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1章:プロローグ「魔剣と氷像」


 ――"ねえ。もし、過去を変えられるとしたら。君は、何を変えたい?"


 

 頭の中で響くのは、性別も年齢も判然としない、ただ透明に澄んだ天使のような声。

 混濁した意識が見せる幻覚なのか、あるいは死の淵への誘いなのか、判断がつかない。


 

「――わからない。この判断が、正しいのかなんて⋯⋯」


 

 ただ、その問いに関する答えだけが、空虚な心の中で形をなさずに漂っている。


 

 闇が支配する洞窟の奥。湿った岩肌をその騎士――レオハルト・フォン・リヒトホーフェンは、体を引き摺るようにして進んでいた。

 

 鎧は血と泥に塗れ、左脇腹には装甲を嘲笑うかのように矢が深々と刺さっている。

 彼の体内で埋まったままの(やじり)は、一歩動くたびに肉の中で踊り、神経を無慈悲に掻き毟った。


 (っ! いっそ、貫通してくれていれば⋯⋯。)


 皮肉めいた願いが、微かな吐息と共に漏れた。

 

 鏃に塗られていた毒は、すでにその牙を剥き、指先の感覚を奪い去っている。

 任務中に現れた“鎧を装備した賊“。そんな敵から、部下を逃すための囮となった。

 

 それが、騎士学校で“落ちこぼれのレオン“と呼ばれる少年にできる唯一の、そして最後の奉公だった。


 

 『――また、一人で逃げるのか。お前だけ、助かろうとするのか』

 

「⋯⋯! ⋯⋯ごめん、なさい⋯⋯」


 

 少年の視界が灰色に染まる。同時に耳に届く美しい声とは別の、喉を焼かれたような掠れた声。

 それは、華奢な身体へと怨嗟の声を響かせながら、脇腹の傷が脈を打たせた。

 

 レオンは反射的に謝り、その体を強張らせた。


 

 ――あの日。奪われた故郷で助け出され、生き残ってしまった“罪“。


 

 最後まで血塗れの手で握ってくれていた人の顔は、もう思い出せない。

 それを清算するための死に場所を、無意識に求めていたのかもしれない。


 

 『――返せ、その"命"』

 

「⋯⋯ごめん、なさ――あっ」


 

 ぐじゃ、と足がもつれて地面に倒れる。


 手足の痺れが全身に回ったからか、それとも、怨嗟の声に足を引かれたのかは、少年にはわからなかった。

 

 水溜りに映った少年の顔は、見るに堪えないほど無様だ。

 女にしか見えないと揶揄されるほどの端正な顔立ちは恐怖で引き攣り、泥と涙に塗れている。

 

 ただ一点、淡く光を放つ深い紫色の瞳――レオンの持つ“眼“だけが、逃れられぬ呪いのようにそこにあった。


 

 『――惨めだな、"落ちこぼれ"』

 

「⋯⋯ごめ⋯⋯、な⋯⋯。ごめ⋯⋯」


 

 泥に塗れた、金の三つ編み。

 嘲笑の的だった華奢な体躯の少年は、掠れた声すら口から零れず、口を開いては閉じている。

 

 ――騎士学校で『落ちこぼれ』『腰抜け』『卑怯者』と謗られた日々が、走馬灯のように駆け巡る。

 誰にも期待されず、誰の役にも立てず、こうして独り、ゴミのように消えていく。

 

 それが“落ちこぼれのレオン“と呼ばれた少年に相応しい結末なのだと、諦めに似た安堵を抱いていた。


 

 『――オマエもこっちに来い。抜け駆けなんて、許さない』

 

 (⋯⋯ごめん、なさい⋯⋯。)


 

 掠れた声がレオンの耳に届く。

 

 ――幻聴。

 

 灰色の世界にいるレオンには、すでに現実と幻想の区別はついていなかった。言葉さえ失った少年は、心の中で謝り続ける。

 

 だが、その奥底で、心臓が未だ脈打つ。――まるで、“死にたくない“と醜く足掻くように。


 

「――こっちだ! あれは上玉だぞ! 生かして捕えろ!!」

「――っ!!」


 

 喉をせり上がってくる悲鳴すら、その唇から漏れる風にかき消される少年は、背後から迫る賊の無慈悲な怒声を確かに聞いた。


 

 『――生きてて、恥ずかしくないの?』

 

「⋯⋯あ、⋯⋯がっ、⋯⋯はっ⋯⋯」


 

 肺の奥に溜まった血が、気管を逆流して唇から溢れる。


 

 『死ぬべきは、お前だった』

 

「⋯⋯たく、ない。⋯⋯しにたく、ない!」

 

 『お前だけ、ずるいよ』


 

