2章:12話「襲撃者」
「――へくちっ!」
レオンは、背筋を鋭い氷柱で撫でられたような悪寒に襲われ、小さなくしゃみを一つした。
湯船は暖かいはずなのに、身体の芯だけが冷えているような、奇妙な感覚。
「⋯⋯最近、寒気が多いな⋯⋯。⋯⋯風邪、引いちゃったのかな⋯⋯?」
彼は、その小さな呟きがよく響く大浴場で一人零した。
湯面から立ち上るのは、高価な香油の甘い香り。
だが、大きく息を吸い込むと、肺の底には冷たい海水の気配が残る。
ドワーフの職人が岩盤をくり抜いて造ったというこの大浴場は、壁一面に荒波と海獣の彫刻が施されており、湯気に煙るその様は、まるで海底神殿に迷い込んだかのような荘厳さを放っていた。
豪奢な湯に浸かりながら、レオンは先ほどのカルとのやり取りを思い出していた。
――レオンの姿を見た瞬間、今にも湯気が出そうなほど顔を真っ赤にして逃げ出した、友の姿を。
『お、お前! 何してんだ! ここは男湯だぞ!?』
『⋯⋯? 知ってるよ⋯⋯?』
『え⋯⋯? その声⋯⋯。お、お前、もしかして、レオン、か⋯⋯?』
『見ればわかるでしょ⋯⋯?』
『わかんねーよ! なんだ、その格好は!?』
『え? だって、髪がお湯に入っちゃうし、⋯⋯裸、見られるの、恥ずかしい⋯⋯』
『〜〜〜〜!! その反応をやめろ! 恥じらうな! 顔を赤らめるな!!』
『⋯⋯カルだって、顔、真っ赤だよ⋯⋯?』
――カルは、腰にタオルを一枚巻いたのみ。対してレオンは、長い金髪をまとめ、さらに長めのタオルで胸から下を隠していた。
彼の顔立ちもあってか、カルには男湯にいきなり少女が入ってきたようにしか映らなかったのだ。
表情を軽く赤らめながら告げるレオンに、カルは顔をレオンより真っ赤にしながら、『もういい! 俺は先に上がるからな!!』と言って出てしまったのだった。
(カル、顔が真っ赤だったな⋯⋯。やっぱり、お湯がちょっと熱すぎたのかな?)
カルが何に怒っているのか全く見当のつかないレオンは、釈然としないまま大浴場で一人、豪奢な湯を堪能していたのだった。
――不安そうに傷だらけの自分の手のひらを見つめ、握ったり開いたりしながら。
(⋯⋯やっぱり、体の感覚が鈍い。⋯⋯魔法も上手く使えないし、どうしたものかな。)
彼は、自分の呟きがこぼれない様に耳まで浸かり、お湯の中でぶくぶくと一人ごちる。
――魔導管の激痛。上手く魔法陣を描けない状態の少年は、彼女たちの前では気丈に振る舞い――または流されていたが――ずっと不安に思っていた。
(もし、このまま戦う事が出来なかったら⋯⋯。僕は、どうしたらいい⋯⋯?)
