愛だけじゃ生きていけない
「ミレイユ、彼とは会ったかい?」
「? 彼、とは一体誰の事ですのお父様」
父エリオットが仕事から帰ってくるなりそう言ったので、ミレイユは一体何の話かしら……? と思いつつも聞き返した。
「……かつての婚約者だった、ほら、あれ。アーネストだよ」
「…………いいえ、あれ以来会っていませんけれど。わたくし今日は一日家にいましたけれど、来客は誰も来ていませんでしたわ。そちらは執事のエシュドに確認していただければ」
かつての婚約者、そう言われてもすぐには思い出せなかった。
ミレイユにとってはとっくのとうに済んだ話だし、あんな醜聞を晒した割にすぐに次の婚約者は決まった。今の婚約者との関係は可もなく不可もなくといったところだが、わざわざ亀裂を入れるような真似をするつもりもない。
ミレイユの所にはアーネストが来たという話すら出ていなかったけれど、もしかしたらエシュドが追い返したからかもしれないわ、と思ってそう言えば父は「そうか。ならいいんだ」とだけ言ってそれ以上何を言うでもなかった。
アーネストとミレイユはかつて婚約者同士であった。
だが、三か月ほど前にアーネストから婚約破棄を言い出したのである。
よりにもよって一年に一度の建国を祝う場で。
この国は大国と言うほどのものでもない。周辺には軍事力のある国、豊かな資源のある国、食料が豊富な国と、その気になればこの国なんてプチっと潰せそうな国が取り囲んでいる。
だからこそ、もしかしたら来年にはもうこの国はなくなっているかもしれない……なんて不吉な想像もあながちあり得ないわけでもなく。
今年も無事にこの国は平和でした。来年までこの平和が続きますように。そんな祈りを込めたかどうかはさておき、とりあえずそういう感じで毎年祭りがおこなわれている。
アーネストは第一王子であった。
そしてミレイユは彼と結婚した場合この国の王妃となるべき存在でもあった。
だがしかしよりにもよってアーネストは何を思ったかお忍びで向かった下町で出会った平民の娘と恋に落ちた。
王族というその責任の重圧から一時でも逃れたい、と考えるくらいであれば、許された。
いつまでも逃げ回るようであれば問題だが、この国の王となれば逃げたくとも逃げられない。即位前に多少の羽を伸ばすくらいは、と国王にも王妃にも大目に見ましょうか、くらいの気持ちで見守られていた。
ミレイユとてその気持ちはわからなくもない。将来は国を背負って立つのだ。
それを思えば重圧に押しつぶされそうになる事は勿論あった。
ミレイユもだからこそ時々息抜きと称して眺めの良い丘の上から街並みを見下ろしたりだとか、今だからこそ気軽に会える友人たちとの茶会を開くなどして気晴らしをしていたのだから、アーネストが息抜きにちょっと平民たちの中に紛れるくらいは苦言を呈す事でもないと思っていたのだ。
城の図書館には歴史書だとかの小難しい本だけではなく、大人からこどもまで読めるような本も存在していた。その中には英雄譚などもあったし、更にその中の一つには王子が下町で出会った平民の子と友となり、王子は国を救うために魔獣と戦い、また友であった平民の子は騎士団長にまでのぼりつめるというものもあった。
身分を越えて彼らは生涯の友人となったのである、なんて感じの話は幼心に突き刺さったのか、幼少時の王子はよくその本を読んでいたともミレイユは聞いていたし、だからこそ彼もそういった友となれそうな誰かを探し求めているのかもしれない――などと、思っていたのだ。
実際は友どころか生涯を共にしたいと思える女性と出会ったようだが。
だがしかし、相手が貴族であればまだしも平民。
たとえば父親が貴族で、遊びか本気かはともかく手を出されたメイドあたりの女性が身籠ったものの流石に公にはできぬ、となって仕事を辞めて一人で子を産む、だとかの過去があったわけでもなく、アーネストが見初めた相手は父も母も平民で、遡って調べても一族の中に貴族の血が、なんて事もない純度百パーセントの平民である。
アーネストが見初めたその平民は、名を確かモリスと言ったか。なんにせよミレイユとは直接の面識がなかった。
これが同じ貴族であるのなら、学園や茶会、はたまたそれ以外のパーティーなどで会う機会があったかもしれない。だがミレイユは侯爵家の令嬢で、モリスは平民。余程意図して出会う機会を作らなければ会う事など早々ない。
だからこそアーネストが本気でモリスに惚れこんでいると気付けなかったというのもある。
どうせ一時の遊びだろう、そう思っていたのは確かだ。
遊び方を間違えなければ問題ないとすら思っていた。
なので婚約破棄を宣言された時はミレイユとしては青天の霹靂でもあったのだ。
次期王とそれに見合うだけの血筋と能力のある娘、当然その婚約は政略だ。けれどミレイユはそれを納得していたし、アーネストもまた次なる王になるのだから理解していると思っていた。
燃え盛るような愛がなくとも、例えば春の日差しのような柔らかで控えめな愛でも育む事はできるだろう。恋というものがお互いになかったとしても、家族に向ける愛はいずれは芽生えたかもしれない。
だがしかしそう考えていたのはどうやらミレイユだけのようだった。それは婚約破棄を宣言された時に自覚している。
パーティーの場にアーネストはモリスを連れてきてはいなかった。
当然だ。いくら彼女と添い遂げたいと言ったとしても、認められるはずがない。せめてモリスが貴族の血を引いていればどうとでもできた。しかしそうではない。
ドレスを身に纏った事もない。ダンスなどお伽噺の中だけの話。そんな娘をパーティーの場でもある貴族たちの集まる場所に連れてきたって、礼儀も作法もなっていない娘だ。嘲笑の的になるだけで終わってしまう。
