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7:その宵は値千金


 まぁ予想はしていた。

玄関先の外で待ち構えて無かっただけアレにも分別があったらしい。


「お帰りギーゼラ。

 流石僕の妹だ、こんなに早くヘッセン男爵令嬢と誼を結ぶとは」


さらり、と切り揃った胸まである髪を滑らせ穏やかな外面で出迎えた兄に、妹もこれまた楚々とした笑みを浮かべて返す。


「ただいま戻りました、愛しいお兄様。

 ご紹介は不要かと存じますが、こちら同じ組のエミリア・ヘッセン男爵令嬢よ」

「お目通り嬉しく存じます、ヘッセン男爵家が養女エミリアでございます。

 ひと月も空いていないのに随分久しく思いますね、エカード卿。

 ご健勝のようで幸いですわ」


丁寧に淑女の仮面を装い頭を下げる姿は、今日の授業の失態が嘘のように美しい。

満足げに頷く青年を仰ぐ心から嬉しそうなエミリアの顔は傍から見ていても微笑ましい。


「ヘッセン男爵令嬢も元気そうで何よりだ。

 まだ学院も始まったばかりなのに、妹の我儘に付き合わせてすまないね」

「いえ、この身には幸甚なお誘いですわ」

「僕も嬉しく思うよ、妹もこうして喜んでいるようだし」


そっとギーゼラの腰に手を回し引き寄せる青年はとろりとその蜂蜜色の瞳を弛めた。

こうして実際に並んでいるところを眼前にすると、成程二人は確かに兄妹だ。

緻密な計算の上に作られた触るのも躊躇われるような美しさと、同じ色味の銀髪がとても似ている。


「部屋を用意してあるんだ、案内させよう」

「私の衣装で申し訳ないけれど…一つでも気に入るものがあると嬉しいわ」

「何かとお気遣いありがとう存じます」


一礼し、侍女に案内され上階へと進んでゆく後ろ姿を見送り、それが見えなくなると猛然とエカードはギーゼラを抱き締め頭に頬を摺り寄せた。


「お帰りギィ!寂しさ耐え忍んで待っていたお兄ちゃんになんて酷い仕打ちをするんだ!

 ああなんて罪深い小悪魔に育ってしまったんだ今この瞬間も可愛いさが募って止まない…」


暫しされるが儘になっていたが、兄の一瞬の落ち着きを見逃さず、ギーゼラは絡みついた腕の中から抜け出し距離をとった。

人懐っこい犬より激しい兄からの可愛繰りに乱された主の髪をイーダが無言でさっと直すまでが定型だ。


「私も着替えるから大人しくしていて頂戴お兄様」

「ええ、もっと制服姿を愛でさせてくれよ」

「唯一無二の私をお見せしたいの」

「んんんん…仕方が無い一番最初に見せてくれるので手を打とう」


つまり付いていく、とほざく兄を一瞥で窘めるも、忠告を無視している事を相手も諫めているのだろう。

要求を下げる気はない様子に、はぁとギーゼラは嘆息を落として自室へと歩みを進めた。

その隣には当然のように手を取ったエカードの姿があった。


「最近仕立てた春の緑も好きだが、今宵は女王のような深く濃い紅も捨てがたいね」

「イーダ、ヘッセン男爵令嬢の瞳のような空色を」

「うーんギィは何を着ても似合うな可愛い」

「エカード坊ちゃま」


他の侍女にも促されやっとエカードが退室をすると、部屋は一斉に溜息で溢れかえった。

そして彼女たちは口々に行き過ぎた兄から妹への執着を詰りながらも素早く手を動かしてゆく。

流石は公爵家の使用人、化粧や髪の整えも終えるまであっという間だ。

伊達に小刻みに叩かれ続く扉の騒音に急かされ続けていない。


「うん!可愛い!待ってまさか結い上げてないの、僕とのお揃いを意識してる?

