12:夜の海の恐ろしさを魚は知らない
態々公爵家まで足を運び、話をしたかったのは確かにエミリアだ。
しかし彼女よりも兄ばかりが口を開いた時間が長く、外はあっという間に呆れたように赤く陽を傾けた。
少しばかり温度が下がった玄関で、ギーゼラはすまなそうに眉を下げる。
「結局、お兄様ばかりお話してしまい申し訳ないわ」
「気にしないでください!急に訪ねたのは私の方ですし!」
数日前に朝の馬車で見せた張り詰めた空気は彼女から消えているものの、やはりしっかりと言葉で本人から意思を聞いておくべきだとギーゼラの考えは変わらない。
だからこそ、これもまた急だが、泊っていくかと気を配るも少女は首を横に振り退席を申し出た。
「エカード様のお話を聞いて、少し、考えを纏めなおそうとも思っているのです」
「そう…貴女にとって実りある時間になったのなら嬉しいわ」
「はい!もうそれはそれは!楽しかったです!」
零れんばかりに幸せそうな笑顔を細い身体全体で表した後、彼女は深く礼をとった。
寮まで送る馬車が見えなくなるまで、玄関に佇むギーゼラへと近づく足音にゆっくりと振り返る。
「貴方も帰るの?」
「ああ、遅番なんでね」
「貴重な休憩時間だったのね。
何だか今日は重ねて申し訳ないわ、ブラッツ」
「気にするな、寧ろアレから解放される建前があって幸いだった」
先日のように翌日まで兄に拘束されないで済んだ、と笑っているようだが、結局のところ中々に長い時間滞在せざるを得なかった事は敢えて言うまい。
加え、彼の腕に掛けられた近衛の衣装。
公爵家にもそれなりに装飾の飾りはあるが、どうやら直しが出来ない特別なものだったのだろう。
妹だけではなく兄にも随分迷惑を被ったのに穏やかで在れるとは、本当に優しい人だ。
ふっと頬を自然と緩めて見上げた先、紺色の瞳を瞬かせて男は小首を傾げる。
「お兄様にちゃんと謝罪は受けたの?」
「ああ…それは、いいんだ大丈夫、俺が悪い話だったから」
急に歯切れ悪く、目線をどこかに泳がせるブラッツに、今度はギーゼラが小首を傾げた。
「あらやだ、それで良くお兄様がお許しになったのね。
どんな魔法を使ったのかしら?私も使える?」
「何だ?使う予定があるのか?」
彷徨っていた視線が戻って来たと思ったら訝し気な声まで付いて来てしまった。
この男、今日は厄日だと腹を決めているのか、いつも以上に鋭い。
どう答えれば誤魔化されてくれるだろうかとじっと紺色を見つめ返せば、暫くして、言葉なく、彼の口からは溜息が落ちる。
「…頼むから、今日はこれ以上俺の心を乱さないでくれ」
「長生きしてねブラッツ」
「そんな物悲しい顔で言われても」
「お勤めいってらっしゃい!その身の平穏を願っているわ!」
両手を広げ、満面の笑みを浮かべてみせれば、やっと相手も顔を緩ませる。
ゆっくりと持ち上げられた指先が柔らかく、ギーゼラの細い髪の表層を撫でた。
「ありがとう、行ってくるよ」
「馬車は呼ばなくて?」
「いい、歩いて向かうくらいの時間はあるから」
風も丁度良い、と小さく呟いて彼は踵を返し去って行った。
信愛の抱擁を断られた少女はそっと両手を下ろし、誰も見えなくなった道を眺めた。
背後に控えたイーダが、身体を冷やすのを気遣って羽織を寄越す。
(聞かれると、思ったのに)
事の起こりをブラッツは触れなかった。
何故、アーデルヘルムとの対話を避けたのか、彼は気付いているのだろうか。