アーネストもそれを理解していたからこそ彼女を連れてはこなかった。
婚約破棄を申し出た後、アーネストは次期王という立場を捨てた。そこだけはいっそ潔いと言えた。
アーネストは、国と女とを天秤にかけて女を選んだ。
国王も王妃もまさかここまでとは思わず初めは難色を示したが、アーネストの決意は揺らぐ様子がなかった。それでも強引にその決断を却下する事はできた。だが、そうした場合アーネストはモリスを連れて駆け落ちをするだろうというのも簡単に想像ができてしまった。
結局のところ、アーネストは王族という身分を捨て市井で生きる事を選び、国王と王妃もまたそれを認める事となった。
この時点でミレイユとしては自分の経歴に傷がついたな、くらいにしか考えていなかった。
王妃教育までしたというのにどうするんだろう。第二王子はまだ五歳。流石にミレイユの新たな婚約者とするには年が離れすぎている。第二王子が大きくなって王になる頃にはミレイユだっておばちゃんだ。そうでなくとも女性には子を産むにしても制限時間がある。あまり年をとってからだと世継ぎを産めるかどうかも疑わしい。
その後は国王の弟――王弟殿下との婚約に落ち着いた。この決定に不服そうにしていたのはミレイユの父エリオットだけであったが、ミレイユとしてはむしろアーネストよりマシな結婚相手だと思っている。
ミレイユと王弟殿下との年齢は少しばかり離れているが、それだってちょっとだけだ。結婚相手としてみるのなら、そこまで常識から外れる程の年の差というわけでもない。
第二王子が王になるにしてもまだまだ先の話だ。そして現国王はそろそろ引退を考えていた。だからこそもうしばらくしたらアーネストを即位させようとしていたというのに、その目論見はまさか実の息子に邪魔されるなど国王とて思っていなかっただろう。
引退せずに王のままで居続ける、という選択肢もないわけではなかったが、この時点で国王は身体を壊しかけていたために療養が必要でもあった。なので当初の予定とは譲る相手が異なるもののもうじき新たな王は即位するし、その時に新たな王妃もお披露目というわけだ。
ちょっとの年の差が気に入らなかった様子の父も、ミレイユの説得を受けてしぶしぶではあるが納得したのでこれに関しては丸く収まったと言うべきか。
そもそも思い込んだら一直線のアーネストより、思慮深く今までも兄である国王陛下を支え続けていた王弟殿下とでは、比べるまでもない。ミレイユは王弟殿下が好みのタイプというわけでもなかったが、それでも素敵な人だなとは思っている。支えるべき相手が変わってしまったけれど、だがこちらの方が余程やりがいがありそうだ。
それにここで王弟殿下がいやだなどとごねた所で彼以上の結婚相手もいるわけでもないのだ。妥協と言うには暴論が過ぎるが、収まるべきところに収まったと考えればそれはそれで。
婚約破棄を突き付けられたものの、別段ミレイユに落ち度があったわけでもない。
それこそ物語の中では王子の恋の相手に嫉妬し思いつく限りの嫌がらせを働いた、なんてものもあったがミレイユはそもそもやってもいないのだ。というか名前はかろうじて知っているけれど直接顔を見た事もないし、結婚するまでの間の短い期間の遊びだろうと思っていた相手だ。
それを害する必要性が感じられない。
これが例えばモリスが他国から忍び込んでいる間諜であり、王子を篭絡しようとしている敵であったのなら話は変わる。だがそういったものもない。
婚約破棄を突き付けたアーネストは真実の愛を見つけたとのたまっていたが、それだけだ。
あえて言いたかった事といえば、婚約破棄、ではなく白紙撤回してほしい、と言うべきだったのでは……とは思っている。この場合婚約破棄を宣言していいのはミレイユの方であった。
ともあれ、多少のごたつきこそあれどアーネストとミレイユ、二人の道は分かたれたのである。
王子は身分を剥奪され平民へ。
彼は少しばかりの財を持ちモリスの元へ行ったと言われている。
行った、と断言しないのは報告でそう聞いたからというだけに過ぎない。ミレイユは直接己の足と目でそれを確認したわけでもないのだ。そもそも確認しようという気持ちもなかった。
流石にあんな事件――と言っていいのかも微妙だが――があった後すぐに王弟殿下との婚約からの結婚、となるには王家の外聞が悪くなるとの事で多少の時間をおいているが、今の時間はちょっとした休憩時間のようなものだ。アーネストがやらかした事でミレイユもそれに振り回される形となった、というのが一応の理由か。
あと三か月後にはミレイユは新たな婚約者と結婚し、王家に入る事が決まっている。アーネストとの結婚式で着る予定だったドレスをそのまま……というわけにはいかず新たに仕立て直す事になってしまったが、採寸は既に終えているし後は仕上がりを待つだけだ。必要な事の大半はほとんど終わらせているので、あと三か月はのんびりと過ごさせてもらえる事になっていた。
王家に入った時点できっと色々忙しくなるので、ミレイユとしても遠慮なく今のうちにのんびりさせてもらうつもりであった。
「ですがお父様、そのような事を聞くというのは……もしかしてアーネストに何かあったのですか?」
「あぁ、うん……その」
やけに歯切れが悪い。
「その、だね、ミレイユ。当面の間外に出るのは控えて欲しいし、どうしても出なければならない時は護衛をつけてほしいんだ」
「途端に物々しくなってまいりましたわね。一体何が?」
「実は、だね」
言うべきかどうしようかと悩んでいる様子のエリオットだが、それでもいずれは知る事になると思ったのだろう。落ち着いて聞いてほしい、と前置いた上で彼は告げた。
「アーネストが、モリスを殺した」
その言葉にミレイユが息を呑んだのは言うまでもない。
真実の愛を見つけたと言っていた相手を、殺した……?
