交信
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
城の搦手門から、東の方角に雑木林がある。そこは少し小高い丘になっており、その鬱蒼と茂った雑木林は、夕暮れともなると、この土地のもののふと云えども、いささか冷や汗が出るほどに、辺りは、暗く、湿って、不気味な装いであった。
また、その雑木林の内には、この土地に住む者でさえも知らぬような、廃墟となった社がひとつ、鬱蒼たる雑木林の蔓や蔦、羊歯や苔に覆われて、その外郭を所々、木々の間から覗かせていた。
「して、名主。この村の外れに、古代の神明宮の名残があると聞くが……。」
「さて、聞いたことがございませぬが。」
「城より、東の林。この村からは、ちょうど、午の方に当たる。」
「あの林にございますか。」
名主は、少し考えるような素ぶりを見せたが、いざ考えてみた所で、思い当たることはなく、そのまま、役人との問答は終わった。
翌朝、まだ、日が昇らず、靄の切れ間から、通りの向こう側が垣間見えする頃、役人は、本陣を出立した。荷物持ちの小者と向かった先は、午の方角にある雑木林であった。
「本陣で借りた鉈があったな。」
「左様で。」
往還から丘を登り、木々の合間を抜けて、蔓蔦を払いのけながら、林の内にと、二人は入っていった。村内では、もう朝日が昇っている頃なのだろうが、薄暗い林の内は、もはや、森であった。朝日も届かず、湿った地面から、所々、水煙が立っていた。
「おい。あれではないのか。」
「へい。」
木々の合間を縫って、建造物らしき物の一部が色を失って残っていた。鉈を持った小者は、主の指差す方に向かって、進んだ。
「ああ、これだ、これだ。」
近くに寄ると、それは、社の本殿であり、それが回廊とともに蔦に覆われながらも、確かに、その形をとどめていた。
「夢告通りだ。」
本殿と回廊の形、その蔓蔦に覆われた姿も含めて、全てが夢に出て来たのと同じであった。
「ぎゃ!?」
いつの間にか、侍は刀の柄袋を取っていた。そして、抜刀した刀身を、小者の頸に沿わせて、そのまま、引き裂いていた。
「……。」
鉈を持ったまま、小者は、本殿の階段に、逆さまに倒れた。一方の侍は、その場に跪き、一念に、ぶつぶつと何かの呪文を唱えていた。
それから三月近くが経った頃、あの雑木林の丘には、手に六尺棒を持った捕り手たち、三十人程が、役人の指図を受けて、一斉に、林の内に入っていった。
「いたぞ!いたぞ!」
捕り手に押さえられて、一人の男が捕縛された。その風貌は、裸体に、引き裂いた布を紐にして、それに人の骨を幾本も吊し飾っているという、およそ、常人とは思えぬ狂人の風体をしていた。
「矢野十三衛門だな。」
「……。」
役人の質問に、男は何も答えなかった。ただ、その野放図に垂れ下がった頭髪で、うな垂れた顔面を隠し、ぶつぶつと、異邦の言葉ででもあろうかと思うほどに、奇怪な言語を呟いていた。
「膳所殿。向こうに、人の屍体が……。それも、血肉が散らばり、とても、目に見られぬ有様でございます。」
「それは、こやつと、ともに行方を眩ませていた小者であろう。こやつめ。これまで、人の屍肉を喰らい生き長らえて来たと見える。」
「げぇ……。」
眼前の惨状に我慢の底が付いた伴の者が嗚咽を示していた。
「木陰に休んでおれ。」
「申し訳ございませぬ。」
そそくさと場を移動して行く家来の姿に目をやることもなく、詮議の役人は、つと、足先で地面に打った。
「さて。どうしたものか……。」
相変わらず、捕らわれの男は、地面を向いて、ぶつぶつと、誰かと会話していた。
その後、五百年余りの時が経った。
「暇。」
何もない夏休み。田所歩は暇であった。大学四年生の夏。既に、内定も出ている。周りの友達は、皆、海外旅行に行っていた。
「眠い……。」
茹だるような暑さだった。部屋の中で歩は、徐々に意識を失い、夢へと誘われた。
「こんこん。」
目の前を狐が走った。それを追いかけて、森の中へ入った。そして、いつの間にか、狐は消えて、今度は、古びた廃墟があった。
「キタレヨ。ワレハ神ナリ。生贄ヲササゲヨ。サレバ、ヨミガエラン。」
ピンポーン
「夢……?」