 でかした、キミ達あとで小遣いをあげよう!天才じゃないか!!」

「如何かしらお兄様、貴方の妹よ?」

「最高、言語を絶する美しさだ、今日も生きてて良かった、愛してるよ我が夜海」

「許して下さり嬉しいわ」

「それとこれとは話は別だよ」


徐にエカードがソファーへ腰かけ、長い足を組む。

ギーゼラもと対面に座すと、それを兄は唇を尖らせ抗議してきたが、さらさらと頭を振って突っぱねる。


「僕の愛の在り処を疑うのかいギーゼラ」

「愛は試したくなるものなの、お兄様」


張り詰めた空気は長くは持たず、青年がズルズルと背を滑らせ姿勢を崩した時には霧散していた。

盛大な溜息を零しながら天を仰ぎ片手で顔を覆う兄の姿にギーゼラも目を伏せる。

予想はしていた。

それでも、こうして実際に目の前にすると心苦しい。


「やっぱり大聖堂になんか行かなきゃ良かった」


ぽつりと落とされた声が鼓膜に染み付く。


「僕はね、ギィ。

 公爵家の嫡男として情けないけれど、キミが計略に弄ばれるのを許せない」

「…はい」

「より美しく、より気高く賢くありなさい。

 不躾な糸など逆手に絡めとり、ギィが玩んでやれるほどに」

「はい」


平穏な世だからこそ物語のような大層な山場なんて起きずに、未来は訪れると思っていた。

しっかりと過去にしたつもりだったけれど、甘かったのだろうか。

ただただ、深い家族や友人の愛情に、今もなお守られているのだと知れば知る程。

決めたはずの道に二の足を踏んでいる自分が際立つ。


恋をしようと。

愛し、愛されれば、降りられるはずの舞台(婚約者候補)は、こんなにも高さがあったのだろうか。


傍目から他の二人を見ていたのに、分っていなかった自分が恥ずかしい。

どうして自分にも出来ると思ってしまったのだろう。


そう、後ろ向きになってしまう心を、温かい兄の手がそっと持ち上げる。

ゆるりと頬を撫でる男らしく骨張った掌に甘えるよう、顔を寄せた。

何度も何度も、全てを慈しむように包んでは離れ、寄せては返す波のように愛情が注がれる。


「ギィ、僕だけの妹」

「私の兄も、お兄様だけよ」

「僕の愛を試すくらいなら直接詰ってくれ」

「甘えてしまったの、許して」

「キミはまたそういう可愛い事をどこで覚えて来たんだい、本の読み過ぎだ」

「借りた言葉じゃないわ、私の心よ」

「んぐぅ…罪深い可愛さだ外に出したくない」


かいぐりかいぐり顔を撫でさすり、一人悶絶しているエカードの姿に、ギーゼラも素直な笑みを浮かべる。

更にそれが彼の琴線に触れたのだろうか我慢ならんとテーブルをものともせず抱きしめてくるのを、また声を上げて笑い受け入れる、兄妹の仲の良さに傍に控える使用人たちは暖かな視線を向けていた。