何故。
その疑問が表情に出てしまっていたのだろう。普段であれば淑女としていかがなものかと言われるだろうけれど、今回父はそれを窘めなかった。内容が内容だし、公の場というわけでもないというのが理由だろう。
「彼はね、王族に戻ろうとしている。けれど勿論そんな事が認められるはずもない。自らの意思で王族である事を放棄したのにたった三か月でそれを覆そうだなんて、ムシの良い話だろう。
そもそもたった三か月でそうなるのなら、わざわざ真実の愛を見つけたなんて言わないでモリスを愛人として囲うなりしておけば良かったんだ。
城に入れず追い返されたアーネストが次に何を考えるかは……ミレイユ、予想できるかい?」
「……成程、狙いはわたくし、ですか」
「そういう事になる」
深刻な表情を浮かべている父の言いたい事を理解して、ミレイユはふーっと深い溜息を吐いた。
アーネストが何を考えているのかがわからない。
いや、次に出るだろう行動はわかる。
城に戻る事ができなかった。であれば次にアーネストはかつて自分が王族であった時と同じ状況に戻せば立場も戻るのではないか、と考えたのだろう。そんな事あるはずがないのに。
つまりは、婚約破棄を宣言する直前、ミレイユとまだ婚約者であった頃まで戻る事ができれば。
ミレイユが自分の伴侶となるのであれば、彼は王族に返り咲く事ができるかもしれない、とでも考えたのだろう。随分と短絡的な事だ。
「あの人いつからそんなに頭が悪くなってしまったのかしら」
むしろそんな馬鹿なのにこの国の王になるところだったの? とも言いたい。
いや、次代の王となるべく教育を受けていた時の話はミレイユも聞いていた。自分だって将来彼の妻として、王妃として彼の隣で国を支えていくはずだったのだから。王となるべき男の教育が全く進んでいないとなれば、その分自分がよりしっかり支えねばならない。だからこそミレイユはアーネストがどれくらい次の王としての教育が終わっているのかを聞かされていたし、同じようにアーネストもまたミレイユの教育がどこまで進んでいるかを知らされていたはずだ。
その時は確かお互い同じような勉学の進み具合であったと記憶している。だからこそ、お互いに国の今後について語り合う時も特に相手の話についていけない、なんて事にはならなかった。
そうだ。あの頃のアーネストは次の王として相応しいはずだった。彼の隣で彼と、そして国を支え導く事はとても誇らしい事であるはずだった。
だが今のアーネストはどうだろう。
真実の愛を見つけたと婚約を破棄し、そしてその真実の愛で結ばれたはずの相手を殺したというではないか。
更にはミレイユと復縁を目論んでいると聞かされて、彼の目的が何なのかがわからない。
王族に戻るにしても、本当にそれが目的なのか……という底知れぬ不安があった。
だって普通に考えてミレイユとよりを戻そうとしたって無理なのはわかりきった事ではないか。その無理を押してでもやらかそうとしている、というのは何か他に別の目的があるのではないかと考えてしまっても仕方がない。
ミレイユの心は既にアーネストにはないし、仮に強引に攫って無理矢理手籠めにしたとしても、それでアーネストが王家に戻れるはずはない。それどころか、王弟殿下の妻となるはずだった女性を傷つけたとして処刑される未来の方が確かなのだ。
王族である事を認められず追放されたがそれを認められず王家を簒奪しようというのであればまだわかりやすい。
けれどアーネストは何もやらかさなければそのまま王になれた。王家からも追放されたというよりは、自分でその立場と身分を捨てたのだ。
あえて戻ってこようとする意味はないように思える。
仮にモリスとの事が一時の迷いだった、となったとしても。
そこでモリスを殺す必要がないように思える。
「お父様」
「何だいミレイユ」
「アーネストはどうしてモリスを殺したのかしら。考えても無駄な事にしか思えないの。次の狙いがわたくしだというのなら、余計に」
「……アーネストはまだ逃亡中で捕まっていない。捕まれば彼の口から真実を聞けるかもしれない。捕らえる時に勢い余って殺されなければ、の話だけど。
とはいえ、捕まったとして彼が本当に真実を話すかはわからない。
……あまりマトモな情報が得られるとも思わないけれど、モリスとその周辺の人間関係も調べてみるかい? 勿論、ミレイユが知りたいというのなら」
「お願いするわお父様」
返事は即決だった。
王族という身分や立場を捨てるつもりがないのに捨てると宣言した可能性も考えたが、アーネストがそこまで考え無しの馬鹿だったとも思えない。何か、もっと別の理由があるのではないかと思えてきたのだ。
王になるのであればミレイユとの結婚は通るべき道の一つであるし、それでもモリスを捨てられないというのであれば妾にでもしてしまえばいいだけの話だったと思う。
ミレイユが世継ぎを生むまで待たせる事にはなるけれど、そうする事の方が余程アーネストにとっては望む展開に持っていきやすかっただろうに。
何か別の思惑があるのではないか。どうしてもそう考えてしまう。
けれど、ミレイユが直接調べるわけにもいかない。そもそもミレイユにそういった事ができるとは思っていなかった。下手に市井をうろついてアーネストに狙われるような事になる未来の方が余程ありえそうだ。
