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嘘つき男と引きこもり少女とスプレー缶

作者: 白翠霧

「なぁ出てこいよ、そんな暗くて狭いところにいつまでもいるわけにはいかないだろう」


嘘つき男はため息をつきながら言った。

彼は今、自分の部屋のドアの前に立っている。ちなみにドアに鍵はかかっていない。


先ほどから何度も部屋の中へ向かって言葉を投げかけているが、返事が返ってくることはない。彼は自らの声が発せられた瞬間やってくる静寂を聞き流しながら、ドアと床の隙間から中を覗きこんだ。


頭を床につけ、わずかな隙間に視線をねじ込む。しかし彼がそこで認識できたのは、床とドアに挟まれて押しつぶされた狭苦しい暗黒空間だけだった。


部屋の中には何も見えない、真っ暗だ。

だがしかし、引きこもり少女は確かにその部屋の中にいた。


嘘つき男は立ち上がり、廊下の壁に背をもたれかけさせる。

しばらくして、部屋の中から声が聞こえた。それはとてもとても小さな声で、全神経を耳に集中させなければとても聞き取れるような声ではなかった。蚊が人間の血を吸って飲む時だってもうちょっと大きな音がするはずだ。

男は耳をドアにつけ、眼を瞑る。全身の神経を耳に集める。


「もしこの部屋を出たら・・・」


彼女が何を言っているのかをかろうじて認識し、嘘つき男は大きく息を吐き出す。それはようやく彼女が自分の声に対して言葉を返してくれた事への安堵のため息だった。男はもう一度ドアに自分の耳を押し付ける。


「もしこの部屋から出たら・・・あなたは私を殺すのではないですか?」


今度こそ確かに彼女の声が男の耳を通り抜け、そして脳まで到達する。

彼女の声は時々裏返っていた。それが恐怖のためなのか、身体が破裂しかねないほどの大きな声を張り上げているためなのかは当然彼には分からない。


嘘つき男は、静かに返事をする。


「そう、僕は君を殺す」


部屋の中でごそごそと音がした。


「私はまだ死にたくないのです。だからこの部屋からでるつもりはありません。今部屋の中から出ればきっと私はあなたに殺されるはずです、私の仲間たちのように」


あぁ、と嘘つき男は思わず声を洩らす。引きこもり少女の仲間は殺したこと、それこそ思い当たる節は死ぬほどたくさんあった。


「君の仲間を殺した事については反省している」


男の声を聞いた引きこもり少女は思った。

この男が反省なんかするはずはない。なぜならこの男は嘘つき男だ。


「信用できないです。だってあなたは嘘つき男さんじゃないですか」


少女はドアの隙間から見えるわずかな光にむかって思い切り叫ぶ。

今まで一度も出したことのないような大きな声だった。


「確かに僕は嘘つき男だ。僕の言うことの9割は嘘だよ。でも1割は本当の事を話す」


少女は憤慨した。小さな身体を震わせて怒った。


「馬鹿にしてるんですか?それだとあなたが言う言葉はほとんど嘘ってことになります。やっぱり信用できないです」


声が何度も裏返ったがそんなこと気にならなかった。

死にたくない、その思いだけが頭の中で膨らみ続け、そしてとうとう頭の容量をオーバーしてしまった。そして気がついた時にはそれが涙としてあふれ出てきた。


「だから僕はその1割の本当を全部君にあげるんだ。僕は君に対して絶対に嘘をつかない」


その言葉を聞いて、少女はしゃくりあげながら聞いた。


「本当ですか?」


「本当だよ」


「でもあなたは私のことを憎んでいるはずです」


「そう、僕は君の事を憎んでいる」


「では、なぜ私には本当の事を言ってくれるのですか」


「反省しているからだよ」


彼の言っていることは本当かもしれない。嘘かもしれない。少女は戸惑っていた。これまで恐怖の対象でしかなかった男がこうして自分に向かって静かに言葉を投げかけている。その事だけで少女の心は大きく揺り動いていた。しかしそれでも男に対するこれまでの感情をぬぐいさることはできなかった。


