第106話 絶望の監獄からの生還。深紅の悪魔の熱い吐息
俺の意識は、血と錆の匂いがこびりついた深い泥沼の底から、ゆっくりと……だが確実に、光差す水面へと浮上し始めていた。
……ここは……?
最初に感じたのは、容赦のない全身の激痛と、硬いシートの感触。
そして、俺の冷え切った身体を包み込む、見慣れない特殊な銀色のヒーターシートの微かな温もりだった。
耳元で、規則正しく、やけに力強い自分の心臓の鼓動が聞こえる。
ドクン、ドクン……。
生きている。
あんな絶望的な状況から、どういうわけか、俺はまだ生かされていた。
その事実が、ひび割れたガラスのような俺の朦朧とした意識の隙間に、温かい光として差し込んでくる。
「……ん……」
鉛のように重い瞼を、奥歯を噛み締めて強引に押し上げる。
ぼやけた視界の中で最初にピントを結んだのは、複雑に明滅する計器類の光。
そして……操縦桿を握りながら、何度も何度も心配そうにこちらを振り返る、仮面をつけた栗毛の美しい女の姿だった。
俺の鼻腔を、監獄の死臭を上書きするような、むせ返るほど甘く濃厚な薔薇の香りがくすぐった。
「……ローズ……マリー……?」
血と泥の味がする、掠れた息のような声。
俺は目の前の存在を、夢現の中でかろうじて認識し、その名を呼んだ。
「……! ベレット様! お気がつかれましたか!?」
ローズマリーの声が、弾んだ。
彼女は操縦桿を握る手に力を込めながらも、その視線を俺の顔から片時も離そうとしない。
「ご気分は!? どこか、痛みは!?」
「ああ……痛ぇよ。全身の骨が、軋んでやがる……」
俺はひどく重い頭をゆっくりと動かし、霞む記憶を繋ぎ合わせて現状を把握しようとした。
蘇る記憶。
コンドル王立研究所での、エンペラー・オブ・コンドルの理不尽で圧倒的な暴力。
そして、あの冷たい監獄の独房で聞いた、「リリーナを蘇らせる」というアルベルトの狂気の言葉。
「どうやら、命を拾われたみてえだな。……わざわざ、あんな肥溜めみてえな場所まで、俺みたいな悪党を拾いに来たのか……?」
俺は自嘲するように、力なく口の端を歪めた。
「もちろんですわ!」
ローズマリーは、少し誇らしげに、けれど声の震えを隠しきれない様子で答えた。
「ミューも、ナビィさんも、そしてユウキさんも。皆、ベレット様を助け出すためだけに、文字通り必死でしたのよ! あの鉄壁の要塞を、正面からこじ開けてやったんですわ!」
「そうか……」
胸の奥底に、ひどく熱くて、厄介なものが込み上げてくる。
「礼を言うぜ、ローズマリー。お前たちのおかげで、俺はまた、こうして息をしてる……」
「ベレット様の忠実なる下僕として、当然のことをしたまでですわ」
ローズマリーはそう言って、仮面の下で優しく、そしてどこか切なげに微笑んだ。
「皆、ただ、我らがキャプテンに生きていてほしかった。その一心で、己の全てを懸けておりましたの。……この、わたくしを含めて」
「そうか」
俺は、アイツらのあまりにも真っ直ぐで、馬鹿みたいに温かい想いに、ガラにもなく胸を強く締め付けられた。
金と命のやり取りしかしてこなかった、根無草の宇宙海賊。
それが俺の生き方だった。
誰かの重い想いなんて背負う資格はねえし、背負うつもりもなかった。
だからこそ、申し訳なさと、自分の不甲斐なさが先に立つ。
「本当に悪かったな。とんだ迷惑かけちまって。あの、クソみてえな状況なら、俺のことなんざ、放って、とっとと逃げても、よかったのによ…」
俺は照れ隠しと自己嫌悪を混ぜ込み、普段通りのぶっきらぼうな口調で呟いた。
命を張らせちまったことへの、俺なりの不器用な謝罪のつもりだった。
「……!!」
その瞬間。
「……! そんなこと、絶対におっしゃらないでくださいまし!!」
彼女の声は刃のように鋭く、普段の余裕たっぷりの「ブラッディ・ローズ」からは想像もできないほど、激しい感情に震えていた。
「皆、どれほどあなた様を案じ、ご無事を祈っていたか! そして! わたくしが……! わたくしが、どれほど……!」
ローズマリーの声は、もはや言葉にならなかった。
彼女は操縦桿から衝動的に手を離すと、俺が横たわる後部シートへと、半ば強引にその身体を乗り出してきた。
深紅のタイトな戦闘服が、俺の目の前に迫る。
仮面が俺の顔にコツンと触れるほどの、息が詰まるような距離。