かといって自分の従者に頼むにしても、そちらもこういった調べ物が得意かと問われると微妙なところで。
だからこそ、父が自らの部下を使って調べてくれるというのなら素直に頼んだ方が確実であったのだ。
そして数日後。
アーネストはミレイユのいる屋敷の周辺をうろついている所を捕獲され牢へと入れられた。
だがしかし、モリス殺害について彼は口を割ろうとはしなかった。ただ一言、
「愛だけじゃ生きていけなかった」
とだけ言ったきりだ。
その更に数日後、エリオットが調べさせたモリスに関する報告書がミレイユの手元にやってきた。
「…………馬鹿みたい」
それを見たミレイユの感想としてはそんなものだ。その声に嘲りはない。同情だとか憐憫、そういったものに近かった。
――モリスは旅人たちを受け入れる宿の娘として生まれ育った。
部屋を整えたりするのは母が、料理は父が。こまごまとした手伝いを幼い頃から手伝って、宿の看板娘と言われていたのがモリスだ。実際に小柄な体格とコロコロ変わる表情に、小動物めいた愛らしさがあったのは事実だ。そしてそんな娘がくるくると良く動き働くのだ。訪れた旅人たちの癒しになっていたのは想像に難くない。
だがその宿もここ最近では立ちいかなくなりつつあった。
少し前に父親が病気で亡くなり、母がどうにか頑張って宿の経営をしていたようだがそれでも遠のく客足に、いよいよ宿を閉める事にした……というのがアーネストとミレイユが婚約破棄をする少し前。
その頃には母親も心労と過労が祟って亡くなってしまった。
たった一人の娘が宿を継ぐにしても、今までのようにはできそうにないと思ったのだろう。
一度店を閉めて新たな店にするとかいう話が出たようだ。
それが、アーネストとミレイユが婚約破棄をした直後。
アーネストは王族という身分を捨てたとはいえ、着の身着のまま出ていったわけではない。彼個人の資産は存在していたし、モリスと二人、慎ましやかに生活していくのであれば当面は生きていけただろう。
モリスも散財するのが好きだとか贅沢をする事に何のためらいもないという娘でもなかったし、平民らしく身の丈にあった暮らしをする事を当たり前と思う娘だったのだから。
アーネストの持っていた資産から宿の外観などの修理費を出してもらったのだろう。元々こまめに修繕していたからかそこまで時間もかからずに建物は見た目だけなら新しく見える程度には整えられた。
そしてそこで二人で新たな店でも経営するのだろう……と思われていたが、特に店がオープンするような事もなく。
それどころか時々建物の中からは二人の言い争う声が聞こえたりもしたそうだ。
報告書にはモリスを知る者の証言や、周辺に住んでいた者の証言も記されていた。
曰く、両親が亡くなった後、宿の経営は難しいと思ったモリスは新たに店をレストランへと変えようとしていたとの事。
だがしかしモリスとアーネストとの考え方の相違とでも言おうか、それで二人は揉めていた事。
その揉め事は日に日に激しくなっていき、ついにはアーネストがモリスを殺害に至った……という部分で報告書は〆られていた。
その部分をよく読めば、アーネストの言い分というか、主張の方が正しく思えなくもない。だがモリスはそれを認めなかった。結果として二人の喧嘩は留まるところを知らずヒートアップしたというものらしいが……それの行きついた先がこれでは……とミレイユは同情もそうだがどちらかといえば呆れたという感情の方が強い。
「モリスの作るご飯が美味しくなかった、なんて理由で殺すだなんて……本当に馬鹿みたい」
王族として今まで食べていたものが、平民として暮らしているモリスのところで出てくる事などあるはずもない。モリスを知る者たちの証言からモリスの料理の腕は褒められるものではない、とあるがそれでもだ。
だったら、自分で作る努力をするか、他に作れる人材を雇えばよかったのに……それともあくまでも二人の店、という部分にこだわったのだろうか。だがその結果がこれでは、こだわるべき部分を間違えたとしか言いようがない。
渡された報告書の一番下には、かつて王族であったもののアーネストは人を殺すという罪を犯したため、近々処刑されるとも書かれていた。
処刑方法については記されていないが、大衆の目に晒すような事にもならないだろう。
「愛だけじゃ生きていけないなんて、そんなの当たり前の事なのにね……本当に、馬鹿な人」
それが、ミレイユが元婚約者に向けた最後の言葉だった。
――薄暗い牢の中、アーネストは頭を抱えて座り込んでいた。
一体どうしてこんな事に……今更思うのはそんな後悔の言葉ばかりだ。
ミレイユとの婚約を比較的穏便に解消し、自分は王族という身分を捨て市井に下った。その事に後悔したつもりはなかった。あの時点では最愛のモリスとこれから生涯を共に過ごせるのだという思いで一杯だったのだ。
少し前に父を亡くし、母も危ない状態なの、と言っていたモリスを支えていきたかった。いずれは王となり国を支えていくはずだった自分が、国を捨てたった一人の女性を支えていくという事に葛藤がなかったわけでもない。けれど、同時にこうも思ったのだ。
たった一人、愛した人を支える事ができずに国を支える事などできようはずもない、と。