「でも、やっぱり私は部屋から出ていく事なんてできません。一生あなたの部屋の中で生きていく覚悟もできています」


少女は今度はきっぱりとした声で言った。


その声を聞き、なんだか可愛いなと思ってしまった事は嘘つき男にとっては一生の不覚になってしまったと言っても過言ではない。

先ほどまでは確かに少女に対して向けられていた殺意の矛先も、今ではぽっきり折られてしまっている。

しかしいずれにせよ、この少女にはこの部屋から出てきてもらわなければいけない。男は部屋の中の少女に向かって言った。


「大量の抹茶と明太子を部屋の中に流し込むよ」


ややあって少女が部屋の中から言った。


「・・・なんなんですかそれは?」


嘘つき男は答えた。


「抹茶と明太子を合わせた臭いを想像してみろよ。かなり臭いはずだと僕はにらんでいる。君が部屋の中にいられないくらいに」


その言葉を聞いた部屋の中の少女は抹茶と明太子だらけになった部屋を想像して顔をほんのり赤らめながらくすりと笑った。涙はもう止まっていた。

部屋を出ていいかもしれないという気持ちが徐々に湧き上がってきた。


「嘘つき男さん」


「何?」


「あなたは私には本当のことしか言わないんですよね?」


「そうだよ」


「ではあなたが最初に言った、あなたが私を殺すという言葉も本当なのですか」


「私はなんだか部屋を出てもいいような気持ちになってきました。でもまだ死にたくないのです。だから私にはどうしていいのか分からないのです」


引きこもり少女は言い終えた後、息を大きく吸って、それからはいた。これは賭けでもあり、また駆け引きでもあった。この言葉に対して嘘つき男がどのような返答をするのか、それによって自分の行動は決まっている。


しばらくして、部屋の外の嘘つき男が言った。

「・・・実を言うと、僕は嘘改変機というものを持っているんだ。嘘ばかりついていると社会の中だと色々不便な事が多いからね。これをいつでも持ち歩いているんだ」


「嘘改変機?」


予想だにしなかった男の言葉に少女はぽかんと口をあけた。


「そう、僕は嘘改変機を持っている。これを持っていると1日に3回だけ嘘を本当に、本当を嘘に変えることができるんだ。つまり自分の言ったことを反対にすることができる」


そんなものが存在するのかと少女はいささか疑問に思ったが、それでも今の彼女には彼の言葉を信用する以外にできることはなかった。自分の心臓がさきほどから大きく胸を打っているのを感じる。


「そんなものが本当にあるとして、あなたが言ったどの言葉を3つ改変するのですか?」


実を言うとこの時すでに少女の心はほとんど決まっていた。彼の返事もほぼ予想できていた。それでもあえてこの質問を彼に投げかけたのは、彼女のほんの小さな乙女心だ。



「それはもう決まっているさ」


そんな彼女の乙女心を知ってか知らずか男は言った。



「そう、僕は君を殺す。」

「そう、僕は君を憎んでいる」

「そう、僕は嘘改変機を持っている。」



「この3つだ。僕は君を殺さない。憎まない。そして嘘改変機なんて持っていない、だから僕には一生この言葉を変えることはできない」


「そう=うそ、ってことですか?」


ややあって少女が言った。


「そういうことになるね。『そう』を反対にすると『うそ』になる」


もはや少女の心の中にこの男への恐怖はいっさいなかった。部屋を出て行く事に不安も感じない。決心もすでにについていた。


「ありがとうございます、嘘つき男さん。これで私も部屋の中から出ることが出来ます。でも実を言うと私には二つ、気がかりなことがあるんです」


「なんだい?」


部屋の外の嘘つき男は答えた。


「一つ目は、あなたの今後についてです。嘘改変機を失ってしまって、これから大丈夫なのですか?」


少女は真っ暗な部屋の中で荷造りをしながら言った。


「それくらいなんでもないさ。君が一生この部屋に住みつく事を考えたらね」


なるほどそれもそうかっ、と少女は思った。


「あともう一つ気がかりなのはですね。さきほどあなたはこの部屋の中に大量の抹茶と明太子を流し込むとおっしゃっていましたが、それは改変しなくてよろしかったのですか?」


「・・・あ」


部屋の外から間の抜けた声が聞こえた。さすがの嘘つき男もこればかりは少しまずいことになったと感じたらしい。


「部屋の中を抹茶と明太子だらけにするの、がんばってくださいね」


少女は微笑み、そして何カ月かぶりに真っ暗な部屋を出た。

久しぶりの外はやっぱり眩しくて、最初は目がちかちかしていたけど、すぐに慣れることができた。部屋をでる時、彼女は少しだけ顔を上げて嘘つき男に向かって小さな声で「さようなら、ありがとう」と言った。

それはそれは小さな声で、ノミが石につまずいて転ぶ時の音よりもはるかに小さな声だった。


少女の言葉を聞き、これから自分の起こすであろう行動に対してひどく憂鬱な気分になっていた嘘つき男がふと足元をみると、かさかさと動く黒いものが見えた。彼はそいつの姿を見ると静かに笑みをこぼした。

もちろんそいつを決して殺そうとはせずに、その姿が見えなくなるまできちんと見送ったのも彼にとってはしごく当然のことである。



彼はしばらくの間その場に立ち尽くしていたが、少ししてから右手に握りしめていたスプレー缶を床に置いた。そしてひとつ大きなため息をつき、大量の抹茶と明太子を取りに行くため台所へと向かった。




終わり



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