第70話 甲板の上のモノローグ、星屑と魂の囁き
仲間と共に、銀河の命運を左右する危険な依頼へ挑む――。
そんな大層な覚悟を決めた夜だというのに、俺は一人、スターダスト・レクイエム号の甲板に大の字になっていた。
背中に伝わる装甲板の冷たさと硬さ。
オイルと鉄錆の匂い。これこそが俺のベッドだ。
頭上には、巨大な宝石箱をひっくり返したようなポート・リバティの夜景が広がっている。
無数の光の点が描く、人工の天の川。
息を呑むほど美しいが、同時に残酷だ。この光の一粒一粒に、俺の知らない人生があり、欲望があり、絶望がある。
俺なんて存在は、この光の海に落ちた塵芥みてえなもんだ。
……銀河の危機、ねえ。
俺は夜空に向かって、音のない自嘲を吐き出した。
金のためなら、どんな死線もくぐってきた。
それが俺の生きる術であり、存在証明だった。
「正義」だの「平和」だの、そんな甘っちょろい言葉は、俺の辞書にはねえはずだった。
だが今回は違う。
あのミンクスの真剣な瞳。
聖女ナナリーという雲の上の存在からの依頼。
それが俺の心に、抜けねえ棘のように突き刺さっている。
いや、違うな。
俺が怖れているのは、銀河の破滅じゃない。
リリーナ……。
もしお前が生きていたら、こんな時どうしてたんだろうな。
脳裏に蘇る、陽光のような笑顔。
そして、あの日。
雨音と、鉄の臭いと、砕け散った硝子のような絶望。
守ると誓った掌から、命が零れ落ちていく感触。
もう二度と、あんな思いはしたくねえ。魂を引き裂かれるような喪失は御免だ。
だから俺は、誰も寄せ付けずに生きてきた。
孤独こそが最強の鎧だと信じて。
だが――守りたいものが、できちまった。
アイツらを危険な目に遭わせるくらいなら……。
いや、アイツらは言ったんだ。『共に戦う』と。
俺の口元に、苦笑いが浮かんだ。
信じる、か。一番苦手な言葉だ。
だが、その「信じる」という鎖に、俺自身が救われているのも事実だった。
ふと、隣に柔らかな気配を感じた。
音もなく、まるで月の雫が落ちてきたかのように。
「……ん?」
視線を横に向けると、そこにはミューが寝転がっていた。
ポート・リバティのネオンが、彼女の姿を艶めかしく照らし出している。
身に纏っているのは、淡いピンク色のシルクのネグリジェ一枚。
薄い生地の下に、少女特有の柔らかな曲線が透けて見えた。
銀色の髪が、無骨な甲板の上に星屑のように散らばっている。
……おいおい。無防備すぎるだろ。
「おい、ミュー。こんな所でそんな薄着してたら風邪ひくぞ。船の中に戻ってろ」
俺は慌てて目を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
目のやり場に困るってのによ。
「んーん、平気よ」
ミューは首を横に振り、無邪気に微笑んだ。
「だって、ベレットのそばが、この船の中で一番温かいんだもん」
彼女はそう言うと、子猫のように俺の方へ身を寄せてきた。
腕に触れる柔らかな体温。
ふわりと香る、ミルクのような甘い匂い。
それが、冷え切った俺の心を不意に揺さぶる。
コイツは、自分がどれだけ危険な男の隣にいるのか分かってない。
だが、その無垢な信頼が、俺の汚れた魂を浄化していくようで、心地よかった。
「……ったく」
俺はため息をつきながらも、突き放すことはできなかった。
しばらくの間、心地よい沈黙が流れた。
巨大なコロニーがゆっくりと回転する駆動音が、遠い子守唄のように聞こえる。
「あのね、ベレット」
やがて、ミューが夜空を見上げたまま、ぽつりと言った。
「昔、私が上級生にいじめられて、一人で中庭の噴水の前で泣いていた時……」
「……ああ?」
「あなたが通りかかって。すっごくぶっきらぼうで、怖い顔してたけど。でも、黙って私の隣に座って、ハンカチ貸してくれたの、覚えてる?」
彼女の声は、思い出を慈しむように弾んでいた。