それに加えて、いくら乗り心地の良い馬車に乗っていたからといっても、丸三日は馬車の中で移動していたのだ。
彼でなくとも、疲れを隠せないのは無理のないように思えた。
慢性的な魔力不足のレオンにとって、生命線でもある魔剣は浴場までは持ち込めない。
いくら彼を支えるように魔力を渡す魔剣であろうとも、いつでも支えてくれるわけではないのだ。
(⋯⋯また浴場で倒れたら大変だし、今の内に上がっておこう。)
彼は迷いを振り払うように首を振り、同時に浴槽から立ち上がる。
――僅かに感じる四肢の重みと全身の倦怠感。
そして、両腕のじんわりとした痛みを感じながら浴場を後にしようとすると、急に冷ややかな潮風と彼の鼻腔に潮の香りが届けられた。
突然訪れた冷気に、その華奢な身体を僅かに震わせると、レオンは浴場の上部にある窓を見つめる。
「⋯⋯あれ? 窓、開いてたっけ――」
レオンが言い切る前に、彼の視界から光が消える。
――かと思えば、彼の濡れた肌にふぁさり、という柔らかな羽音と暖かな羽毛の感触が押し付けられ、レオンの全身を包み込んだのだ。
「⋯⋯ひゃっ!!」
「――みーつけた♡」
耳元で囁かれた、無垢ながらも甘い色を含んだ声。
しかし、彼の身体を包む純白の翼は、まるで獲物を逃さない蜘蛛の糸のように強く、レオンの華奢な四肢を締め付けている。
「ひっ! だ、誰!?」
「酷いなぁ。もう忘れちゃったの〜? わ、た、し! リリィだよ♡」
「⋯⋯え? 昼間の、天使さん⋯⋯? どうして、ここに?」
「また、君に会いたくなっちゃったんだ〜。⋯⋯まさか、"ドン"の所とは、思わなかったかったけど」
「⋯⋯ぼ、僕に、ですか⋯⋯?」
「そ! 私の羽、気持ちいいでしょ〜?」
「ひぅ!」
翼の形をした蜘蛛の糸に囚われたレオンは、必死にそこから抜け出そうと身体を捩る。
――が、その翼は緩むどころかさらに締め付けを強めて、その柔らかな羽毛の感触を、全身で余すところなく感じる形となってしまう。
「ふふ、可愛いね♡ ⋯⋯レオン君の体、とってもちっちゃくて、私の翼に埋もれちゃったね♡」
「⋯⋯は、離して⋯⋯、下さい⋯⋯!」
「だーめ♡ ⋯⋯レオン君。いや、レオンは、私が連れて行っちゃうから」
「⋯⋯!!」
『今回奪われているのは、生きた“若い女“。それも、大量に、だ。』
レオンの脳裏で、アルクが作戦会議で話していた言葉が反芻し、彼の貌は怯えに染まる。
必死に翼から脱出しようともがくレオンだったが、見かけに反して翼の力は強く、全く身動きが取れない。
そんな状況で口だけしか動かすことができない彼は、一つ、閃いたように叫び始めた。
「――引っかかったな! 僕は、男だぞ!!」
「⋯⋯? 知ってるよ? いきなりどうしたの?」
急に勇ましく声を上げる少年に、リリィはポカン、という貌を浮かべた。
そんな少女の様子に気付かず、レオンは続ける。
「とぼけないでください! 貴方も、賊の仲間なんでしょう⋯⋯!?」
「“ぞくぅ〜“? ひっど〜い! こんなに可愛い賊がいるかっ!」
「――それは、聞き捨てなりませんね、レオンさん」
リリィがむくれた表情で叫ぶと、それとは正反対の、温度のない淑やかな声が浴場に響き渡った。
突如として、浴場の灯りが暗く沈む。
――現れたのは、光すら吸い込むような巨大な漆黒の翼。
ライサは、羽に囚われたままのレオンを、無機質な瞳で見下ろしながら口を開く。
「私たちは、レオンさんにちょっとついてきて欲しいだけです。⋯⋯今晩だけでよいので」
え? という声と共に間抜けな表情のレオン。状況が読めない彼は、戸惑いながらも続けた。
「⋯⋯それは、どうして、ですか⋯⋯?」
「あなたは、大きな勘違いをしている。それを説明したいのです。私たちは、あなたの事をもっと知るために。そして、あなたに私たちの事を知ってもらおうと思って」
「⋯⋯待って、下さい。話が――」
「――もっとも、あなたが“戻りたくなくなる“、かもしれませんが⋯⋯」
「⋯⋯ひっ!」
淑やかに話していたライサだったが、その雰囲気は徐々に獰猛になっていく。
やがて、彼女の青い瞳には、猛禽類が獲物を定めたように鋭くなり、レオンは本能的な恐怖から身を竦ませ、怯えた声を出すので精一杯だった。
「ま、ここじゃなんだし〜。さっさと行こっか♡」
「急ぎましょう、リリィ。少し、時間を掛けすぎました――」