「さて!そろそろエミリアも支度が済んだだろう!」

「あら、やはりヘッセン男爵令嬢は大聖堂の時の方が砕けていらっしゃる?」


食堂へのエスコートを始めた兄を見上げ、妹は小首を傾げた。


「そうだね、まぁ硬くもなるだろうさ。

 寧ろ顔を合わせたのは昨日今日なのに、ギィにはもっと打ち解けているのかい?」

「んふふ悔しい?お兄様」

「これほど楽しそうなギィが可愛くて悔しい」

「彼女が許してくれたら教えてあげる」

「んーーーーーもう一回言って、その台詞」

「ほら、お顔戻して」


でれでれと緩んだ美麗な顔を不遜にもぺしぺしと指先で叩けるのは妹の特権だ。

二人が貴族然と食堂に入り暫くすると、淡い若葉色のドレスを纏ったエミリアが訪れた。

赤味を帯びた金髪と空色の瞳も淡い色合いであるから、差し色のレースの白さも相まって上品でも年頃の愛らしさを損なわない衣装がよく似合っている。

彼女の髪は肩程の長さだからか今宵は結い上げずに一部だけを複雑に編み上げ、ドレスの飾りと揃いのレースをあしらっているのもとても良い感性だ。


感嘆を漏らすギーゼラに、面映ゆそうな笑みを浮かべながらエミリアが淑女の礼を取る。


「素敵、よくお似合いよヘッセン男爵令嬢」

「畏れ多い事で御座います。

 見惚れる衣装ばかりのところ、公爵家の侍女がこちらを勧めてくださったのです」

「それは重畳。

 生憎両親は今夜不在でね、僕で我慢してくれるかい?」

「光栄で御座います」


シュタット公爵家には、ギーゼラに下に3歳と2歳の弟妹が居る。

ただ両親も不在であるため今夜は挨拶もさせず、寂しい思いをさせるが晩餐も別である。

普段だったら着替える前に顔を見せに行くのだが今夜は寝顔しか見られないかもしれない。


「半年程前に大聖堂の暮らしが始まったばかりなのに、今度は学院の寮での暮らしとは。

 こちらの事情とは言え、不便をかけるね。

 慣れるのにも大変だろう?何か不足はないかい、エミリア」


エカードが大聖堂でそうしているのであろうエミリアの名を親しみ持って呼ぶと、彼女はすぐにぱっと花が咲いたように頬を染め、細い身体を子犬のようにそわそわと揺らした。


「っはい!同年代の方々と一緒に生活するのは、大聖堂とまた違ってとても賑やかで楽しいです。

 前以て寮母さんともお話出来ましたし、余裕をもって日々を過ごせています」

「寮のお部屋はどう?

 遠方の方が優先されると耳にしたことがあるけれど、ヘッセン男爵令嬢は個室を頂けました?」

「個室はやはりそのように決定しているのですね。

 私は二人部屋ですが、大聖堂が一人部屋だったので寂しくなくて嬉しいのです」

「あら、じゃあ相部屋の方がきっと今頃寂しがっているわね。

 悪いことをしてしまったわ」

「いえいえ!彼女は一人部屋が良かったそうなので、きっと今頃羽を伸ばしていますよ」

「まぁ」


王都に来てから一番同じ時間を過ごして慣れているのであろう、エカードが緩衝材となったのか、エミリアは終始嬉しそうに声を弾ませ、会話を楽しんでいた。

少々淑女としては落ち着きなく見えたが、正式な場でもないし、二人も彼女が楽しむことを優先した。

賑やかな晩餐はデザートを終え、各々が茶器を手にしていた時、兄付きの執事が早足で上座へ近づく。


「エカード坊ちゃま」

「ん、ああ」


何かを思い出したのか、エカードの視線が何もない空間を彷徨う。

逡巡はすぐさま終わったようで、彼は優美な笑みを浮かべ二人を食堂から玄関へと誘った。


両親は数日前から公爵領に居る筈なのだが、と不審に思うギーゼラの思考を読んだのか、隣の青年は片目を悪戯にぱちりと閉じてみせた。


(…何を仕込んだのかしら)


