冒険記01:コボルトの恩返し
魔法の森には、まだ誰も見たことのない宝が眠っている──。
輝く宝石。
忘れ去られた魔道具。
伝承にしか残っていない、奇妙な遺物。
一攫千金を夢見る冒険者。
ただの噂に踊らされた愚か者か、あるいは運命に選ばれし者か。
だが、忘れてはならない。
この森には、光とともに闇も潜んでいる。
牙をむく魔物。
姿を見せぬ罠。
そして、運命を狂わせる“偶然”。
それでもなお、人は森へと足を踏み入れる。
命を賭けて、掴もうとする――ひとかけらの“幸運”を。
まだ見習いに毛が生えた程度の若い冒険者にとって、森に足を踏み入れるという行為は、どこか儀式めいた意味合いがあった。
大きな町の冒険者ギルドで依頼を受け、最初に紹介されたのがこの“魔法の森”だったのは、きっと偶然ではないのだろう。初心者でも対応できるよう、比較的浅いエリアに限った探索依頼、それが、森を知るための初歩とされている。
それでも、魔法の森には変わりはない。
木々は高く、枝葉は空を覆い、昼なお薄暗い。足元に広がるのは苔と落ち葉、そしてときおりぬかるんだ土。遠くからは鳥の鳴き声や獣の遠吠えが聞こえ、時折、木の幹の奥で何かが軋むような音がする。それが風の仕業なのか、それとも別の何かなのかは、わからない。
彼は、慎重だった。
腰には短剣と投げナイフ、背中には小ぶりなバックパックと折りたたみ式のピッケル。森の奥には行かない、絶対に。入り口付近で植物のサンプルを拾い、指定された“光る苔”を探しながら、足元と周囲に常に気を配っていた。
(…静かすぎる)
ふと、そんな思いがよぎる。
あれだけ耳に入っていた鳥の声が、いつの間にか消えている。風も止んでいる。枝が揺れる気配もない。背筋に冷たいものが走った。
「マズいかも……」
そんな声が、無意識に口から漏れた。
そのときだった。
視界の端、茂みがかすかに動いた。ごく自然に、けれど明らかに「何か」がそこにいた気配。彼は慌てて腰を低くし、ナイフの柄に指をかける。鼓動が速まる。息を殺す。動いてはならない。次に見えるのが牙か、爪か、それとも毒をもった目か。想像だけが膨らむ。
だが、現れたのはそれではなかった。
毛並みのよく整った、小柄な獣人。茶色の毛に覆われた体、三角形の耳、くりくりとした黒い目。コボルトだった。
その姿を見て、一瞬、肩の力が抜けかけたが、すぐに警戒態勢に戻る。
コボルトは、獰猛な種ではない。それは冒険者の間でもよく知られている。けれど、あくまで“魔物”であることに変わりはない。近づけば牙をむくかもしれない。噛みつかれたら、洒落にならない。
後退ろうとした、そのとき。
コボルトは、こちらに向かって静かに手を振った。
違う。手招きだ。
攻撃の意志はまったく感じられなかった。ただ、手のひら、いや、前足を上げて、ひょいひょいとこちらに向かって動かしている。
(……え?)