インターホンの音は、現実だった。
「こんにちは。」
「はい?」
来客は、若い女性だった。ショートに整えた黒髪が綺麗な、十七、八歳になろうかという少女である。
「タドコロアユムという人は……?」
「私ですけど……?」
「そう、あなた……。」
少女は小首をかしげていた。それから、歩を見た。それは、まるで、彼を吟味するかのようであった。
「ちょっと、いい。」
「え?」
少女は、室内に上がろうとする素振りを見せた。
「何々、ちょっと待って……!?」
その時、歩の体内に恐怖心が生まれた。
「何……?」
しかし、一方の少女は、自らが、何ら咎め立てられるような行為をしているという自覚もなく、ただ淡々と物事を進めている様子だった。
「何の用かな?」
なるべく優しく、相手を刺激しないように歩は問い掛けた。
「だから、お邪魔してるんだけど……?」
自分の物語を進める。少女には、その発想しかないかのように見えた。そして、歩も、また、少女が持つ、その不思議な雰囲気に呑まれ、おずおずと少女を部屋に引き入れた。
「魔神が復活しようとしているわ。」
「……はい。魔神。」
自分の部屋に少女を引き入れて、彼女の話を聞く形になった歩は、どこか同年代の異性を自分の部屋に入れた気恥ずかしさを感じながらも、それでも、なるだけ少女を刺激しないように努めた。
「突然過ぎたかな。ごめんなさい。」
一見、少女は礼儀正しかった。それだけが、歩の安心する点ではあった。
「タドコロアユム。あなたに質問です。」
「はい。」
「この世界に目的はあると思いますか?そして、あなたが存在している意味と、あなたの目的はありますか?」
「もしかして、勧誘か何かですか?」
「質問が難しいのかなあ……。」
少女は落胆の表情を浮かべていた。
「どうすれば、分かってもらえるのかな……。」
「え……?何が。」
「あなたの、いえ、私たちの使命。そう、使命。」
行き止まりの洞窟の中で、日の差し込める入り口を見つけたように、少女は喜んだ。
「魔神の復活を阻止する。それが私たちの使命なの。分かるかな?」
「魔神って、そんな急に言われても……。」
「それでも、何か兆候があったはずよ。」
「兆候……?夢……。」
「夢?もしかして、お告げかな。」
「狐と、廃墟。あと、生贄がどうとか……。」
「当たり!それよ。それ。」
嬉々と喜ぶ少女の姿は、素直に可愛いと歩は思った。
魔神。それは、悪の権化であり、人々に災厄をもたらす存在だと少女は言った。
「それが、この町のどこかにあると?」
「古代に魔神を封印した神社があるはず。」
「それが、どうして私に関係が?」
「今から五百年前、同じように魔神が復活しようとする兆しを見せた時があったの。魔神は人間の夢の中に現れては唆し、自らを復活させようとした。その時は、偶然にも、復活は阻止されたけどね。」
「それに、私が選ばれた。」
「そういうこと。」
夏の暑い日であった。蝉の声が聞こえていた。その日も、特別、何もなくだらだらと過ごして終わる一日だと歩は思っていた。それが、ひょんなことから、突然、未知の世界に引き入れられ、その世界の住人になったかのような不思議な感覚を、今、少女の目の前にいる歩は感じていた。
「ところで、君は何者?」
「あ、私は日の神子。レイナ。」
「ヒノミコレイナ。」
「レイナって、呼んで。」
歩は勘違いをしていた。レイナが言った日の神子とは、彼女の姓ではなく、職種ではあったが、それを歩が知る由もなかったし、歩がそう思ったことをレイナが知ることもなかった。
レイナの話では、魔神は、歩の他にも精神に感応を試みた人間がいるはずであり、二人の使命は、そのもう一人の魔神復活の試みを阻止することだと言った。
「その人間の名前は分かっているわ。ヒビノノゾミという名前よ。そして、その人間は既に、魔神復活に向けて進んでいるということも。」
「その人はどこにいるの?」
「たぶん、北。」
「北?」
「気配が遠いけど、たぶん。」
魔神の復活には、魔神を祀る神社を探し、生贄を捧げる必要があるという。それが、この町にあるとしたら、そのヒビノノゾミも、また、北の方からこの町に向かって来ているということなのだろう。