と、言葉にする前に三人が玄関に到着すれば、すらりと上背のある男が従僕と話していた。


灯りの下でも華やかな燃えるような赤い髪は、騎士としてはやや長めで、前髪も横に流しているのが常。

鍛錬を重ねた体躯の比率だけでも十分美しいのに、王城からそのまま足を運んだのか、純白の近衛騎士の装いが彼を荘厳にも見立てる。

振り返り、紺色の瞳を瞬かせる彼の首元は、普段よりも詰襟を外しているのがなまめかしい。

別に、ギーゼラの言葉がないのは、喉仏が上下する様へ魅入っていた訳ではなく単純に吃驚して言葉に詰まっただけだ。


「やぁブラッツ、素敵な夜だね」

「…エカードお前な」

「おっと、まだ玄関だよ。

 剣呑な空気はしまってくれないか?キミの眼には可憐な淑女たちが映らないらしい、嘆かわしい事だ」


珍しく怒気を漂わせるブラッツを、宥めすかすようにエカードが肩を組み大袈裟に振る舞う。

周囲に気を配る彼が思わず言葉を崩してしまったのは、ギーゼラの後ろに立つエミリアに誤魔化せただろうか。

存外、礼節を尊び常に綺麗な言葉遣いをする騎士に夢見る少女は多いのだ。


「ハ…ハワァ…」

「ヘッセン男爵令嬢?」


確かブラッツ曰く、警戒されていたと話していたのだが。

どうした事か今宵の彼は素敵に見えるんだろう、エミリアの頬が蒸気し、その大きな瞳は熱を帯びている。


あらまぁとギーゼラが内心で驚いていると、どうやら兄達は遊戯室に向かうらしい。

残されたエミリアの顔をそっと覗き込みギーゼラが小首を傾げる。


「ヘッセン男爵令嬢、お疲れになったでしょう?」

「え、あ…はい」

「ごめんなさいね急に誘ったから気も落ち着かないでしょうに」

「い、いやいや!全く!元気ですが!」


(おっと急に口調が面白くなってきたわ)