結果としてアーネストはモリスを選んだ。本来ならば王族の血をそこらにばらまかれるのは困るわけだが、自ら身分を捨てる際、それについても両親と契約を結んだ。子を作れないようにする処置をして城を出るのが本来ならば然るべき選択であったのだが、アーネストはモリスとの子を望んでいた。だからこそ、契約書にアーネストの子が王位を継ぐような事は決してないと記し、契約魔術でもって書かれたそれらで己を縛った。
これで万一アーネストの子が王位を望むような事になったとしても、その権利は存在しないし契約を守らない場合その血の持ち主には契約違反の報復が行われる。
大昔から存在する王家にのみ使用する事を許された魔術を用いてまでそうしたために、アーネストはそのまま市井での暮らしを許されたといってもいい。
これからはモリスと二人、幸せな日々が始まると信じて疑わなかった。
持参していた資金から宿を軽く修繕し、その間そこで暮らすのは無理だったために別の宿で過ごしていた。
修繕自体は元々モリスの親がこまめにやっていたので、そう日数はかからなかった。そうして二人のこれから暮らす場所へ戻ってきて、モリスは言ったのだ。
折角だから宿じゃなくてレストランにしようと思うの――と。
そこからが、二人にとって破滅への道となったのは言うまでもない。
今まではモリスの手料理を食べる機会がなかった。
二人で店を見て回ったりするデートは何度もしたけれど、そういった時は大体アーネストの奢りで食事をする事が多かった。
モリスの両親の知り合いが経営している店などにも足を運んだ。
思えばあの時、彼女の母は体調不良を誤魔化して働いていたというのに、モリスはそんな事おくびにも出さなかった。いや、少しばかり顔色の悪い母親だなとは思っていたけれど、そもそもアーネストがモリスと出会った時点で彼女の母の顔色は大体そんな感じだった。だからこそそれが普通なのだと思い込んでしまっていた。
けれども、今こうして思い返すとモリスの母はモリスを宿の仕事にあまり関わらせないようにしていたようにも思えてくる。
あれは、間違いなくモリスに料理を作らせまいとしていたに違いないのだ。
建物の修繕を任せている間二人は別の宿で過ごしていた。その宿では食事が普通に出てきたし、だからこそモリスの手料理を食べる機会はその時点でもなかった。
だが、修繕が終わり戻ってきた二人の新たな愛の巣で、アーネストは地獄を見たのだ。
モリスの料理は壊滅的だった。
なんというか味がしない。
彼女が生地から作ったというパスタは、なんというか最初からのびていた。歯ごたえも悪く、口の中一杯になんだかよくわからない感触の何かが入っている、というのだけがわかるようなもので。
パスタと絡めたソースもまた、なんともわからない味であったのだ。
恐らく野菜が使われているのは確実だ。なんというかえぐみがある。
ぼそぼそという食感の間にもにょっとした感触がやってくる。
一口を咀嚼するだけでもアーネストにはとても長い時間に感じられてしまったのだ。
一口噛むごとに口の中に広がるなんと表現していいのかわからない味。噛むごとに主張してくる謎の食感。
アーネストの知っているパスタとは似ても似つかないどころか完全にかけ離れていた。
それだけなら、たまたま失敗してしまったのだろう、とアーネストもまだ良い方に考えたりもした。
だが次に出されたハンバーグで、その希望的観測も打ち砕かれた。
まず完全に火が通ってない。半生。そして広がる獣臭さ。あまりの酷さに飲み込む事すらできずアーネストはその場でそれを吐き出してしまったくらいだ。
あと、臭みのせいでそちらに意識が傾き過ぎてしまったが恐らく調味料すらマトモに使われていない気がした。塩とか胡椒とか、そういったものの存在を感じ取る事ができなかった。
マトモに下処理すらされていない肉、それを味付けもせずに中途半端に焼いただけのそれを、アーネストはハンバーグとは認められなかった。
最初のうちはモリスもアーネストの反応を見て慌てたりもしていた。だからこそ、アーネストもあぁ、今日は調子が悪かったから失敗しただけなんだろうな、と思う事にしたのだ。
だが違った。
次の日、体調を崩したように見えたアーネストにモリスはこれ食べて元気になってね、と粥を差し出したのだが……
まず米がきちんと炊けていない。アーネストは初めてポリポリと音を立てて食べる粥というものを体験した。ポリポリで済めばいいが、時々ガリッという音も口の中でしたので間違いなく米に火が通っていない。炊いてから鍋で煮込むとかすればまだしも、恐らく米そのものの状態から煮込んだのだろう。にしたってこれはないだろうと思えるものだった。
あとやはり味がついていない。
塩とかちょっとくらい使っているだろうかと思ったが、モリスに聞けば身体に優しい感じにしようと思って、と言われたので間違いなく使っていなかった。
次にスープ。
煮込んだ野菜の味はするが、それだけだ。
そのほかにも出された料理の数々は、極端に味がしないか、変に生臭いか、えぐみが際立ってるか、とまぁ、ロクなものじゃない。
流石のアーネストも連日続く悪夢のような食事に辟易したし、だからこそモリスを連れて他の店で食事をしようと誘ったりもした。