「それなら、先に神社を見つけないと。」
「そうよ。」
ようやく、気が付いたように、レイナは立ち上がった。
それから、二人は町の図書館に向かった。
「どうやって探そうか。」
「そうね……。」
大量の書物を前に、歩は体を縮まらせていた。そもそも、二人が図書館に来たのは、歩の提案であった。
「五百年前って、言った?」
「何が……?」
「いや、五百年前にも、その、なんだ、あれが復活の兆しを見せたって……。」
館内には、ちらほらと人の姿があった。夏休みで、勉強をしている小中学生の姿も見えた。
「約五百年前。」
「五百年前って言うと、江戸時代か。」
郷土資料の本の中に、それらしき記述がないかと、歩は思った。
「分かる?」
「ん……。」
本のページをめくる歩の横から、レイナが顔を近づけていた。蕩けるような甘い香りが漂い、彼女の吐息が歩の頬を、そっと濡らした。
「ちょっと、いいかな。」
「何……?」
歩は本から顔を離した。そして、レイナの顔も、また、歩から離れた。
「手がかりが欲しい。」
「と……言うと?」
「五百年前の魔神復活が、どうやって阻止されたとか、誰が阻止したのかとか……。」
来館客に気を配って、歩はひそひそと内緒話でもするかのように、レイナに話し掛けた。だが、それは奇しくも、再び、歩とレイナとの距離を縮める結果となった。
今度は、レイナの横顔に歩の唇が近づき、歩の吐息がレイナの頬を濡らした。そして、レイナの体から発せられる体温が熱気となり、歩の鼻先から喉を伝わり体の中に入っていった。
「五百年前の復活は、偶然、防がれた結果だと聞いたわ。」
「偶然……?」
今、この瞬間、歩は体が蕩かされそうな感覚に陥っていた。自分が自分で無くなるかのような錯覚。そして、永遠無限に存在が消失してしまいそうな妄想。それは、まさに夢を見ているかのようであった。
「ねえ、聞いてるかい?」
「あ、ごめん。」
「いいかな……。夢により、一人の武士を誘惑して操り、生贄を捧げさせたものの、儀式の途中で、その武士が見つけられて、中断させられてしまったって……。」
「武士なんだね。」
「ええ……。」
歩は現実に立ち帰った。そして、また、本を見つめ直し、ページをめくった。しかし、歩の意識は眼前の字面を追ってはいるが、体は、未だ、どこか、空虚な洞穴に置いて来たままのようであった。
「……。」
館内は静かだった。そして、二人の間にも、しばしの沈黙が訪れた。
日比野希望は空想家であった。彼女は、特に意味もなく、過去や未来のことを思索した。しかし、現在のことに対しては、比較的、無関心だった。
「(暇……。)」
世界にも、人生にも、生きることにも、目的らしきものはなかったし、その過程に意味も感じられなかった。そんな時に、彼女は夢を見た。
「キタレヨ。ワレハ神ナリ。生贄ヲササゲヨ。サレバ、ヨミガエラン。」
「(あった……。)」
希望という存在に、目的と意味が生まれた瞬間だった。
「(あった……。私の生きる意味があったよ。)」
希望は駆けた。彼女の未来に向かって。その瞬間、希望は、確かに生きていた。
「うーん。これかな……。」
図書館で、本のページをめくっていた歩は、ある資料の一文にたどり着いた。
「どれ……。」
「見ても分からないかも。」
それは、この地域にいた一人の藩士が認めた覚書の写しであった。
『去ル※年※月 小納戸役 矢野十三衛門 禄高二十二石 城搦手より東ノ方 林内ニ於テ狂死致シ候由 カノ者 邪教徒ニシテ カノ小者ヲ殺シ 林内ノ廃社ニ於テ邪法ヲ執リ行ワムトセシ事 以テノ外ニ付 捕手被差遣 御成敗被為仕候也』
「どういうこと?」
「推測すると、城の東の林で、矢野十三衛門って武士が、生贄を捧げて、魔神を復活させようとして、捕らえられたってところかな。」
「私の聞いた通りじゃない。」
レイナはその両頬を上げて、笑った。
「魔神の社は、城の東にあったらしい。」
「よし。行こう。」
それから、歩は、この町にあった城の位置を調べ、当時の地図と現代の地図を照らし合わせて、社のあった林の場所を特定した。
「これ、中学校じゃないか。」
魔神の社があった林の場所、そこは現代では、歩が通っていた中学校の敷地になっていた。