 彼の視界はすでに溢れる涙で歪んでいる。もがくのと同時に、足元が暖かく濡れる。

 傷口から新しい血が溢れたのか、死への恐怖で“粗相“をしてしまったのかは、少年にはもうわからなかった。


 

 『足掻くな、卑怯者』

 

「にげ、な、きゃ⋯⋯」

 

 『やめなよ。また道連れにするつもり?』


 

 幻聴と恐怖に怯え、震える指先が触れた岩肌が、不自然なほど滑らかで、冷たい感触に変わったのはその時だった。


 

「⋯⋯⋯⋯え⋯⋯?」


 

 暴力的な白銀に呑み込まれる、レオンの視界。――その瞬間、少年の視界は急激に色付き、鮮やかに彩った。



 

 

 そこは、凍てついた時間が結晶化したかのような、荘厳な氷の聖堂だった。

 

 洞窟の深奥とは思えないほど高い天井を、どこからともなく差し込む光が七色の虹へと変え、空間をこの世の(ことわり)を超えた神秘へと昇華している。

 

 死にゆく体が求めていた冷気。けれど、不思議と寒くはない。

 凍てつく白銀の世界は、熱に浮かされた彼の頬を、母の手のように優しく撫でた。


 

「⋯⋯きれい。とっても」


 

 こんな状況にも関わらず、思わず溢れる声。


 

 聖堂の中心、円卓を思わせる氷の祭壇。

 そこには、一本の無骨な剣が突き立てられ、それを守護するように五体の美しい氷像が囲んでいた。


 

 

 身の丈ほどもある“刀“を抱えた少女は、今にもその刃を振り下ろさんとする鋭利な気配を纏っている。


 

 膝まで届くほど長い髪を靡かせる少女。その氷の糸一本一本が、光を反射して白銀に輝く。


 

 両目を隠し、悲しげに微笑むおさげの少女。その貌は、見る者の心を締め付けるような情愛を湛えていた。


 

 女王の如き威厳を放つ、艶やかな姿の少女。その指先は、今にも誰かを招き寄せるかのように動き出しそうだ。


 

 そして、フードで全身を隠しながらも異形の弓を携え、一房の髪を跳ねさせた少女。



 

 見知らぬ少女たちの像。

 

 ――だが、なぜだろうか。その悲しげな微笑みに、少年は胸が締め付けられるような郷愁を覚えたのは。


 

 生身の人間と見紛うほど精巧な氷像たちの視線は、一点に注がれている。


 

 中心に突き立てられた、無骨なロングソード。

 

 その()に隙間なく刻まれたルーンの文字だけが、静かに光を放ち、呼吸を繰り返すように魔力を脈動させていた。


 

「⋯⋯あれ、は。もしかして、“魔剣“⋯⋯?」


 

 彼は、残された全ての生命力を振り絞るようにして、祭壇へと這い進んだ。


 

 『関わるな。また殺す気か?』

 

「⋯⋯! ちが、う⋯⋯!」


 

 毒で視界の端が欠け、意識の糸が今にも千切れそうだ。

 這うごとに、傷口が裂ける生々しい音が聞こえる。

 肺は錆びた針を飲み込んでいるかのような激痛。

 

 にも関わらず、彼は止まらなかった。


 

 ――"ねえ。"


 

 運命の声が、再び脳内に響き渡る。

 

 ようやく辿り着いた祭壇。

 震える足に喝を入れ、血に汚れた手で、鈍く光る剣の柄を掴もうとする。


 ――すると、彼がこれまでに背負ってきた罪のすべてを吸い込むように、恐ろしいほど軽く、吸い付くように彼の手へと収まったのだ。


 

 同時に、レオンの深い紫の瞳が、激しく輝く。


 

 ――"もし、過去を変えられるとしたら。"


 

「⋯⋯ぼく、は⋯⋯」


 

 (⋯⋯過去を。僕を。この、寂しさを。)

 (あるいは、“生き残ってしまった“この罪さえも。)


 

 ――"君は、何を変えたい?"


 

「――僕は!!」


 

 願いという名の叫びと共に、レオンはその剣を掴んだ。

 

 重いはずの鉄塊。

 だが、それはまるで羽根のように軽く、吸い付くように掌に収まる。


 

 ――ガキンッ!! と。



 重厚な金属音が輪唱するように聖堂に響き渡る。


 

 凍てついた空気を震わせ、剣が一気に引き抜かれた。


 

 その瞬間、少年の世界から雑音が消えた。幻聴も、痛みも、死の恐怖さえも。

 

 あるのはただ、魂が震えるような全能感と、掌にある確かな熱だけ。

 

 まるで、失われた半身がようやくあるべき場所へ還ってきたかのように、レオンの瞳と剣のルーンは淡く輝いていたのだった。


 

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