「…本当はゆっくり夜更かしを出来れば、なんて私が浮かれていたわ」

「えっ?!」

「それでもやっぱり気持ちが捨てきれないの。

 ねぇ、湯あみを終えたら少しだけ、私のお部屋でお話いたしませんこと?」

「えっ!す、すます!」


がっしりとギーゼラの手を両手で握り締め、気でもやったように頭を上下に振り立てる。

一体何がそこまでエミリアを駆り立てているのかは、是非後ほど尋ねるとしよう。

そう心の中でほくそ笑みつつ、二人もそれぞれの部屋へと向かうのだった。



入浴を済ませると、早足にだがなんとか眠る前の弟妹の顔を見る事ができた。

父母に甘えたい盛りなのに寂しい思いをさせて申し訳ない。

日中は兄が構っていても、歳が離れているからかギーゼラに対するもののように猫可愛がりはしない。

やたら濃い溺愛を注がれている身としてはいい塩梅に分散してくれても良いのだが。


自室に戻って暫くするとエミリアが訪ねてきた。

平素であればソファーを勧めるところだが、ちょっと今夜は趣向を変え大胆に出てみても楽しそうだ。


「こちらにお座りになって」

「え」


ぽふぽふとギーゼラが叩いて示した場所は、ベッドの真ん中だ。

彼女は既に室内履きを脱ぎ、ふんわりと寝巻の裾を膨らまし枕元に鎮座していた。

恐る恐るエミリアが雲の上を這う姿は小心者の猫のようだ。


二人の少女が落ち着くとどこからともなくイーダが小さな盆に乗せた茶器を用意し傍らに置く。


「羽織がなくて肌寒くはない?」

「いやいや、あちこちもみほぐされてホカホカです!」

「邪魔で無ければかけておいた方が良いわ」


今度はいつの間に取りに行ったのだろうか、薄手の羽織をイーダがエミリアの肩にそっとかける。

流石イーダだ素晴らしいと誇る様に見上げれば、薄っすらと彼女の口元にも笑みが浮かんだ。


「学院が始まるに際して、ヘッセン男爵令嬢の事をお兄様は心配なさっていたから…。

 今日貴女からじかにお話しをいただけてとても嬉しそうでしたわ、ありがとう」

「此方こそお心配り頂き恐縮でございます」


ベッドの上に招くのは流石に失礼だったろうか。

急に畏まり、距離をとった話し方をしだしたエミリアはそっと顔を俯き、視線を彷徨わせている。

勿論私的な空間に限るが、ギーゼラは先ほどのような口調を既に言外で許している。


しかし彼女は根が真面目なのだろう、取るべき礼を失していたことを詫びるように深く深く頭を下げた。


「初めて御声を掛けて頂いた時より、終始お見苦しい姿を失礼いたしましたシュタット公爵令嬢」

「許します」

「っ、お、御心遣いありがとう存じますぅ…」

「儀礼講義の時はちょっと悲しかったわ、体調はいかが?」

「ごめんなさいー!」


そのまま両腕をベッドにつけ頭を抱える姿が、駄々をこねて泣き喚き梃でも動かなくなった弟妹に似ていて、思わずその頭をよしよしと撫でてやる。

中々面を上げないと思ったら、彼女の細い肩が震えていた。


「私こそ追い詰めてしまったわ、許して下さる?」

「ぐぅ…!わ、わた、わたしがぁ…一方的に、被害妄想していただけでぇ」

「悪循環してしまうわよね、相談できる人も傍にいらっしゃらないのだから」

「んえ゛ーーーーっ!!優しすぎでは?!徳を積みすぎでは!」

「ふっふふ、貴女の鳴き声、可愛らしい」

「笑い声が可愛すぎるんですがぁ」


さらさらと滑らかな髪を梳いてやれば、やっと落ち着いたのかのっそりと上体を起こし、イーダから差し出されたハンカチで鼻を抑えながら涙の残った長い睫毛をぱしぱしと揺らしていた。

無邪気という評はこういうところを見抜いたのかしらと、ギーゼラは一人思う。


「今更ながらこの話し方、耳障りではありませんか?」

「貴女の声が可愛らしくて魅力的と私は告げたわ」

「噛み砕いて」

「好きよ」

「ん゛ーーーー!」

「その反応もとても面白いわ、好き」

「ん゛ん゛ーーー!!二段階爆撃!」


折角持ち直したのにまたエミリアは崩れ落ち顔を隠してしまう。

手持無沙汰となったギーゼラの指が、彼女の小さな耳を玩ぶ。


「他の人に聞かせるのが勿体無いのよ、分かって下さる?」

「シュタット公爵令嬢の沼が深い」

「沼?」

「ああーっとですねぇ、…学院でお話した事、覚えていますか?」


そっと伏せていた顔を傾け、上目遣いで見上げてくる少女の何と愛らしい事か。

思わず頬を撫でさすってしまう。

大きな愛猫を得た心地とはまさしくこのようなものであろう。


「ええ、『てんぷれ、がんめんこくほう、まんつーれっすん』ですわね」

「そこからちょっと進んで」

「異世界転生モノ、と…モノは人を指すのではなくて?」


頭を過ったのが『この不届き者』という表現だったため、意思の疎通を試みる。

ギーゼラの撫でる手が心地よいのだろう、ちょっととろけた顔をしていた少女の瞳が慌てたように覚醒する。


「異なる世界に生まれ変わった人の物語系統、みたいな意味です」

「成程、だから『展開』が『約束』されているのね。

 勇士の勝利を姫に捧げる、姫が病弱な王子を献身で救う、みたいなものかしら」

「物語の登場人物に生まれ変わる、という物語が流行していたのです」

「まぁ楽しそうね」


自分の今まで読んだ物語の中に生まれ変わり、暮らしてみるというのはそれこそおとぎ話のようだ。

隣国からでもそのような流行は届いていないが彼女の故郷独特のものなのだろうか。


「…私は前世の記憶があるのです」

「…前世?」


ふと動きの止まった手に、エミリアは唇を震わすが、追い縋る事はなく、ただそっと視線を遠くに投げた。


「異世界転生モノが流行っていたのは、前世の世界なのです」


緩慢な動きで瞬きながら訥々と語る様子にギーゼラは言葉が出なかった。

聞き馴染みのない言葉が次々飛び出してくると思えば、どうやらその語彙も前世のものらしい。


文明がここよりもずっと進んでいた世界。

魔法のない世界。

もっと身分差のない世界。

慣れ親しんだこの世界とあまりにも様相が異なる前の世界。


「思い出したのは昨年の聖火を見た時でした」


夏の最も盛りの日。

聖夏祭の、一番大事な行事だ。


教会前の広場で、銀杯の中で煌々と燃え盛る大火を見ていたら、ふと得体の知れない光景が瞼の裏をちらついたそうだ。

最初はあまりに瞬く間の出来事だったので、何を見たのかも、それこそ意識を飛ばしたことさえ気のせいかとエミリアが一呼吸した途端、耳鳴りが凄まじい速度で自分に迫ったという。