他の店で食べた料理をモリスは美味しそうに食べていたので、彼女の味覚がおかしいわけでもないのだろう。もしくは、不味い料理に対する耐性が他の者より極端に強いかだ。
実際あの料理はアーネストに対する嫌がらせかと疑ってしまったので、一緒に食べようと誘ったりもした。
そしてモリスは自ら作ったアーネストからすれば料理と呼ぶには到底有り得ない代物を、平然と平らげたのだ。
自分で食べられないようなマズイ料理を出して、それを人に食べさせるが自分では食べない、というようなものでもない。その反応からモリスの料理はアーネストに対する嫌がらせというわけではないのだとそこで悟ってしまったのだ。つまりは最初から最後まで善意。いっそ王族じゃなくなったアーネストに利用価値がないじゃない、とかいう感じに悪意を持ってマズイ食事を出しているとか言われた方がまだ良かったと思える程だ。
悪意があるならまだ良かった。善意であるからこそ厄介だ。
自分の為に作った料理を出して、にこにこしながらこちらを見ているモリスに事実を突き付けるのは流石のアーネストも躊躇った。
だが、躊躇っている場合じゃなくなったのも事実。
なにせ新たな店としてレストランをやりたいな、なんてモリスが言い出したのだから。
アーネストは問うた。
誰が料理を作るんだい? と。
モリスはこたえた。
もちろんあたしよ、と。
あ、この店終わったな、と始まる前から終焉の気配を察知してしまうのは無理もない話だった。
勿論アーネストだって確実に沈む泥船とわかっている商売を始めさせようと思うはずもない。建物は修繕されたとはいえ、宿と違ってレストランにするのであればイスとテーブルの数が足りないし、カトラリーだって今までの物をそのまま、とはいかないだろう。新たに追加で仕入れなければならない分を考えれば決して安くはない。更には食材だって仕入れなければならない。
例えば畑を持っていて自分で作物はある程度収穫が見込める、とかそういうのもないのだ。仕入先との契約だとかはどうしたって必要になってくる。
野菜、肉、この辺りはどうにかなるが、魚はどうだろう。王都は海から離れているので、魚は市井では大体干した長期保存可能になっているものが主流だ。アーネストが城に居た頃は魔術で凍らせた魚が届けられていたらしく、新鮮なものが届いていたが……市井でそういった物を入荷するとなると値は跳ね上がるだろう。
魔術師に知り合いでもいて、とかならまだしも、生憎とアーネストには個人でやりとりするような魔術師などいなかったし、それは平民であるモリスもそうだ。
肉と野菜をメインに料理を作るにしても、今までのモリスの手料理を思い返せばうんざりするしかない。
どうにか軌道修正を試みようとしたけれど、モリスは二人で始めるレストラン、という部分に心奪われているのかアーネストの真剣な軌道修正をろくに聞いちゃいなかった。
今まで使われていたイスやテーブルはもう古くてボロボロだから、いっそ新しいのを購入しましょう。
できたらシンプルながらも可愛らしい感じのが欲しいわ。
それから、カトラリーも内装にあわせて可愛らしい感じのを用意したいわ。
お料理を待ってる間、お客様にはゆったりとした時間を楽しんでもらいたいから、絵を飾ってみたり音楽を流すのもいいかもしれないわね。
楽師ってどれくらいで雇えるのかしら……
この程度のお花畑はまだマシな方だ。
そもそも市井のレストランで楽師が演奏してるのなんて見た事はない。酒場で客や店の者が盛り上がって適当に歌ったり店にある楽器を演奏する事はあるようだが、延々店内で楽師が演奏するレストランなど貴族が足を運ぶような店でも少数だ。
この時点でモリスの理想を叶えるために一体どれくらいの資金が必要になるのか、果たしてモリスは理解できているのだろうか……
そう思ったアーネストは、ともあれ明確な数字の話をした。
だが、難しい話はよくわからないけれど、アーネストがいるなら安心ね、で流されてしまったのだ。安心ね、ではない。お前のその理想は実現させられないと言っているというのに。
更に料理に使う材料の仕入れ先はどうするのか、と聞けば、お客様には良い物を召し上がってほしいから、と今まで宿で料理を作っていた時の仕入れ先ではなく、他の仕入れ先を選ぼうとしていたようだが……
一体どこで知ったのか、モリスが挙げたのは貴族、それも男爵や子爵といった身分の低いところではなく、侯爵家あたりが利用しているようなところで。というかその仕入れ先は、その侯爵家の領地にある。他の貴族たちが仕入れるにしても、気軽にできるものではないのだ。貴族ですらそうなのだから、いくらアーネストが元王族であっても無理だし、勿論モリスがそこに足を運んだとしても断られるのは言うまでもない。
というかそもそもアーネストだって元王族ではあるが、今は平民だ。彼が行っても何の意味もない。
仕入れ先としてモリスが選んだところは平民には無理だと懇々と諭したおかげか、そこはどうやら理解してくれたようだけど、問題は他にもあった。
メニューだ。
そもそもモリスが一人で料理を作るというのだ。アーネストは今までの生活から作る機会などなかったし作れないのでそこは当然としても、モリスの料理を食べた身としてはせめて少しでもマシな味付けができる物だけを出してほしいと思っている。
