第93話 絶望の王立監獄コロニー。悪魔の誘惑と、揺るぎない帰還への誓い
……生きて……いるのか……俺は。
光も、音も、温もりさえも届かない、独房の冷たく湿った床の上。
俺は、まるでスクラップ置き場に打ち捨てられたガラクタのように横たわっていた。
アルベルトとの死闘。
エンペラー・オブ・コンドルの圧倒的な破壊力。
俺の半身だったスターゲイザーが砕け散る瞬間の、悲鳴のような閃光。
断片的な悪夢の記憶が、全身の骨という骨、筋肉という筋肉を苛む激痛と共に、俺の意識をゆっくりと、しかし確実に現実へと引き戻していく。
ミューだけを射出し、自分はあの黄金の光に飲まれたはずだった。
皮肉にも、またしても生き延びてしまった己の無駄な悪運の強さを呪いながら、俺は血と煤で張り付いた重い瞼をわずかにこじ開けた。
目に映ったのは、錆び付いた鉄格子の無機質な線と、壁を伝う汚れた水の染み。
鼻をつくのは、カビと消毒液と……凝縮された絶望そのもののような、重く淀んだ匂い。
……クソッ。
ここは、地獄の何丁目だ?
その時。
独房の奥の闇から、コツ……コツ……コツ……と、磨き上げられた軍靴の硬質で冷たい足音が、ゆっくりと近づいてくるのが聞こえた。
「ようやくお目覚めかな、ベレット」
声がした。
それは、かつて俺が「親友」と呼び、背中を預け合った男の声。
だが、その響きには、一緒に馬鹿をやった昔日の温もりなど微塵も残っていなかった。
鉄格子の向こう、闇の中から、アルベルト・フォン・コンドルが、まるで悲劇の舞台に登場する主役のようにゆっくりと姿を現した。
完璧に仕立てられた純白の軍服。後光のように輝く金髪。
女も嫉妬するような完璧な美貌。
だが、俺に向けられたその美しい碧眼は絶対零度の氷のように冷たく、底なしの狂気がゆらゆらと不気味な光を放っていた。
「……アルベルト……!」
俺は、掠れた獣のような声で、その名を吐き捨てるように呼んだ。
身じろぎしようとして、初めて気づく。全身が、分厚いエネルギー拘束具で壁に縫い付けられていた。
冷たく硬い感触が、俺の怒りをさらに掻き立てる。睨みつけることしかできない己の無力さが、死ぬほど歯がゆかった。
「フッ、運がいいのか、悪いのか」
アルベルトは、神が天使を嘲笑うかのような残酷な笑みを唇に浮かべた。
「私のエンペラー・オブ・コンドルの直撃を受けて、まだ息をしているとはな。ゴキブリ並みのしぶとい生命力だ。いや、貴様のような星々に唾棄された裏切り者は、ゴキブリ以下か」
絹のように滑らかな声で紡がれる言葉の一つ一つが、毒を含んだ針のように俺の傷ついた心を容赦なく刺す。
「……答えろ、アルベルト」
俺は床に血の混じった唾を吐きかけ、骨が軋む痛みを無視して問い詰めた。
「あの研究所で、テメエは一体何をやっていた!? 『星の遺産』……あの禁断の力にそこまで執着する、その理由は何だ!?」
「ほう? 死にぞこないの裏切り者に、まだ知りたいことがあると?」
アルベルトは、優雅な仕草で肩をすくめてみせた。
「よかろう、教えてやる。この私が、なぜ星々の理にさえも介入するのかを」
彼の声が、陶酔と狂的な熱を帯び始める。
「私はな、ベレット。この『星の遺産』の神にも等しい力を用いて、腐り落ちたコンドル王国を、かつて銀河に覇を唱えた偉大なる王国へと甦らせるのだ! そして……!」
その碧眼が、非人間的な光で爛々と輝いた。
「失われたものを取り戻す。私のたった一つの宝……リリーナ姉さんを!!!」
「リリーナだ……と……」
リリーナ。
その名前は、鋭い刃のように俺の心を抉った。
俺が命を懸けて愛し、そして守れなかった、たった一人の女。
「そうだ! コンドル王国の希望の象徴! 至宝と謳われた『星詠の巫女』!」
アルベルトは、恍惚とした表情で宣言した。
「リリーナ姉さんを取り戻すためであれば、どんな犠牲でも払ってやるさ! たとえ、この銀河のすべてを代価にしてでもな!」
「……! ミューを捕らえていたのも、そのためなのか!?」
俺の脳裏を、いつも俺の背中にしがみついていた、あの儚げで、でも誰よりも真っ直ぐな少女の姿がよぎった。
「ミュー? ああ。あの、アシュトン家の人形のことか」
アルベルトは、まるで道端に落ちている汚れた石ころについて語るかのように、心底つまらなそうに鼻を鳴らした。
「アレは、『星詠の巫女』の血を引く、貴重な『サンプル』ではあったな。姉さんを完全なる形でこの世に再現するための実験材料として、実に有効に活用させてもらった。まあ、もっとも、用済みになって久しい。名前を聞くまで、忘れておったわ」
「……なん……だと……!?」
俺の思考が、凍りついた。
全身の血が沸騰し、そして一瞬で氷点下まで冷え切るような感覚。
サンプル?