「耳鳴りなのに質量があるような気がして、押し出された目が飛び出るかと思いました」


耳から目へ、ぬるりと溢れ出た質量が今度は脳天から振り落とされ、少女は思わず膝をつく。

周囲には友人や行き交う人々が大勢いたはずなのに、唐突に気配が消えた。


実体のない無体を振り払おうともひたすらに手は空を掻く。

まるで唇の両端を誰かに抑えられ、口を閉ざすことを封じられたかのよう。

恥も捨て、成される儘とはこのことかと、だらだら零れる涎が止められなかった。


痛みではないのだ。

得体のしれない何かが、体のあちらこちらから入ってきては突き抜けて、彼女を嬲る。


ただただ畏怖した。

畏れを覚える脳裏の片隅だけが自分のものだと感じた。


やがてその質量に感覚が麻痺すると同時に思ったそうだ。

自分の魂は、世界を渡り、今此処にあるのでは、と。


「かっと身体の、皮膚の下が熱を帯びたと思ったら倒れたらしくて、その後は曖昧なのですが。

 聞いた話だと傍からはずっと光っていたようでして…それで、聖女だと騒がれ担がれてきました。

 正直、授かった御力より記憶の重量に困惑しちゃいましたけど」

「…今は、どこか、苦しくなったりはしない?」

「はい、身体は全く健康なんです。

 それに王都へ移動する間に、前世について考える時間がありましたし!斜め上に!」


生まれ育った地から唐突に引き離されるだけでも、如何に心細かっただろうか。

加え、誰に話すでもなく、一人異界をぼんやりと思い浮かべる少女の姿を想像する。

綯い交ぜられた秘密を抱えた心の裡は量り知れない。


いつの間にかエミリアは気丈に身体を起こし、ギーゼラを安心させるように力こぶを作ってみせた。

それがあまりにも健気で、青い瞳にはゆらゆらと膜が煌めいていた。

決壊する寸前、そっとハンカチで目元をエミリアに押さえられる。


「…お兄様は馬鹿だわ、何故貴女の苦しみに寄り添ってあげなかったのか」


目の前の少女の心が、怒涛に押し寄せる日々に浚われ押し流されてしまうのは、きっと容易い。

だからこそ周囲が安息を、愛を持って、差し出すべきだったのだ。


にも関わらずどいつもこいつも、ギーゼラも、彼女をまるで見ていなかった事実に愕然として、堪らずずっと教育進捗をやり取りしていた兄を詰る。


「いやいや、顔面国宝に出来るお話じゃないですしそれどころじゃなかったですし」

「朴念仁よ!どれほどの時間を貴女と過ごしたと思っているの!

 っずっと…傍に居たのに、貴女は、我慢し過ぎよ…」

「能天気だっただけなんですけどねぇ」


へらへらと笑いながら、先程とは逆転してエミリアの指先がそっと泣きじゃくるギーゼラを撫でる。

ハンカチを握りしめたまま堪らずその華奢な身体を抱き締めた。


「頑張ったのね、かっこよすぎるわエミリア」

「んへへ、ありがとうございます…ギーゼラ、様」

「呼び捨てでも良いのよ」

「ちょ、ちょっとそれは幸福のキャパが溢れるっていうか」

「きゃぱ」

「その聞き返す時の可愛さ卑怯じゃないですか?素なんですか?もっと聞いて?」

「説明してよ」

「いやん、腕ぺしぺしご褒美過ぎる…」


いつの間にか顔を寄せ合い、クスクスと声を漏らして笑い合っていた。

やはりベッドの上での内緒話は何にも代えがたい。



「私、きっと今日のこの時の為に、前世の話をするの堪えていたのかもしれません」


結局その後も話が尽きる様子が見られず二人並んで一つのベッドに入った。

鼻筋が薄ぼんやりと分かる程の光量の中、そっとエミリアが呟いた言葉に、またギーゼラは泣きそうになる。


「だからご褒美なんです。

 いちばん最初に、お話するのがあなたで良かった、ギーゼラ」


頷きはこの宵闇ではきっと見えないだろう。

だから、隣の掌をそっと握った。


翌朝目覚めたら、お互いの瞼が腫れていて、朝一番で笑ってしまった。



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