9:粉塵と青痣
その日の朝は騒然とした。
彼の、次代淑女の頂きと謳われたシュタット公爵令嬢と同じ馬車から、転入したばかりの男爵令嬢が降りてきたからだ。
たった数日で一体何が起きたのだとざわめくのも束の間で、昼食時には皆が「成程」と頷いてしまう裏話が広がっていた。
『エミリア・ヘッセン男爵令嬢の魔法の師は、あの高名なエカード・シュタット公爵子息だ』
その話を耳にしたある者は、ヘッセン男爵令嬢の魔法の素質がそれ程のものなのかと驚嘆し。
またある者はエカード卿の教えを受けるのは勿論、屋敷に招待される縁を持つなんて夢物語のようだと頬を赤らめ溜息を零した。
だがやはり穿った視点も出てくるようで、兄が庇護する少女を妹は受け入れていないのではないかと、ギーゼラの冷たい表情を揶揄しては白い視線を向けられている者もいた。
かといって当のギーゼラ本人は、喧々諤々と色めき立つ周囲に目もくれず堂々と講義に出席をしていた。
一方、背景を問う声に埋もれるのではないかと内心震えていたエミリアだったが、選択講義で近くに座ったのがヴィヴィカやレイチェルをはじめとした大変可愛らしく落ち着いた淑女たちで、思いの外静かに楽しく過ごせていた。
基礎組でもローグを筆頭とした弁えた子息が壁となりつつ、あたり触りのない会話を選ぶ温厚な少女達と会話に華を咲かせていた。
ある時ちらりとエミリアが見たギーゼラは、今まで通り感情の色が乏しくも美しい顔で淡々と他の子女と戯れていた。
見事な淑女だ、と改めて感嘆出来るのはシュタット公爵家の屋敷での姿を知るからでもあった。
そしてそれはきっと、お互いがそう、思っている事でもあった。
週末を控えた今日の午後は棒術の講義だ。
野外講義は主に午後に入るが、午後の枠を全て使うのは特に武具を使用した講義である。
他の授業同様、一年生から三年生の全学年希望者が受講するため、その様子は眺めているだけでも中々壮観だ。
人によっては毎回見学をするため、もとい声援を送らんと、態々空き時間を作っておくほどなのだ。
各々見やすい木立の影や校舎の一室など、お気に入りの観覧席があるのも面白い。
受講する者は、特に武勲を尊ぶ家系の者がやはり多いが、全てではないのは時世であろう。
ギーゼラの選択した棒術は女子の姿もあちらこちらに在る。
それは、家庭で習う護身以上に主家に仕える際に役立つとして考えられているからでもあるし、まぁ何より、刃がないという点が特に受け入れられているのだが。
気の多い者でなければ殆どの学生が武術は三年間同じものを選択するので顔なじみが出来やすいのもあって、比較的座学より和気藹々とした空気が流れる場はギーゼラもとても好ましく思う。
特に一年目は、講義内容よりもその空気感を見て選ぼうとする子女も多いのだが、そこは武術。
気を抜けば大怪我にも繋がりかねないと講師は、毎年大体この時期は更に講義内容を手厳しくする。
棒を振り回すのにこんなに体力いらないだろうと延々と走らされた後の腕立て伏せに腿上げ反復横跳び。
やっと座れるかと思いきや、準備前の柔軟が冗談のような重圧を身体にかけられ、もうそんなに身体が曲がりません!とどこかしこからも悲鳴が上がる。
「今年も始まったなぁ…何人残るか」
「特に棒術は女子が多いですもの。
剣術はどう?一昨日が初日だったでしょう?」
早くも最後の柔軟をしながら、相方のホーバートに問う。
彼はうーんと軽く唸り難しい顔をしてみせた。
「年々受講者が減っているからか、篩いを緩めたんだ」
「愚策ねぇ」
「俺もそう思う。
何かいい案は無いか、ギーゼラ嬢」
今度はギーゼラがうーんと唸る番だった。
そもそも、騎士団を志す程の腕の者は最初から、学院の代わりに騎士団候補生として過ごし入学免除を受けてこの場には来ないのだ。
学院での武術は、身体を定期的に動かしたい者や必要最低限の習得を望む者が受講する印象がどうして拭えない。
「勝利の日に捧ぐ剣舞を簡易にしたものをやっては如何?