だがここでもモリスは色んな料理を出したいわ、と思うだけならともかく実現させるとなると大変な事にしかならない夢を語り始めたのだ。
そもそも、一人で料理を作るのはいい。いや料理の腕を考えると全然よくないけど一度そこは置いておく。
給仕は誰がするのだろうか。アーネストか? 元王族とはいえ今は平民なので働く事は致し方なし、と思ってはいるけれど、だとすればあまり広い店内にはしない方がいいだろう。
アーネストは料理こそした事はないが、幼い頃にちょっとした悪戯心で城の厨房に忍び込んだ事がある。そうして城の料理人たちの忙しさをその目で見たのだ。
王族に出す料理だけ作ればいいというわけでもない。城で働く者たちの料理も作っていた。見ていた幼いアーネストの目もうっかり回るくらい忙しいもので、思えばあれ以来出された料理はなるべく残さないようにしよう、と思ったのだったか。
だが、モリス一人で料理を作り、それをアーネストが給仕として客に出すとしても。
持て成せる客の数など限られている。
だがモリスは修繕した建物全体を使ってレストランをやるつもりでいるらしかった。
……無理だろう。流石に。
宿ならばまだいい。部屋を整えておけばあとは泊まった客が勝手に部屋の中で休んだりするし、食事に関しても決まった時間内に食堂に来てもらえればいいだけの話だ。
宿の人間が常にずっとついていなければならないわけでもない。だがレストランとなれば話は違ってくる。
アーネストが給仕するというにしても、客から注文を受けてそれをモリスに伝え、その間に他の事をしなければならない。それは飲み物を運ぶだとか、食べ終えたテーブルの食器を片付けるだとか、出来上がった料理を運ぶとか。
アーネストが訪れた事のあるレストランは格式ばったところであったとはいえ、あれはそれでも人がいた。複数名の店の者たちがこちらに不便を感じさせないよう常に心を配り動いていた。
だが、あれと同じような事をアーネスト一人でやれと言われれば無理だ。
客の数が二組だけ、とかならまだどうにかなると思う。
だが建物めいっぱい使うと言われれば、客の数はそれ以上。アーネスト一人で対応できるはずもない。
それどころか、モリスの作る料理を出すのだ。確実に店内で暴動が起きる。それらをどうにかするのもアーネストが……となると、とてもじゃないがアーネスト一人で間に合うはずがない。せめてあとアーネストが十名くらいいればどうにか……と思えるが多分それでも心許なかった。
自分の手には負えない負担。
それも含めてモリスにはとにかくどうにかレストランをするにしても、少数の客だけを相手にするようなものにしようと説得した。
だがモリスはそれに納得しなかったのだ。
だってそんな少ないお客さんしか入れなかったら、儲からないじゃない、と。
いや一杯入れても儲からないだろう、とは言えなかった。
この時点ではまだアーネストもモリスの事を愛していたので。あまりにも直球すぎると傷つくかなと思ったのだ。
だがしかし、モリスの気持ちは変わらないし、それをどうにかしようとするアーネストも折れるつもりはない。折れたとして店を始めても、下手したらその日のうちに閉店だ。負債がとんでもない事になるのは目に見えていた。
アーネストが持っている資産にまだ多少の余裕があるとはいえ、だからといって潰れるのがわかりきっている店に全額つぎ込むつもりは毛頭ないのだ。そんな事をすれば路頭に迷うのがわかりきっているのだから。
長い、長い話し合いの末、モリスはいっぱい話したらお腹空いちゃったわね。何か作るわ、と言ってキッチンへと向かっていってしまった。
モリスの事は愛している。けれど彼女の料理は愛せそうにない。
いっそ水だけ出してくれればそれが一番嬉しいよ、と何とも酷な事を何度口から出しそうになった事か。
城に居た時はあまり気にしなかったけれど、水って美味しいものだったんだな、とアーネストはモリスのおかげで一つ新しい発見をしていた。とはいえ、感謝できるようなものでもない。
そして出された食事は、肉と野菜を炒めたものだった。
ところどころ焦げているし、やっぱりなんか肉が生臭い。焦げた部分の苦みだけがやたら突出した味となっていた。
これもメニューに加えようと思うの、なんてにっこにこの笑顔で言われて、ここでアーネストは決心したのだ。今は平民とはいえ、王族として行った店でこんなもの出されたら出した料理人の首を刎ねている。いや、直接刎ねたりはしないけれど、それでも料理人として働く事ができないようにはなっているだろう。
平民ならこういった料理が普通なのだろうか、と思おうともしたが、そもそもモリスと二人で出かけた先で食べた物はちゃんと美味しかったのだ。であれば、これが普通だというのは言い訳にもならない。
だからこそ、アーネストはとても言いにくいけれど、と前置いて伝えたのだ。
モリスの作る料理は美味しくないという事を。
そもそもまずレシピはどうなっているのかと聞いた。
そうしたらモリスはきょとんとした顔でないけど? なんてこたえたのだ。
一度もマトモにレシピを見て作った事がない。
それだけでも衝撃的な事だが、更にモリスは言うのだ。