さわりと、頭を冷やすような風が一陣吹いた。
(聞かれたら聞かれたで、困るのはきっと私なのにね)
きっとアーデルヘルムの傍に立つ彼は、殿下の動向の仔細を把握している。
そうして、擦り合わせたくない事実が形を帯びてしまうのを、ギーゼラは躊躇ったのだ。
兄に話してもそれは同じようになろう。
何せ、妹の憂いを晴らすために彼は助力を惜しまないから。
だから今日の庭園での茶会は僥倖だった。
学院から遠く、ギーゼラにもアーデルヘルムにも丁度良い距離感の大人と話せた。
(まだ、始まって数日であろうと、こんなに早いのね)
真っすぐに前を見ていられるだけ強くなれた。
それでいいじゃないかと、自分を褒めながら口元に笑みを浮かべ、佇むイーダへと振り返る。
暖かい我が家に入ろう。
きっとあまり、心を冷やす風にあたり過ぎるのも、良くない事なのだ。
そんな週末を過ごしてからいくらかの日を重ねた、とある昼前。
魔法技師学から主教室に戻り、さて昼食に向かおうとしたギーゼラの元にローグが駆け寄る。
何事かと耳を貸せば、彼が慌てて囁き届けた情報に眼を見張った。
『魔法理論の講義終わり、組へ戻ろうと殿下と歩いていたヘッセン男爵令嬢の頭上に鉢が落下。
傍に居たブラッツ卿が身を挺し庇うも彼女は破片で負傷し、今殿下と救護室に退避中です』
さっと目の色が変わったギーゼラにローグは未だ整わない息を止めた。
「程度は」
「軽傷です」
「彼女たちの昼食手配を救護室には」
「私がこれから向かいます」
「目撃者の確保、及び情報統制はランハルトね」
「はい」
「分かりました、私もそのように。
どうかヘッセン男爵令嬢を気遣ってさしあげて」
「ありがとう存じます」
息つく間もなく迅速にギーゼラが状況と体制を確認すると、ローグはさっと頭を下げ踵を返した。
早足で去る姿を視界の端に留めながら、己の指先が微かに震えているのに、ギーゼラはやっと気づく。
(エミリア…!)
叶うならば今すぐ自分も救護室へ向かい、不安であろう彼女を抱き締めたい。
でも、それは今、自分がすべきことではないと理性が情動を律する。
ぐっと手を一度握っては解き、顔を上げ寄子の子女を呼ぶ。
彼らに密命を下し、放った後、やっと彼女は自分が息をしていると感じられた。
唇を軽く結び、表情を無に戻しイーダを伴って食堂へ向かった。
廊下の代わり映えのしない賑やかさが今はやたらわざとらしく、肌触りが悪い。
ヴィヴィカやレイチェル達との昼食を恙無く終え、午後の主教室での儀礼講義。
エミリアは平素通りの様子で受講していた。
彼女は光の魔力持ち、聖女だ。
自らの怪我を癒すなど朝飯前だろう。
ただ、それは目に見える傷だ。
頭上から鈍器が落ちてきた恐怖は癒せない。
偶然なのか故意なのか、分かったところで何にもならないと心中でギーゼラは吐き捨てる。
毅然と、他の子女に交じり礼を尽くし、淑女たらんとする彼女を見ているのが辛かった。
同じ教室内、ともすれば腕が触れ合う程の距離ですれ違うも、声を掛けることは叶わない。
もどかしさで頭がどうにかなりそうだと、荒むギーゼラの思考を煩うようにローグが見つめていた。
講義の中に紛れ寄子が得て届けた情報を脳内で精査する。
未だ、アーデルヘルム殿下の側近、ランハルトからの情報はこちらに降りてこない。
(あの男の憮然なツラを、これほどまで殴ってやりたいと思ったのは初めてよ!)