予想外の行動に、思わず固まってしまった。
しかも、その仕草にはどこか誇らしげな雰囲気すら漂っていた。
手招きしてくるコボルトの姿を見ながら、彼の胸の奥に、かすかなざわめきが生まれた。
このコボルト、どこかで…会ったことがある気がする。
意識の奥をたぐるように、慎重に思い出す。
それは数日前のことだった。
森の外れ、ひと気のない小道のそばで、ひとつのうずくまる影を見つけた。警戒しながら近づいてみると、それは泥だらけになった小さなコボルトだった。片足を引きずり、わずかに血がにじんでいる。どうやら、罠か鋭利な石にでも引っかかったのだろう。
彼は少しだけ迷った。
魔物に手を貸すべきか。それとも放っておくか。
だが、目を合わせたとき、その瞳の奥に浮かんだ痛みと困惑の色が、彼の中の判断を揺るがせた。気づけば彼は、薬草を取り出し、持っていた包帯で応急処置をしていた。コボルトは、じっと動かずにされるがままになっていた。
だが、処置が終わった瞬間、ハッとしたように身体を起こし、くるりと身を翻して森の奥へ駆けていった。その背中に、かすかに振られた尻尾が、今も印象に残っている。
今、目の前にいるのは、あのときの子どもと、もう一匹。おそらく、親なのだろう。二匹のコボルトは、彼の姿をじっと見つめている。
敵意はない。むしろ、どこか期待のようなものが感じられた。そして、子どもの方が、ちょこちょこと足を動かしながら、近くの岩の前で立ち止まった。くるりとこちらを振り返り、ぴしっと指を差す。
まるで、「ここ掘れワンワン」だ。
思わず、口の端が緩んだ。緊張で固くなっていた身体から、少しずつ力が抜けていくのを感じる。
「……なるほど、そこを掘れってことか」
声に出してみても、コボルトたちは否定もせず、ただ尻尾をふわふわと揺らしている。
彼は、バッグから折りたたみ式のピッケルを取り出した。カチリ、と音を立てて柄を伸ばすと、岩の縁を軽くたたき、足元を確かめてから掘り始めた。
ゴリッ、ゴリッ─
石と土を掘り起こすたび、薄い砂の層が崩れ、その奥から、淡く光る何かが顔を覗かせる。
「……これは……!」
掘り出されたのは、小さな宝石の欠片だった。紅玉のように赤く、だが透明度はやや曇り、いびつな形をしている。それでも、陽の光を受けてきらりと輝くその姿に、思わず息を呑んだ。
さらに掘り進めると、似たような原石が数個、岩の下に埋まっていた。誰かがここに隠したとは思えない。自然の堆積によって、偶然ここに集まっていたのだろう。
彼は宝石を慎重に布に包み、顔を上げた。が、その姿はもうなかった。コボルトたちは、どこへともなく姿を消していた。
まるで初めからそこにはいなかったかのように、森の気配だけが、また静かに戻っていた。風が、梢を通って、さらさらと音を立てる。
森を出た帰り道、彼は何度か振り返った。そこにはもう、コボルトの姿も、光る宝石の影もない。ただ、木漏れ日の差し込む静かな森の小道が続いているだけだった。
「……恩返し、か」
誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやいたその言葉は、風に紛れて森へと吸い込まれていった。
街に戻ると、彼はその足で広場の外れにある宝石商の店を訪れた。そこは旅人や冒険者が集めた鉱石や遺物の鑑定を行う小さな商店で、職人肌の老商人がひとりで店を切り盛りしている。
「これは……?」
店主は宝石の原石を布の上に並べ、一つひとつ手に取りながら、小さなルーペを目に当ててじっと観察した。指先で軽く撫で、光に透かし、ひとつ深く息をつく。
「うーん、悪くはないが……小粒だな。しかも角がいくつか欠けている。加工すれば多少は価値が出るかもしれんが、正直、買い取りとなると難しい」そう言って、商人は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「でも、これは天然石だよ。間違いなく、森の奥で長い時間をかけて育ったものだ。悪い石じゃない。お前さん、運がよかったな」
「運……ですか」
そう返しながら、彼は自然と微笑んでいた。
確かに値段はつかなかった。それでも、心は不思議と満たされていた。あの時、恐れを感じながらも近づいてくれた小さなコボルトの手招き。疑いと好奇心が入り混じる中で踏み出した一歩。そして、あの宝石たち。
それは、何よりも大切な“何か”の証のように思えた。
店を出た後、彼はしばらく街の通りを歩いた。夕暮れの光が石畳を赤く染め、人々のざわめきが風に溶けてゆく。彼はポケットの中で、包んだ宝石をそっと握りしめた。小さな原石たちは、たいした値段にはならなかった。
けれど、あの時に感じた、尾を揺らしながら立ち去るコボルトたちの姿とどこかくすぐったくて、でも確かな“ありがとう”の気配だけは、今も温かく残っていた。ほんの少しだけ、胸の奥が、ぽかぽかとあたたかくなった。
と、そのとき、不意に違和感がよぎる。
(今回の依頼って…)
そう、“光る苔”。森の入口付近で見つけてくるはずの、あの青白い苔だ。
「探してすら、ない…」
思わず天を仰ぐ。コボルトとの出会いに気を取られ、目的をまるごと忘れていた。
報酬は出ないだろう。けれど不思議と悔しさはなかった。
「…ま、また明日行こう」
苦笑しながらつぶやき、彼はポケットの宝石をそっと握り直した。
ボードゲームFOREST&FORTUNEとのタイアップ作品です。
pixivで投稿したショートストーリーをより膨らませ作成しています。
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