第54話 目覚めた令嬢、仮面の淑女の震え
スターダスト・レクイエム号の医務室。
そこは、鉄と油の匂いが染みついたこの薄汚れた船の中で唯一、清潔で無機質な空間だ。
鼻をつく消毒液の匂い。
その静寂の中心、白いシーツの上に横たわる少女は、まるで壊れかけた硝子細工のように儚く、青白かった。
ひとつで砕けてしまいそうなその姿を見ていると、自分の手がひどく汚れた、無骨な凶器のように思えてくる。
ナビィが、感情のない精密機械のような動きで処置を続けている。
迷いなく点滴のルートを確保し、各種センサーを少女の細い腕に装着していく。
その琥珀色の瞳は、少女の顔色ではなく、モニターに表示されるデジタルの数値だけを冷徹に分析していた。
相変わらず、いい仕事をしやがる。
俺とローズマリーは、部屋の隅で息を潜めていた。
重苦しい沈黙が、鉛のようにのしかかる。
「……」
ローズマリーは、祈るように指を組んだまま、微動だにしない。
仮面の下の表情は見えないが、その張り詰めた空気だけで、コイツがどれだけ動揺しているかが痛いほど伝わってくる。
「バイタル、安定しました」
ナビィの声が、静寂を切り裂いた。
「軽い低栄養状態と衰弱が見られますが、生命を脅かす危険な状態ではありません。処置は成功です」
「そうか……」
とりあえず、最悪の事態は免れたってわけだ。
俺の船で死なれたら、寝覚めが悪いなんてもんじゃないからな。
「意識の回復には、もう少し時間がかかると思われます。おそらく数時間から半日。安静が必要です」
ナビィの報告を聞き、俺たちは長い待ち時間に入った。
◇
数時間が過ぎた。
俺は窓の外、漆黒の宇宙に瞬く星々を背にして立っていた。
煙草を吸いたい衝動に駆られるが、ここは医務室だ。
我慢するしかねえ。
イライラを紛らわせるように、ポケットの中のコインを指で弾く。
ふと、ベッドの方から衣擦れの音がした。
見ると、少女の長い睫毛が微かに震えている。
「……ぅ……」
ゆっくりと開かれる、深い湖のようなサファイアブルーの瞳。
その瞳は、焦点が定まらず、恐怖と混乱に激しく揺れていた。
「……こ、こは……?」
「……! 気がついたか。大丈夫か?」
俺は反射的にベッドの傍らに駆け寄った。
できる限り声を低く抑え、優しく問いかける。
つもりだったんだが……。
「……ひっ……!」
少女は俺の顔を見た瞬間、怯えた小動物のように身を縮こまらせた。
「……あ、なたは……だれ……?」
「俺はベレット・クレイ。しがない運び屋だ」
俺は努めて口角を上げ、ニヤリと笑ってみせた。
安心させようとしたが、少女は逆に恐怖で震え上がり、シーツを頭まで被りそうになった。
……チッ。
俺の人相が悪いのは生まれつきだ。
悪かったな。
俺は自分の不器用さに舌打ちしたくなるのを堪え、言葉を継ぐ。
「あんたの船が、この危険宙域で遭難しているのを偶然見つけて助けたんだ。ここは俺の船の医務室だ。安心しろ、もう大丈夫だ」
「……」
少女は俺から視線を外し、助けを求めるように周囲を見渡した。
そして、俺の隣に立つローズマリーの姿を認めると、その強張った表情がほんの少しだけ和らいだ。
やっぱり、野郎より女の方が安心するか。
……面白くねえが、今はそれでいい。
俺はバツが悪そうに顎を擦り、本題を切り出した。
「目が覚めたところで悪いんだが、救助規則のために名前を確認させてくれ。あんた、名前は?」
少女の青い瞳が一瞬、深い後悔に揺らめく。
そして、震える唇を開いた。
「……わ、私は……ララティーナ……。ララティーナ・ルビントン……」
その名が告げられた瞬間、俺の背筋に冷たい電流が走った。
「ルビントン……!? やっぱり、あんたがあの惑星企業連合の……!?」
ララティーナは、怯えながらも静かに頷いた。
「ええ。私は……ルビントン家の……人間です……」
1億クレジットの賞金首(捜索対象)が、今、俺の目の前にいる。
これで金は手に入る。
借金も返せる。
だが、俺の「危険感知アラート」は、かつてないほどけたたましく鳴り響いていた。
「どうして、お前みてえなお嬢様がこんな危険な宙域にいたんだ!? それに、あの船の損傷はどう見てもただの事故じゃねえ! 一体、何があったんだ!?」
俺の問い詰め口調に、ララティーナは再び瞳を潤ませた。
「わ、私は……お姉様を探しに、家を飛び出して……。でも、途中で怖い人たち……宇宙海賊に襲われて……」
「宇宙海賊だと……?」
俺は即座に考えを巡らせた。
ルビントン家の船クラスを狙える海賊なんざ、そうはいねえ。
それこそネームド級。
それに、あの船の傷跡。
あれは単なる「略奪」のための攻撃じゃなかった。
急所を的確に狙い、簡単には沈めず、「まき餌」をつくるための傷跡だ。
まさにプロの仕事だ。
「それで、その姉さんの名前は、何て言うんだ?」
俺は一歩踏み込み、彼女の瞳を射抜いた。
ララティーナは、ローズマリーの仮面を見つめながら、絞り出すようにその名を告げた。
「ルーナ。私の、たった一人のお姉様。……ルーナ・ルビントン」
「……!」
時が止まった気がした。
ルーナ・ルビントン。
惑星企業連合の若き幹部にして、冷徹な「アヴァロンの魔女」。
銀河の裏社会を牛耳る女帝。
「姉貴が……ルーナだと……?」
俺は言葉を失った。
そして、隣で息を呑む気配がした。
見ると、ローズマリーの身体が、痛々しいほどに震えていた。
仮面越しでも分かる。
1億クレジット……。
安すぎるぜ、この代償は。
俺は天井を仰ぎ、吐き出せない紫煙の代わりに、重い溜息を吐き出した。