彼女から放たれる薔薇の香りと、むせ返るような大人の女の熱が、俺の死に体だった理性を激しく揺さぶる。
「……ロ、ローズマリー……? お、おい……?」
俺は彼女の予期せぬ大胆な行動に息を呑み、思わず後ずさろうとしたが、狭いシートでは逃げ場がない。
ローズマリーは熱に浮かされたような顔で、俺の瞳を射抜くように見つめながら、震える声で囁いた。
「あの研究所で、あなたの魂の灯火が消えかかったのを見た瞬間。わたくしは想い出しましたわ。大切なものを失う、後悔という名のこの胸を焼き焦がす激しい痛みを。……そして同時に、抑えきれなくなってしまったのです! この、どうしようもなく、狂おしいほどにあなたを求める感情に! これはおそらく、いえ……間違いなく『愛』と呼ぶべきものなのでしょうね」
裏社会の酸いも甘いも噛み分けてきたはずの女が、まるで初恋を知った少女のように、自身の魂の奥底からの情熱的な想いを、堰を切ったように俺へとぶつけてくる。
「だから、わたくしはここまで来たのです! 世界を救うためでも、他の誰のためでもない! ただ、あなたを取り戻すためだけに!」
その魂からの熱い叫びと共に。
ローズマリーは、俺のまだ血の気の引いた乾いた唇に、自身の熱く、柔らかく、そして微かに震える唇を、強く、深く押し当ててきた。
「……!? ……んむっ……!!」
俺は、そのあまりにも獰猛で、情熱的な口づけに驚き、全身を硬直させた。
ローズマリーの、俺の全てを貪るような、深く激しいキス。
彼女のどこか必死さが感じられる艶やかな舌が、俺の口内を優しく大胆に探り、熱く絡みついてくる。
直接伝わってくる、彼女の痛いほどの情熱的な想い。
耳元で聞こえる甘く乱れた吐息。
そして、心を蕩かすような濃厚な薔薇の香り。
それら全てが、俺の五感を強烈に痺れさせ、魂を激しく揺さぶる。
それは、成熟した大人の女性だけが持つ抗いがたいほどの魅力と、全てを紅蓮の炎で焼き尽くすかのような、激しい愛情の奔流だった。
俺は抵抗することも忘れ、ただその熱に身を委ねるしかなかった。
◇
……ゆっくりと、名残惜しそうに、ようやく彼女の唇が離れる。
二人の間には、熱い吐息と、言葉にならない複雑な感情だけが残されていた。
ローズマリーの白い頬は薔薇のように紅潮し、仮面の下の表情は潤んで、ひどく熱っぽい光を放っていた。
だが、その濡れた唇には、全てを手に入れたかのような、艶然とした微笑みが浮かんでいる。
「ふふっ。わたくしをここまで本気にさせ、理性を失わせてしまった初めての殿方。……ですから、もうご自分を卑下するようなことは、決しておっしゃらないでくださいまし。あなたは、わたくしにとって、命を懸けるだけの価値がある、素晴らしい方なのですから」
「ローズマリー、お前……」
俺は完全に言葉を失い、ただ目の前の、底知れない魅力と狂気を持った女性の熱っぽい視線を、真っ直ぐに受け止めることしかできなかった。
こんな風に、真っ直ぐに俺を求めてくれる女がいるなんてな……。
俺の脳裏に、もう一人の顔が浮かぶ。ミューだ。
あの痛いくらいに純粋で、俺を無条件でヒーローだと信じて疑わない想い。
俺みたいな薄汚れた悪党には、あれが一番タチが悪くて、胸に刺さる。
ミューの純粋な想いも、ナビィの忠実な信頼も、ユウキの不器用な好意も。
そして、目の前にあるローズマリーの、火傷しそうなほどの激しい愛情も。
どれも眩しすぎて、重すぎる。
俺はいつも、過去の亡霊を言い訳にして、アイツららの想いから目を逸らし、はぐらかして逃げてきた。
でも、もう逃げられねえ。
いや……逃げちゃいけねえんだ。
コイツらは、俺のために地獄の底まで迎えに来てくれたんだから。
俺が過去に囚われたまま立ち止まっていて、許されるはずがねえ。
「……ああ……」
俺は、ようやく掠れた声で、でも自分の中の何かが完全に吹っ切れたような、確かな響きで答えた。
「悪かったな。その……。ありがとう、ローズマリー。お前のおかげで、目が覚めたぜ」
俺の言葉に、ローズマリーは嬉しそうに微笑み、再び操縦桿へと向き直った。
真紅の翼は、二つの熱く激しく交錯する想いをその鋼鉄の胸に秘めて、仲間たちが待つスターダスト・レクイエム号へと、確かな熱を帯びて帰還していく。
これからどうなるかは分からねえ。
だが、一つだけ確かなことがある。
俺の背中にはもう、守るべき厄介で愛おしい連中がいるってことだ。