――ライサが言葉を終える前に、浴場に響き渡る硝子の割れる音。
それと同時に訪れた黒い疾風が、レオンを取り戻すように駆け抜ける。
「――っ!!」
突如浴場に現れた、強大な殺気の塊。
それを感じてかわしたリリィは、レオンを捕らえていた翼を羽ばたかせ、本能的に距離を取る。
翼から解放されたレオンは、一瞬宙を舞ったが、その殺気の主――ルナに受け止められたのだ。
「レオン、ご無事ですか?」
「ルナ! そ、その格好は⋯⋯!」
レオンは顔を真っ赤に染めながら、彼女を見ないように自分の両目を抑える。
――ルナは、レオンと同じ格好。つまり、長めのタオルで胸から下を隠しているだけだったのだ。
彼女は丸腰のまま、襲撃者二人に構える。
――何も持たないはずのその手から、蒼い魔力が陽炎のように揺らめき立つと、瞬く間に鋭利な刃の形を成した。
魔力によって寸分の狂いなく再現された、仮初の、しかし必殺の愛刀が、そこの手に現れたのだ。
「入浴中のレオンを襲うとは、考えましたね。ずるい」
ルナは、眉一つ動かさずに告げる。その声音は、酷く怒っているようにも、心底羨ましがっているようにも聞こえた。
そんな彼女の様子を見て、リリィはライサに呟く。
「二対一、だけど⋯⋯、どうする? ライサ」
「ここは引きましょう。⋯⋯あの剣士、まずそうです」
「⋯⋯はぁ〜あ。折角、手に入れたと思ったのに⋯⋯」
リリィがあからさまに肩を落としてため息を吐く。
――そして、下を向いた彼女は、湯面の変化にいち早く気がついた。
「――『水の鋭槍』!!」
浴場に響き渡る、ミーナの叫び声。
それと同時に、浴槽の湯が何本もの水の槍に変化すると、その槍は二人の翼人を貫くように飛んでいく。
二人は、槍に串刺しにされる前に開いた窓から飛び出し、逃げていった。
「あっぶな〜!! ⋯⋯もう、レオン! 今度は必ず連れていくからね〜!!」
「――リリィ! 避けなさい!!」
「!! ひゃっ!!」
リリィが仰反るように身体を逸らすと、一瞬前まで彼女の頭があった空間を不可視の“風の矢“が貫き、闇夜に吸い込まれていく。
――『旋風の矢』
詠唱破棄どころか、構えすらなく放たれた一撃。
クロラは、自分の矢が外れたのを確認すると、小さく舌打ちをする。その瞳は、逃げていく獲物の背中を、爬虫類のように冷たく見据えていた。
「レオン団長! お怪我はありませんか!?」
「⋯⋯み、ミーナ? あ、ありがとう⋯⋯」
ルナに抱かれたままのレオンは、相変わらず目を自分で隠しながら、ミーナに感謝を告げた。
「ごめんねぇ〜、レオンさま。⋯⋯あいつら、逃しちゃったよ」
「⋯⋯クロラ。大丈夫、助かったよ。ありがとう」
ミーナに続いて浴場へ入ってきたクロラに、またも目を隠しながら告げるレオン。
――彼は、先ほどとは別の嫌な予感がしていた。今、この目を隠している手をどけたらまずい、と。
⋯⋯特にクロラは。
「⋯⋯ところで、三人はどうしてここに? ここ、男湯だよ⋯⋯?」
「ルナは、レオンのお背中を流そうと思って⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
レオンは、目を隠しながらもルナの表情が想像できた。――きっと、眉一つ動かさない涼しい顔で、先の言葉を発しているのだろう、と。
そんなレオンの沈黙を無視するかのように、次はクロラが続けた。
「私とミーナちゃんはぁ〜。の・ぞ・き♡」
「えっ、なっ! ち、違います! クロラさんを止めに来たんです!! それと、ちゃんと体を隠してください!!」
「んも〜、ミーナちゃんたらぁ〜。満更でもないくせにぃ〜♡」
「ち、違います! 違いますから!!」
ぎゃあぎゃあ、と言い争うクロラとミーナ。それを無視するかのように、今度はルナが告げる。
「レオン。お背中、お流しします」
「⋯⋯ルナ。もう大丈夫だよ。これから上がるところだったんだ」
「ダメです。“あいつら“の匂いがついています。⋯⋯ルナの匂いで、しっかり上書きしないと」
「⋯⋯ルナ、さん⋯⋯? 力が、つよい⋯⋯」
ルナは、逃さないとばかりにレオンを抱く力を強めた。その瞳は、敵を斬る時よりも真剣で、どこか熱っぽい。
結局、彼は羽だらけになった身体を、制止を無視し続けるルナとクロラの手によって、ミーナの監視の元で隅々まで洗い清められることになったのだった。