夕暮れ時、夏休み期間中の中学校内は、閑散としていた。
「門は開いてるみたいだ。」
「行きましょう。」
歩とレイナは、中学校の敷地内に入った。
「一体、学校のどこに、魔神の社なんかあるんだ?」
歩も、今から数年前、この中学校に通っていた。しかし、その三年間に、そのような噂は聞いたことがなかった。
「急ごう。気配が近づいている。」
「気配って、何の……?」
「ヒビノノゾミ。」
「ちょっと待って。」
「何?」
「やみくもに探しても、仕方ない。」
「じゃあ、どうしろと?」
「それは……。」
歩は、思考を加速させた。これまでの、そして、今までの出来事を思い出した。
特に成すこともなく過ぎていた日常。突然の兆しと来訪者。夢のような現実。そして、今。
それらの出来事が、突然、眼前に舞い降りた理由も原因も、歩には分からない。ただ、目の前にいる不思議な少女だけが、歩の唯一の導き手であった。
それは、すなわち、歩が、今暮らしている、この世界から脱出するのも、再び、いつも通りの日常に舞い戻るのも、彼女次第ということだった。彼女こそが、歩の大事な人だった。
「あ、そういうことか……。」
「何……?」
一瞬の閃きが歩を襲った。その閃きは、どこからともなく舞い降りて来た。それは、まるで、突然の来訪者であるレイナのようであった。
「君か。」
「え……?」
「君が日比野希望なんだ。」
「……。」
宵闇が廊下の窓ガラス越しに、二人を照らしていた。
「思い出した。日比野希望。そう、あの子だったのか……。」
「やめて!」
叫び声が、廊下を反響しながら、深い暗闇へと吸い込まれていった。
「私は、レイナ。日の神子レイナ。日比野希望なんて言う名前じゃない。」
「そっか。でも、もう、忘れないよ。」
「行こ。」
「うん。」
二人は廊下を駆けた。そして、二人が向かった場所、そこは学校の屋上だった。
「さあ、生贄を捧げるのよ。」
「分かった。」
夜の闇の中には、空に浮かぶ星の瞬きさえもなかった。
「最後に聞かせて。」
「何……?」
「本当にいいの?」
「うん。」
「そう……。」
二人のそのやり取りは、誰が誰に言ったことなのか、真っ暗な空洞の中では、認識することすらできなかった。
ピンポーン
「はい。」
「こんにちは。」
「やあ。」
「入ってもいい?」
「どうぞ。」
中学校の校庭で、かつて、一度だけ、一緒に遊んだ女の子がいた。その子は、いつも、独り、教室で本を読んでいた。
「狐……?」
「え?」
「『魔神物語』。」
「あっ……!?」
「変な本。」
いつのまにか、後ろから本を覗き込む人影に気付いた少女は、咄嗟に本のページを閉めた。
「ねえ、一緒に遊ばない?」
「えっ……と……。」
「行こ。」
少年に手を引かれて、少女は校庭に出た。夏の日差しは暑く輝いていた。そのまま、二人は、地面を駆け回り、遊んだ。いつも教室にいた少女は、知らない場所に行き、知らない物を発見した。
「宝探しみたい。」
「おもしろい?」
「うん。」
たった一度だけの邂逅。なぜ、それが行われたのか、当事者である少年、少女たちにも分からなかった。ただ、お互い、何か目に見えない糸のような物に手繰り寄せられたかのように、二人の運命を、一度きりだけ、交錯させた。
「じゃあね。」
「うん。」
それが終わると、二人は、再び、元の日常という物語に帰って行った。全てが終わりを遂げた。お互いの存在だけでなく、その時、起こった出来事そのものを、二人は忘れていた。ただ、それぞれの物語は続いていたが、それは、どこか平坦で、その物語に自分を納得させているかのようだった。
「こんこん。」
「ふふ、かわいいね。」
「やめて、恥ずかしいよ。」
「それにしても、今日も暑いね。」
「そうだね。」
暑い。茹だるような夏の暑さは、人間の眠りを浅くする。そして、人間たちに夢を見させる。それは魔神の誘惑であり、復活の兆候なのかもしれない。魔神を復活させる生贄に選ばれたのは、誰だったのだろうか。そもそも、生贄は捧げられなかったのだろうか。どうやら、魔神は復活することはなかったようであるが、その過程で、また、新たな、日常という物語が紡ぎ始められたのは確かだった。