憤慨の気配すら面から消し去って見せるギーゼラの元に、婚約者候補の二人から放課後の茶会の誘いが来たのは儀礼講義が終わった後の休憩時間だった。
「まぁギーゼラ、いつ貴女の身体は悪鬼に乗っ取られたのかしら」
出会い頭、開口一番にヴィヴィカが顔を顰めて言い放つ。
既に周囲の人払いはされた東屋だとしても、見られたものでないと散々な良い様だ。
それにレイチェルも便乗し、憐憫の面持ちで緩く頭を傾げた。
「困ったわ…祓いの儀は誰に頼めば良くて?」
「エカード様も悪鬼信仰に鞍替えしそうですものねぇ」
「あら、ランハルトの顔を貸してくれれば多少正気に戻るわよ」
「レイチェルに言うのが何とも悪辣ね」
苦笑するレイチェルを庇うようにヴィヴィカが抱き締める。
彼女が頼めば、本当に顔を出しそうな男だから冗談に出来ないのだ。
悪辣さを窘められながらも、席に腰を下ろす様は優雅で美しい。
どうやら美少女二人の宥めが多少なりとも悪鬼を遠退けたと見える。
茶の香しい湯気が揺蕩う中、口火を切ったのはレイチェルだった。
「ヘッセン男爵令嬢はしっかりと薬学の講義を聴講されていましたわよ。
彼女、思っていたよりもしっかりなさっているのね」
「エカード様の教えがよろしいのね、流石だわ」
「至上が傍に在るのだから、素質も伸びるというものよ」
暗に、殿下と接する機会があるのだから身の振り方も学ぶ、とギーゼラが返せば二人は顔を見合わせる。
やや身を乗り出すのはヴィヴィカで、反してレイチェルは背を凭れた。
「殿下は御無事だそうよ」
「ブラッツ卿がそれを許すようなら私が騎士を務めますわ」
「貴女、近衛服も似合いそう」
「見たいわぁ、お貸し願えないかしら?
今度王妃様にご相談してみましょうか、ヴィヴィカ」
「そうねぇそうねぇ!麗人を愛でるのも淑女の嗜みだもの!」
盛り上がる二人を横目に、ギーゼラは澄ました顔で茶器に口を付ける。
「護衛される側の心得を教えておくべきだったのよ、お兄様は」
「それは、ねぇ」
「光の魔力持ちの方は身体強化が苦手と聞くわ」
身体強化は、自らの身体を覆うように体外へ魔力を薄く放出し纏い、鎧のように使う魔法だ。
護衛される側は咄嗟にその魔法を自らも行使し、身を護るのが当たり前であった。
その当たり前をエミリアは教わって無かったのだろう。
アーデルヘルム殿下は勿論のこと、庇ったブラッツも無傷であるのに、怪我をしたのは彼女だけだった結果を見ても分かる。
もともと体内、自らを癒す力を持つ光の魔力。
それを外へ向けるように訓練するのだって十分な魔力量と才能を要するのだ。
加え、彼等が放出するのは、基本的に対象が目の前にあってだ。
初日の魔術理論でエミリアが見せたあの光の珠は、見た目以上に努力が必要な技である。
(多少の傷を負っても自力で立ち直せるからこそ、お兄様は教えなかったのでしょう)
時間も限られているなら、猶更優先度は低くなろう。
基本は、彼女を害する気など更々ない大聖堂での暮らし。
外に出るとしても男爵家への道中は、エカードを始め護衛が十分につく。
そして今度は立ち入りが制限される学院と寮の往復生活だ。
兄の判断が間違っている訳じゃないし、何ならギーゼラだってそう考えた内の一人だ。
エミリアに求められているのは、彼女にしか出来ない強い癒しの力なのだから。
口に出した言葉が筋違いなのは、嫌と言うほど本人が分かっていた。
だから一層、心がささくれ立つのだ。
「彼女を心配するギーゼラの優しさだけれど、上手く届かないかもしれませんわ」
「…どういう事かしらレイチェル」
静かに彼女がギーゼラを見据え、言葉を続ける。
「メールス公爵令息から伺いましたの。
貴女、黒幕にされてましてよ」
思わず茶器の音が鳴る。
レイチェルが放った言葉に、開いた口が塞がらない。
「何を…そんな馬鹿な話がありますか!」
「貴女に殴られたくなくて、彼は私に教えたのよ」
「あんの…っ姑息!」
「まずはほら、甘いものでも口になさい?