時間をかけても良いなら戯曲や小説、余興でやっても映えると思いますわ」
「どいつもこいつも婦女の眼に留まる事しか考えないなぞ…剣をなんだと」
「聞いたのは貴方でしょう、ホーバート・ボルトロップ辺境伯令息」
勝利の日、とは建国時の戦争勝利を祝う祭日だ。
冬の社交期と重なっており、例年、近衛騎士や騎士団から選抜された独身騎士が剣舞を披露する。
実はブラッツは候補生時代から選ばれており、その界隈では有名だ。
早く結婚すれば良いのに。
「娯楽も武器の一つよ、学んだわね」
「まぁ、ギーゼラ嬢を見てると納得はする」
コン、と棒を地に打ち付け軽く振る。
風を切る音に、講師の洗礼に打ちのめされていた生徒が顔を上げる。
手遊びにしゅるしゅると身体の周りに棒を這わせて構えれば、ホーバートも泰然と背の高さにあった年季入りの棒を力強く振りかぶった。
ギーゼラが紙を切る鋭い風音なら、彼は岩を砕く轟音だろう。
さっと半歩後退し距離をとって棒の先で軌道をずらし、その避けた勢いそのままに身体を反転させ一気に懐へ迫る。
返しの切っ先はホーバートの眉間を狙うも、僅かに顔をのけぞるだけで避けられた。
(眼球すれすれなのに、この胆力)
戦いを知るものだからこそ視線の重みを理解していると言わんばかりの男に、思わずギーゼラの口角が上がった。
脇腹に迫る棒を、地面を蹴り脚力だけで側転し、躱す。
この身軽さは体格の成せる技であろう。
着地すると同時に短く持ち換えた棒を突き出すものの、今度は斜め下から振り上げられる。
最初の一撃よりもずっと軽い打撃なのに、競り負けてギーゼラの棒が吹き飛ばされた。
どうやら読まれていたようなのが気に食わなくて、更にその低い体勢を利用して足払いをかける。
重心が崩れたのか、身体が傾いたホーバートの顔面目掛けて両足を蹴り上げた。
「顔面ばかり狙いおって!」
不敵な笑いを浮かべ、彼は棒を手放して突き出された両足首を掴み上げそのまま後方へ投げた。
少女が猫のように身体を捻り見事な着地をし、駆け出した先は転がる己の武器。
「貴女自分の体格を見てからいいなさいな!
他に急所があって?!」
「ほら!仮想敵だ!かかってこい!!」
呵々と声高に笑いながら投げ込まれた棒が、振り返ったギーゼラの眼前に突き刺さった。
(舐めやがって!)
腹立たしさからそれを足蹴にすると、猛然とした勢いで相手へと突進してゆく。
先の組手よりも速度を増した猛攻が始まる。
何度も鋭い風切音と打撃音が響くが身体強化を施しているのだろう、一向に相手は怯まず、寧ろギーゼラの身にも打撃を与えやり返してくる。
華奢な脇腹を押し返された棒が強かに打ち、裏拳の勢いを殺しきれず棒ごと二の腕に衝撃が走る。
距離を詰め過ぎたのか、取りまわす空間が狭く己の脚を武具が掠る。
瞬きも許されない攻防が続く中で、彼女が持つ武具の切っ先を捉えられないのだけが救いだった。
ふと、少女がぐっと靴先で地面を踏みしめ蹴り上げる。
舞い散る砂に、一瞬、相手が目を細めるのを見逃さず股関節に棒を叩きこんだ。
「っきたねぇ!」
「敵殲滅!」
「いでっ!」
矢のように一閃、棒が男の顎を打てば、流石に効いたのかホーバートが後退して片手を上げた。
「先に武器を手放して遊んだのは貴方よ、お分かり?」
「はー…面白かった、もう一戦!」
「はーい、紳士淑女注目~!」
乾いた音を数度響かせた講師が衆目を集め、掌で二人を示した。
「流石にこの二人は別ですが、棒術を修めると対人制圧は非常に有利となります!
まず何よりも距離を取り牽制するための感覚と、棒を掴まれた時の対処法を訓練しましょう」
ギーゼラとホーバートを除き、一年目の学生を中心に先輩らが賑やかに指導を始めた。
それをみやる二人は顔を見合わせる。
「…見なさいあれよ、ボルトロップ辺境伯令息」
「同じ講義に君あってこそだろう、シュタット公爵令嬢」
一枚も二枚も講師が上手だった。
流石に高位貴族を放っておくことは出来ないのか、他の三年も己の武具を備え組手を始める。
広い訓練場の賑わいは尽きる事なく、終業の鐘が鳴り響く頃には誰もが汗と埃まみれだ。
それは普段、清廉としている淑女たちも例に漏れず、一年目の学生はどことなく恥ずかしそうにいそいそと侍女や友人からタオルを受け取り視線を遮らんとしている。
礼儀を重んじる子息はそれを目に入れないように気遣うが、不躾な輩もいない訳ではない。
「ギーゼラ!」
蒸気した頬を滑り落ちる汗を拭うギーゼラが顔を向けた先には楚々と駆け寄る令嬢達。
この講義でしか見ることが叶わない公爵令嬢の艶やかな姿を隠すように、ヴィヴィカが他数名を引き連れているのはいつもの事だ。
「アムライン侯爵令嬢!」
そして、ヴィヴィカを迎えんと駆けるホーバートの弾んだ声が上がるのも、いつもの事である。
