第49話 夢の国の帰り道、巫女の特等席
リバティ・ランドの喧騒が、遠い夢のように背後へと遠ざかっていく。
脳髄を揺さぶるような陽気な音楽は、いつしか物悲しいワルツへと変わり、七色のネオンも魔法が解けるように光を弱めていく。
祭りの後の甘く切ない静寂。
空気中には、まだ綿菓子の匂いと、人々の熱気の残滓が漂っていた。
……やっと終わりか。耳がおかしくなりそうだぜ。
俺とミューは、きらびやかなゲートの前に立っていた。
俺の革ジャンには、一日中浴びせられたポップコーンと甘いシロップの匂いが染み付いている気がする。
早くシャワーを浴びて、苦いコーヒーでこの甘ったるい空気を洗い流したい。
「もう、終わりなのね……」
ミューが名残惜しそうに振り返る。
そのラピスラズリの瞳には、楽しかった時間の輝きと、それが終わってしまう寂しさが星屑のように揺らめいていた。
……そんな顔すんなよ。
そんな顔をされると、「さっさと帰るぞ」という言葉が喉に引っかかる。
「ああ、もういいだろ」
俺は疲労感を隠さずに言った。
両手には、ミューが買い漁った山のような「戦利品」。
リバティ・ラビットの巨大ぬいぐるみ。
風船、毒々しい色の宇宙キャンディの袋、そしてナビィとローズマリーへの土産。
指の感覚がもうねえ。
「帰るぞ、ミュー。明日からまた、やることは山積みだ。整備に、補給に、次の仕事の精査……」
「やだ」
ミューは突然、俺の前に立ちはだかった。
その小さな身体から、妙な迫力というか、絶対的な拒絶の意志を感じる。
「お姫様抱っこしてくれないと、ここから一歩も動かないんだから!」
彼女はそう宣言すると、当然の権利のように両手を差し出した。
まるで、世界中の愛を独り占めできると信じて疑わない女王様のように。
「はあ!?」
俺は呆れて声を上げた。
「無理に決まってんだろ! 見ろよ、この両手を! 荷物で埋まってんだよ! これ以上、何を抱えろってんだ!」
「でも、ベレット約束したじゃない!」
ミューは頬をぷくりと膨らませた。
「私の好きなこと、一つ聞いてくれるって! その約束、まだ有効なはずよ!」
「……! アレは、もうこの遊園地でとっくに契約終了だ! ジェラートも食ったし、変なアトラクションにも乗っただろうが!」
「ローズマリーには、してたじゃない……!」
彼女の声が震えた。
乙女の痛切な響きが、俺の胸をチクリと刺す。
「あの仮面女のことは、あんなに優しくお姫様抱っこしてあげてたのに……! 私のお願いは聞いてくれないの……? やっぱり、私のことはどうでもいいんでしょ……!」
涙を溜めた瞳で見上げられる。
罪悪感という名の鋭いナイフが、俺の横腹をえぐる。
確かに、あの時は……いや、あれは緊急事態だったし、そもそもアイツは怪我人で――。
言い訳が喉元まで出かかって、止まる。
何を言っても、今のコイツには「言い訳」にしか聞こえねえだろうな。
「……! あれは、アイツが足を怪我してたから仕方なくだ!」
「いやよ! 私もお姫様抱っこしてもらわないと、絶対にここを動かない! 一生ここに住み着いてやるんだから!」
ミューは地団駄を踏み始めた。
周囲の客が、何事かとこちらを見ている。
「あらあら、可哀想に」
「若いパパは大変ね」
「彼氏かしら? 最低」
周囲の視線が突き刺さる。
……勘弁してくれ。
俺のメンタルポイントはもうゼロだ。
「……っ! 勝手にしろ! 置いていくからな、俺は!」
「……! ちょっと、待ちなさいよベレット!」
俺は背を向け、早足で歩き出した。
「ねえ! ねえってば! ベレット!」
「聞こえねえな」
「むーっ! ベレットのいじわる! 朴念仁! 石頭! ロマンの欠片もない赤毛ゴリラ!」
ありったけの罵詈雑言。
赤毛ゴリラだァ?
ゴリラは余計だ、ゴリラは。
だが、俺は足を止めない。
ここで甘やかしたら図に乗るだけだ。
「う……うわぁぁぁぁぁぁん! ベレットの、バカーーーっ!!」
その場に座り込み、わんわんと泣き出す声。
あまりにも悲痛な、そして周囲の視線を一手に集めるその泣き声に、俺の精神的防御壁は粉砕された。
クソッ……! 結局こうなるのかよ!
「…………」
俺は深く、重いため息をつくと、ゆっくりと彼女の元へ戻った。
「分かった、分かったからもう泣くな」
頭をガシガシと掻きながら、彼女の前にしゃがみ込む。
目線の高さを合わせてやると、涙でぐしゃぐしゃになった顔が見えた。
こんな顔をさせたくて連れてきたわけじゃねえのにな。
「お姫様抱っこは物理的に無理だ。手がねえからな。だがな、背負ってやる分なら、まあ何とかなるかもしれねえ。それで我慢できねえか?」
「……! ……ほんと……?」
ミューはしゃくり上げながら、涙で濡れたラピスラズリの瞳で俺を見上げた。
その瞳に、安堵の色が浮かぶのを見て、俺の胸のつかえも少しだけ取れる。
「ただし、ちゃんと俺の首にしっかり捕まってろよ。落っこちても後は知らねえからな」
「うんっ!」
次の瞬間、ミューは雨上がりの虹のような満面の笑顔を浮かべると、元気よく俺の背中へ飛び乗ってきた。
ドスッ!
「うおっ! おい! 危ねえだろ、いきなり飛び乗るんじゃねえ!」
「えへへへっ、ベレットの意地悪!」
耳元で響く、無邪気な声。
俺の首に回された腕は細くて、頼りないくらい華奢だ。
背中に感じる重みは、驚くほど軽い。
……ちゃんと飯食ってんのか、コイツ。
こんな小さな体で、いっちょ前に悩み、怒り、泣いて、俺についてきてくれている。
そう思うと、この重みも悪くない。
「ったく、本当にしょうがねえお姫様だぜ……」
俺は悪態をつきながらも、口元が緩むのを止められなかった。
背中に伝わる体温が、冷え切った夜風の中で心地いい。
俺が守らなきゃならねえ重み。
ただ、コイツが明日もこうして笑っていられるように。
ミューは俺の背中で、満足げに鼻歌を歌い始めた。
俺は荷物を持ち直し、スターダスト・レクイエム号が待つドッキングベイへと歩き出した。
ポート・リバティのネオンの下、二人の影が一つに重なり、長く伸びていた。
やれやれ、これじゃあ完全にミューの保護者だな。
ま、悪くはねえか……。
俺は夜空を見上げ、小さく息を吐いた。
今夜だけは、甘やかしてやるか。