実験材料?
用済み……だと?
あの不器用で、世間知らずで、俺の前で満面の笑みを浮かべるミュー。
俺の背中に温かい体を預け、「ベレットは私が守る」と泣きそうな顔で笑ってくれた、あの眩しい光。
コイツの口から、こともなげに紡ぎ出されたその非人間的で残酷な言葉が、どうしても許せなかった。
「テメエ! ミューに……! あの研究所で、ミューに一体何をした!! 答えろおおおっ!!」
怒りの奔流が、俺の全身を駆け巡る。
フォワードの力が制御不能なまでに昂ぶり、赤いオーラとなって俺の身体から立ち昇った。
ギシリ、とエネルギー拘束具が悲鳴のような音を立てて軋む。
「フッ」
アルベルトは、俺の怒りをむしろ楽しむかのように、歪んだ笑みを浮かべた。
「アレは、私の婚約者でもあったからな。コンドルの輝かしい未来のため、その身を捧げるのは女として当然の義務であろう?」
何の呵責もなく、悪びれる様子もなく、淡々と答える。
「アルベルトォォォォォォッ!! テメエだけは……! 絶対に、許さねえ!!」
俺は咆哮し、全身全霊の力で拘束具を引きちぎろうと、もがき、暴れた。
だが、無情な鎖はびくともしない。
俺のフォワードが、ただ虚しく独房の壁に吸い込まれていく。
圧倒的な無力感。
それが、俺の心を暗く重く、絶望の色に染め上げていく。
「無駄な抵抗はよせ、ベレット」
アルベルトは冷たく言い放った。
「お前は、もう終わりだ。過去の亡霊らしく、この光の届かぬ牢獄で、静かに朽ち果てるがいい」
彼はそう言うと、優雅に背を向けた。
「待て! アルベルト! 行くな!」
俺は、掠れた悲痛な声で叫んだ。
「なぜなんだ!? なぜ、お前はこんな、血も涙もねえ化け物に成り下がっちまったんだ……!?」
俺の声は、もはや怒りではなく、深い悲しみの慟哭となって、牢獄の冷たい壁に虚しく響き渡った。
かつての記憶。
三人で駆け抜けた、眩しい青春の日々。
あの頃の少し生意気で、でも真っ直ぐで不器用だったアルベルトは、一体どこへ消えてしまったのか。
アルベルトは、ゆっくりと振り返った。
その完璧な横顔。
美しい碧眼の奥に、ほんの一瞬だけ、悲しみの影が星屑のようにきらりと光ってよぎったように見えた。
「なぜ、だと……? フッ……」
唇から、乾いた、自嘲するような笑いが漏れた。
「お前はやはり何も分かっていない。何もな、ベレット」
アルベルトの声は、狂気と、そして打ち捨てられた子供のような純粋な想いが、痛々しく入り混じっていた。
「私は、コンドルを甦らせたいのだ! あの星々がひれ伏した栄光の日々を、この手に取り戻したいのだ! 父上が病に倒れ、愚かな内乱で国が荒れ、そして姉さんが……! 私の、たった一人の光だったリリーナ姉さんが、あんな無残な形で奪われた……! あの屈辱と絶望の日々を、私は決して忘れたりなどしない!」
アルベルトは震える声で、リリーナとの輝かしい思い出を語り始めた。
太陽のように明るく、春風のように優しく、そして誰よりも強く気高い魂を持っていた女。
俺にとっても、そして彼にとっても、彼女は世界の全てだった。
「リリーナ姉さんは、いつも私のそばにいてくれた。私のこの未熟な夢を、誰よりも信じ、支えてくれた。この傾きかけたコンドルを、必ずや偉大な王国として復興させると。そう、星空の下で誓い合った! なのに……!」
声が、ドス黒い憎悪に歪む。
「お前も! この私も! 彼女を守ることさえできなかった……! あの時! お前がもっと強ければ! いや、この私がもっと役に立つ男であったなら! 姉さんは死なずに済んだ!」
純白の手袋に包まれた手を、強く、血が滲むほど握りしめる。
「そして今……! 姉さんがいれば、きっと……! きっと、誰も苦しまずに済んだんだ!」
アルベルトの貌に、一筋の熱い涙が伝い落ちた。
「だから、私は決めたのだ」
彼の瞳に、再び狂気的な決意の光が燃え上がった。
「『星の遺産』の神にも等しい力を使って、コンドルを、そしてリリーナ姉さんを、この手に完全に蘇らせる、と! たとえそれが、星々の理に反する禁断の道であろうとも! たとえ、どんな汚れた代償を払ってでも、なあ!」
理性を焼き尽くす業火の輝きを取り戻したその碧眼で、アルベルトは、まるで俺に救いの手を差し伸べるかのように言った。
「ベレット。私と共に来い。お前も、もう一度リリーナ姉さんに会いたいだろう? 姉さんは、お前のことも本当に可愛がっていたからな。私の隣で共に、新たな永遠のコンドルを築こうではないか。そして、蘇った姉さんと共に、永遠の時を生きるのだ」
それは、甘美で、抗いがたい、悪魔の誘惑。
『リリーナに、もう一度会える』。
その言葉は、俺の傷ついた魂を激しく揺さぶった。
彼女の笑顔、彼女の声、彼女の温もり。
失われたはずのかけがえのない光景が、脳裏に鮮やかに蘇る。
手を伸ばせば、そこに彼女がいるかのような錯覚。
賞金稼ぎなんていう泥にまみれた生活を捨てて、あの日に帰れるなら。
……リリーナ……!