ボルトロップ辺境伯令息から頂いた北の蜜のお菓子よ、好きでしょうギーゼラ」
「これこそ謀略だわ!美味しい!」
「偶然って怖いわよねぇ、野生の勘かしら」
「虫の知らせでは?」
憤りつつお菓子を上品に口にするギーゼラを見やりながら、二人は好き勝手に言う。
本当、何とも丁度良い時に物事が嚙み合ったのか。
一息吐いて落ち着いたギーゼラがレイチェルに話の先を促す。
「暫く前にエカード様の庇護をヘッセン男爵令嬢が受けている事は話題になったわね。
それで耳目を集めた上、殿下が履修済みの講義にも関わらず、態々彼女の傍で補佐をしていらっしゃるのを面白おかしく報告した家があったようよ」
面白おかしく、自分たちの良いように話を受け取ったどこかの家が調子に乗っている、と。
「にしたって、お兄様の御名と殿下の御前よ?」
「だからこそ、よ。
ねぇ随分昔に流行った娯楽小説をご存じ?」
「私達のおばあ様の頃に流行ったそうよ」
「廃れた流行りも、一周すれば目新しい流行ね」
「うふふ、笑っちゃう」
今の権威が傍にある彼女を態々害そうとしたのは、どうやら昔流行った娯楽小説を模したものらしい。
若い世代には馴染みがなくも、祖父母の代、教会主義の支持者層には思い当たる節がある話だ、と。
「そこでね、婚約者が新進気鋭な少女に嫉妬して策略を巡らすの」
「呆れて喋る力も起きないわ、お菓子を入れる為にしか口を開きたくない」
「貴女ちょっと食べ過ぎよ」
ヴィヴィカが男からの貢物を更にギーゼラへ横流ししたのだ。
遠慮するつもりは毛頭ない。
「でも小説は作者の掌の上から出ないけれど、現実は違うわ。
公爵家に楯突く程の気概があればとっくに廃れているものその家」
「ふふ、やだ何その言い方、好き」
下剋上をしたとしても高が知れている程度の家だと、レイチェルが皮肉る。
それがどうも可笑しくて、ギーゼラはやっと笑った。
「貴女が彼女に嫉妬しているって噂程度で留め、多少の波風が起きれば上々でしたのでしょうに。
尾ひれに背びれ胸鰭まで伴って随分大きな魚影になったようね」
「その餌は、ここでお菓子を食べているのだけど」
餌、と称されたギーゼラは頭を抱えた。
とどのつまり、その些細な噂を受けた権力に阿る外野も便乗したのだ。
もしくは、国が決めた婚約者候補の心を慮らんと勝手に集まった者たちが、噂を実にしたい輩に唆され愚策を犯したというのが此度の件なのだろう。
恐らく寄子は違うのだろうが、それよりも外周の好意が関わってくるとなると、統制が難しい。
どうしたものかと口を尖らせ思わず遠くを見る。
「もう一つ、水面に落とされてるのよ」
「そうね…卑しいやり方をするものだわ」
大きな影を追って我らも利を得んとする輩が、今度はエミリアを餌にしているようだ。
『婚約者候補筆頭が嫉妬する程、王太子殿下はかの娘を気に入っているそうだ』
『しかし彼女は聖女とはいえ元は平民だと聞く』
『それでも公爵家嫡男の庇護もあるんだ。いくら妹でも、いよいよ足場を気にし始めたのでは?』
『新たな王太子妃候補か?あの少女が?王は教会主義を取り込む気か?』
『冬の社交で披露目をしなかったのはきっとその算段があってだろう、どう思う?』
『王族に聖女といえ平民の血を入れるなど許せるものか』
『ここで彼女が王太子妃となれば教会は安泰だ』
ざわり、ざわざわ、魚影が姿形を歪めながら水面を揺らす。
目の前の彼女らはギーゼラを餌だと称したが、心からそう思っていない事は承知している。
この少女が餌?とんでもない!
夜の海を思わす瞳が、ゆったりと二人を映した。
「成程、きっとランハルトに言われたら殴り合いで話にもならなかったわ」
「そう思うのなら平手打ち一発に留めてあげてね」
「善処はしましょう」
もう、と可愛く口を尖らすレイチェルをヴィヴィカが笑う。
その笑顔のまま、今度はギーゼラを見て、ねぇと少し緊張した声で小さく呼び掛けた。
「殿下のお考えを伺った方が宜しくてよ」
提案された少女はただ静かに瞬くだけだ。
その脳内で編まれる今後の動きは、きっと彼の姿がない。
ヴィヴィカはそう思ったからこそ口にした。
「まぁ、少しは待ちましょうか」
「そうなさい」
「ええ、殿下も気を揉んでいらっしゃるでしょう」
腕を組み、どうしたものかと目を瞑ったまま眉間を寄せる彼の姿が思い浮かぶのは、三人共だった。
だから誰からでもなくそっと笑い声が零れる。
しかし、アーデルヘルムからの声掛けは暫くしても無かった。