彼の頬が赤いのは運動後だと断ずる者は少ない。
無粋な差し出口だと叱りたくもなるがこうも真っすぐに歓迎されてしまえば、歩みを緩めたヴィヴィカも遮られたギーゼラも苦笑してしまう。
さっと彼のために抱えていたタオルを少女は差し出し、ゆったりと淑女の微笑みを浮かべ出迎える。
「お疲れ様でございます、ボルトロップ辺境伯令息。
本日も良い時間をお過ごしになったようですね」
「ええ、やはりシュタット公爵令嬢程の腕前と打ち合うのは気が昂ります」
恭しくタオルを受け取りながら、講義を振り返っている様子のホーバートを微笑ましそうにヴィヴィカが見上げる姿は傍からみると有名な童話のようだ。
見渡せばいつの間にか同じような、講義中とはまた違う賑やかさがあちらこちらで繰り広げられる。
「それは喜ばしい事で御座います。
どこかお怪我などはされておりませんか?」
「ありがとうございます、俺は大丈夫ですが…」
「ギーゼラ嬢」
良く通る声に少女達の輪が綺麗に分かたれる。
その間を颯爽と歩き近づく姿に、ギーゼラは内心で険しい顔をした。
護衛を率い黒檀の髪を揺らして闊歩するその傍には、訓練場に来るのは珍しいレイチェルの姿もある。
しかしギーゼラの目の前まで近づいたのはアーデルヘルムその人だけだった。
「お疲れ様、今日も見事だったな」
「ありがとう存じます殿下。
私から足を運びますのに、それほどお目に留まったのなら喜ばしい事です」
「何、雄々しくも美しい姿を間近で見たいと思ったのだ」
言外に、埃まみれで汚れ、化粧も落ちた姿を見てくれるなと差し出されたタオルを受け取りつつ文句を言う。
他の恋人達のように想い合い、許し合った仲ならば構わないのだろうが、二人は政略的な婚約者候補だ。
幼馴染として接する公爵家の敷地内ならまだしも、衆目のある学院では遠慮して欲しいところなのに。
ギーゼラの燻ぶった内心を分かっているのか、アーデルヘルムはほんのりと眉を下げた。
それは、ギーゼラの見慣れた「仕方ない奴」と笑う顔とはどこか違っていて、何ともなしに汗を抑えるふりをしてタオルで顔の半分を隠す。
身の置き所を戸惑っている青い瞳を、そっと黄金が撫でる。
「防ぐことも出来ただろうに、何故受けた」
ぼつりと小さな声で問われ、いよいよギーゼラは彼から視線を外した。
何故、と問われても、「そういう気分だった」と子どもみたいな答えしか頭に浮かばなかったのだ。
淑女の仮面を装っても格好がつかない今に、そんな意地の悪い質問を投げないで欲しい。
「顔は護りましたわ」
「君の顔に遠慮をしないのはランハルトだけだろう、全く。
さぁ、医務室へ」
差し出されたアーデルヘルムの手を、ゆるゆると頭を振ってギーゼラは拒んだ。
「御気になさらず。
私の兄は御存じでしょう?」
「ああ、ああ、往年の相識だとも。
そして妹君と春に同じ馬で遠乗りに出る仲、という事もな」
兄には遠く及ばなくも、ギーゼラだって光の魔力の素養はある。
擦り傷や打撲程度なら人の手にかからず自ら治療できる、と暗に示してみるも未だに彼は手を引かない。
それどころか、未だに果たされていない約束を詰る言葉を放ってきた。
ちりと張り詰めた二人の気配を静観する子女の眼が増えてくると、今まで口を閉ざしていたレイチェルが動く。
「殿下、風が出てまいりました。
御身に障りますよ?」
「…」
そうしてやっと、彼の手が下がるも、視線は未だ少女を捉えたままだ。
「ギーゼラ嬢、山吹が見頃だ」
緑の葉の上にころころと咲き乱れる小さくも鮮やかな黄色がギーゼラの瞼に浮かぶ。
晩春、王領の山を馬で駆けた先で良く見た花だ。
その花の濃い黄色と隣の黄金を見比べては、綺麗だと笑い愛でた日が、やたら悠遠に思えた。
「それはとても見事でしょう。
恩師との語らいが無ければ馬を駆りたいところです」
棒術の恩師、レーヴァクーゼン侯爵の訪問が先約されているというギーゼラの言葉を聞き、跳ねるようにアーデルヘルムが背後の護衛を見た。
唐突に鋭い視線を受け、ずっと口を噤んでいたブラッツも流石に虚を突かれたのかはくりと息を飲む。
「だ、そうだぞブラッツ。
息子のお前より弟子の方が孝行者だな」
「…は、お恥ずかしながらそのようです」
「良い時運びとなるのを願っているよ、ギーゼラ嬢」
「ありがとう存じます、殿下」
ゆるりと頭を下げるギーゼラを見やるのは一瞬で、先程の緩慢とした様子からは想像できない程素早く身を翻しアーデルヘルムが校舎へと戻っていく。
ただ、その後を追うレイチェルや、父親から予定を聞いていないブラッツは、困惑した視線をギーゼラへと注いだ。
彼女は冷えた身体を微動だにさせず、じっと頭を下げ続けていた。
練習着の下、あちこちの青痣だけが熱を持っているのをその身に感じていた。