だが。
それは、ほんの一瞬の儚い幻影に過ぎない。
俺は心の奥底で、別の、もっと確かな、温かい光の感触を覚えていた。
俺の背中に押し当てられた、ミューの震える体温。
「絶対に守る」と言ってくれた、あの不器用で真っ直ぐな想い。
俺みたいな薄汚れた男に、どこまでも無防備な信頼を向けてくれるアイツを。
そして、帰りを待っているアイツらを裏切ってまで、過去の亡霊にすがるほど、俺は落ちぶれちゃいねえ。
俺は、アルベルトの差し出した手を、魂で強く振り払うように首を横に振った。
「……違う……!」
声は血を吐くように掠れていたが、そこには、迷いを振り払った鋼のような決意が宿っていた。
「それは、リリーナじゃねえ!」
俺は、アルベルトの狂気に歪んだ瞳を真っ直ぐに見据え、言い放った。
「お前がその汚れた力で創り出そうとしているのは、リリーナの姿をした、ただの魂のない人形だ! 抜け殻だ! 俺たちが愛したリリーナは、そんな歪んだ、醜い形での復活なんて、決して望んじゃいねえええ!!」
「人形だと? 貴様! 何を言うかぁっ!!」
アルベルトは激昂し、顔を憎悪に醜く歪ませた。
「『星の遺産』の力は完全なのだ! 姉さんのその美しい魂ごと、記憶も、感情も、全て完璧にこの世に蘇らせることができるのだ!!」
「いいや、違う!」
俺は堪えていた涙をついに流しながら、魂を振り絞るように叫んだ。
「俺は! 俺は、リリーナと共に過ごした全ての時間を、この身に、この魂に刻み込んでいる! だから分かる! たとえお前が同じ姿、同じ記憶を持つ『何か』を創り出したとしても、それは俺たちが愛したリリーナじゃねえ! リリーナは、もうこの宇宙のどこにもいねえんだよ、アルベルト!! お前は、それを受け入れねえといけねえんだ……!」
「黙れ……! 黙れ、黙れ、黙れぇぇぇぇぇっ!!」
アルベルトは耳を塞ぎ、駄々をこねる子供のように叫んで、俺の言葉を激しく拒絶した。
「裏切り者の戯言など聞きたくもないわ!!」
彼は憎悪と絶望と、そして見透かされたことへの恐怖に満ちた瞳で、俺を強く睨みつけた。
「もう貴様に用はない。ここで永遠に、己の無力さと過去の幻影を抱きしめながら、一人で朽ち果てるがいい!」
アルベルトはそう言い放つと、完全に背を向けた。
そして、独房の深い闇の中へと消えていく。
「待て、アルベルト! まだ話は終わっちゃいねえ! お前はただ、リリーナの死から目を背けて逃げているだけだ! その事実と向き合わねえと、リリーナは永遠に浮かばれねえんだぞ!」
俺は必死に、掠れた声でかつての親友の名を呼んだ。
だが、その声はもはや、狂気に囚われたアイツには届かない。
「アルベルト!!」
俺の悲痛な叫びだけが、冷たく重い沈黙が支配する鉄格子の牢獄に、虚しく響き渡った。
……かつての輝かしい友情の絆は、今やもうない。
リリーナの死というあまりにも重い現実から目を背け、逃げ出した自分。
そして、その死を受け入れられず、狂気という名の歪んだ未来を渇望するかつての親友。
二つの道は、もはや決して交わることはない。
ただ、いつか、どこかで。互いの全てを懸けて、拳で決着をつけなければならない。
俺は独房の冷たく硬い床の上で、静かに目を閉じた。
俺みたいな日陰者には、もったいない連中ばかりだ。
俺は心の奥底で、遠い宇宙にいるであろう仲間たちの顔を一人ずつ思い浮かべた。
いつも完璧なサポートをしてくれるくせに、最後にあんな悲痛な声を出させてしまったナビィ。
妖艶な大人の余裕で俺をからかいながら、誰よりも熱い覚悟で背中を支えてくれたローズマリー。
生意気な口ばかり叩くくせに、親父の夢を背負って必死に生きているユウキ。
そして……。
俺の荒んだ心を温かい光で照らしてくれた、ミュー。
俺の心には、絶望の淵にあってもなお消えることのない、仲間への想いと反撃の炎が、静かに、だが熱く燃え上がっていた。
俺は、まだ終わっちゃいねえ……!
生きて、必ずお前らの元へ帰るんだ……!




