焦がす。


「……!」


わたくしはしなやかな猫のような身のこなしで、初弾のレーザーを頭上で間一髪で回避した。


深紅の戦闘服に内蔵された小型の慣性制御スラスターが、身体を予測不能な軌道へと弾き出す。


赤い残像と化したわたくしの影を次のレーザー弾が掠め、背後の制御盤が火花を散らした。


わたくしは体術とスラスターの機動力を駆使し、襲いかかる弾幕の中を、まるで水を得た魚のように舞い踊った。


片手で壁を蹴り、その反動で頭上を通過するレーザーを紙一重でかわすと同時に、ユーティリティベルトからスタン・グレネードを引き抜き、最も接近していた兵士の足元に叩きつけた。


パァァンッ!!


炸裂音と共に青白い電磁パルスが広がり、最前線の兵士たちの動きが一瞬止まる。


その隙を突き、出口へと一直線に突き進む。


ですが、多勢に無勢。


後方の兵士たちが素早く態勢を立て直し、包囲網を狭めていく。


「逃がさんぞ、ブラッディ・ローズ!」


ザカリーが、漆黒の杖をわたくしへと向けた。


彼の瞳が不気味に光を放つ。


「闇に還れ!」


ザカリーのフォワード能力が解放され、杖の先端から、凝縮された黒い重力球のエネルギー弾が唸りを上げて放たれた。


触れたもの全てを分子レベルで崩壊させる、絶対的な破壊の力。


……ここで、散るわけにはいきませんわ!


絶体絶命。


ですが、わたくしは黒い破壊の奔流を、仮面の下の瞳で極めて冷静に見据えた。


あの方との未来を、そしてあの方の笑顔を守るという使命を、こんな爬虫類男に奪われるわけにはいかないのです。


わたくしは、極めて精緻なフォワード能力を発動させた。


それは、ほんの一瞬の未来観測。


そして、空間を跳躍する瞬間移動能力。


身体が、まるで陽炎のように、ふっと掻き消える。


ズゴォォォォンッ!!


黒いエネルギー弾は空しくわたくしがいた空間を通り抜け、背後の壁に激突し、轟音と共に巨大なクレーターを作り出した。


「……!? なっ、今の動きは! まさか!? それは、『熾天使(セラフィム)の歩み』!? なぜ、異端の貴様がそれを!?」


ザカリーの冷酷な表情に、初めて動揺の色が走った。


種明かしをしてあげる義理はありませんわ。


わたくしにも、色々と複雑な過去があるというだけのこと。


その一瞬の隙を突き、わたくしは通路の死角に隠していたクリムゾン・ローゼスのコクピットへと瞬時に飛び乗った。


「さあ、急ぎますわよ!」


真紅の翼が、再び咆哮を上げる。


わたくしは紅蓮の残像を残し、高速で通路を駆け抜け、愛するベレット様たちが待つ戦場へとその翼を広げた。


残されたのは、破壊されたシステム室。


そこに響き渡るのは、ザカリーの狂気に満ちた、甲高い高笑いだけ。


『ハハハ……ハハハハハッ! 面白い! 実に、実に面白いぞ、ブラッディ・ローズ! ただの海賊ではないとは思っていたが、まさか我が正教会の聖職者にしか許されぬ秘技まで使うとはな! フフフ、ますます欲しくなったぞ! お前のその秘密も、その力も、その美しい身体も、魂も! 全てを、この私のものにしてくれるわ! ハハハハハハハッ!!』


背後から追ってくる歪んだ哄笑をスラスターの炎で置き去りにしながら、わたくしは前だけを見つめた。


ザカリー。


あなたの思い通りには、決してさせませんわ。


わたくしの魂は、とうにあの不器用な殿方に捧げたのですから。

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