俺にとってはただの気まぐれだった。
「それからね、あなたがいつも悪戯ばかりして、ガルム先生に怒られてグラウンドを走らされていたこととか……あと、リリーナと二人で、楽しそうに並んで歩いていたこととか……」
「……お前」
俺の胸が、チクリと痛んだ。
忘れたい過去。
けれど、絶対に忘れてはいけない記憶。
「エリュシオン・タワーで会った綺麗なシスターさんにもね、少しだけベレットの話、しちゃった」
「……お前、そんなくだらねえことまで覚えてんのかよ」
「えへへ、ごめんね」
ミューは悪びれもせず笑った。
俺にとっては記憶の底に沈めておきたい過去だ。
だが、長いコールドスリープを経て目覚めた彼女にとっては、昨日のことのように鮮明な「宝物」なんだろう。
俺たちは、違う時間を生きているようで、同じ記憶の糸で結ばれている。
「まったくよ……」
俺は照れ隠しに頭を掻いた。
ミューの話を聞きながら、俺はかつての仲間たちの顔を思い浮かべていた。
アルベルト。
かつての親友は、今や銀河を滅ぼそうとする狂気の王子。
クラウス。
寡黙な影だった男は、その王子の忠実な刃となり果てた。
ミンクス。
正義感が強く、少しお節介だった優等生は、謎めいたシスターとして俺の前に現れた。
良くも悪くも、時は流れ、人は変わっていく。
俺だけか?
あの事件から、時間が、止まったままなのは…。
目の前にいる、ミューでさえ、かつてはいじめられてただ泣いていることしかできなかったか弱い少女だった。
だが、今は、自らの意志で、共に戦うと、守ると、そう力強く宣言している。
「そういえばね、ベレット」
ミューはふと話題を変え、ちゃめっ気たっぷりに微笑んだ。
「ポート・リバティでのお買い物、すっごく楽しかったのよ!新しい服も、アクセサリーも、たくさん買ったの!ローズマリーは、ちょっと意地悪だけど、すごくセンスがいいのよ?」
彼女は、そう言うと、左手首にはめられた星屑のブレスレットを愛おしそうに見つめ、幸せそうにふわりと微笑んだ。
その笑顔は、夜空のどんな星よりも、明るく美しく輝いて見えた。
「これ、見てるだけで、なんだか、ドキドキしちゃう。ベレットと、お揃いだって思うと、すごく、嬉しい」
星屑のブレスレット。
ポート・リバティの虚飾の光を反射して、小さく、けれど確かに輝いている。
「……ああ」
俺もまた、自分の左手首に視線を落とした。
ひんやりとした硬質なシルバーの感触。
かつて俺は、何も持たないことが自由だと思っていた。
だが今は、この小さな「鎖」が、俺をこの世界に繋ぎ止める唯一の命綱に思えた。
アルベルト。
俺は再び、遠い空を見上げた。
そこに、かつての親友の顔が幻のように浮かび上がる。
お前は一体、そこまでして何を手に入れようとしてるんだ……?
俺が……俺があの時、リリーナを守れなかったから。
だからお前は、壊れちまったのか?
断ち切れない想い。
深い後悔。
そして消えることのない罪悪感。
それらが鉛のように俺の胸を締め付ける。
もし俺があの時、違う選択をしていたら、お前はまだ「親友」でいてくれたのか?
だが、「もしも」なんてない。あるのは「今」だけだ。
そして今の俺の隣には、俺の体温を求めてくれる「温もり」がある。
俺はそっと、ミューの肩に自分の革ジャケットを掛けてやった。
少し大きいそのジャケットに包まれて、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「……風邪ひくなよ」
「うん。ありがとう、ベレット」
彼女の寝息が聞こえるまで、俺はずっと、その星屑のような銀髪を眺めていた。
もう迷わない。
過去の亡霊に怯えるのは終わりだ。
俺は、俺のやり方で、この小さな星屑たちを守り抜く。
ポート・リバティの夜は、優しく、そしてどこか物悲しく更けていった。