お母さんに聞いた料理の秘訣があるもの、大丈夫よ、と。
一体どんな秘訣だと思ったし勿論それを聞けば、やはりモリスは何て事のないように答えたのだ。
料理は愛情。だからたっぷり愛情をこめていれば問題ないのよ。
いや無理だろう。とアーネストは即答した。
確かにモリスが自分の為に作ってくれたことはわかる。その気持ちは嬉しい。けれど、正直な話毎食こんなものが出てくるとなるとげんなりするし、何より食欲がわかない。実の所アーネストはモリスと生活を始めてから体重がそこそこ減っていた。このままこの食生活を続けていけば、確実に衰弱死する。アーネストはそう確信しつつあった。
だからこそ、アーネストはモリスのためを思って伝えたのだ。
愛情だけで料理が美味しくなることはないのだと。
今までの料理の駄目な部分もその時に伝えた。素材の味を活かすと言いつつ調味料など何一つ使っていない事も、肉の臭みをそのままにしている事も。火加減も恐らくはよろしくないのだろうという点も。
だからまず、一度店をやるまえにどこかで料理を習うかするべきなのではないか、と。
アーネストの言い分は、そういう意味では正論であった。
このままだと店を始めてもすぐに潰れるのが目に見えている。モリスの願いはかなえてあげたいけれど、店を始めてしまえば行きつく先は二人にとっての地獄だろう。それを回避するために、アーネストは一つ一つ、改善点を述べていったのだ。
だが、モリスからすればそれは酷い裏切りのようであった。
今まで料理を作っていた父が死んで、確かに宿の経営は傾きつつあった。けれど一生懸命働く母を見て、自分も今まで以上に手伝ったりしていたというのに。
その母の、料理には愛情を込める、というその部分を否定されてしまうのは、モリスにとっては全てを否定されたようなものだ。
モリスは知らない。母の料理もまたモリス同様に酷いものであったことを。
そんなものが出てくる宿に泊まりたいと思う客がいるはずもなく、そのせいで客足が遠のきつつあった事を。
母の手料理には愛情がたっぷりだから、という理由でモリスはそれらを完食していた。不味いだなんて思いもしなかった。モリスの舌が一般より不味いものに耐性があったのも不幸の一端だった。
ともあれ、モリスからすればアーネストの言葉の一つ一つは正論であったが、それでも彼女の愛を否定されたようなものだったのだ。
どうして。
今まであれほど愛を囁いてくれたのに、アーネスト、貴方あたしを裏切るの!?
感情的になってそんな風に喚いてしまった。
勿論アーネストはモリスの事を愛している。
だからこそ、このまま破滅の道へ進むのを避けるためにこうして言いにくい事を伝えたのだ。
だがそれはモリスには伝わらなかったらしい。
ぎゃあぎゃあとヒステリックに喚くモリスを、それでもアーネストは宥めようとしたし、話し合いでどうにかしようとした。けれど、アーネストが冷静に話し合おうとすればするほどモリスはヒートアップしてますます話を聞いてくれなくなったし、最終的には手が出た。
ぱちん、と大した威力ではなかったけれど、それでもその手の平はアーネストの頬を打ったのだ。
カッ、と頭に血が上るというのはこういう事か、と頭の片隅のどこか冷静な部分でアーネストは思っていたが、その一部分はどこか他人事のように自身の行動を見ていたようにも思う。
今まで、王族として育てられてきたアーネストは、勿論自衛のために剣術を始めいくつかの武術を習う事はあった。その際に確かに痛い思いをした事もあったし、怪我をした事がないなんて言わない。それ以外でも幼い頃に悪戯をして、それで母に叱られた時やあまりにもそれが酷かった時、父が頭に拳骨を落とした事だってあった。王子といってもそういう部分はきっと市井の子らとそう変わらないだろう。
だが、こんな風に――自分に決して非はないと言える状況で危害を加えられたという事はなかったのだ。
武術の修練などは命を狙う悪漢などから身を守るため、怪我をすると仮定しても最低限に留めるように。致命傷を避けるために最小限の傷だけで済ませる方法を学んだりもした。だからこそ、その時に負った痛みは必要なものであると思えた。
幼い頃の親からの一撃だって、あれは思い返せば確かに自分が悪かったと思えるもので。だから仕方ないと思えたのだ。
しかし、今回の件でアーネストは自分は決して悪くないと思っていた。
だってそうだろう。
どう言い繕ったところで不味いものは不味いのだ。
それで店を経営する? 寝言は寝てから言ってほしい。
料理には愛情を込める? 確かにそういった言葉を聞いた事がないわけじゃない。だが、愛情だけで出される料理全てが美味しくなるのなら、作物の不作の年に飢えて死ぬ者が出るはずがない。愛さえこもっているのなら、それこそ味は悪くとも食べられなくはない野草を出せばそれで万事解決となってしまうではないか。けれどそんな事は決してないのだ。
いくら飢えていても。口に入れた途端吐き出したくなるような不味さの物を食べさせられれば当然吐く。身体が受け付けないのだから。あまりにも不味い物は最悪生命の危機を髣髴とさせる。本能が拒絶するのだ。そこにいくら愛があると言われても、それとこれとは別の話だ。
むしろモリスの事を愛しているからこそ、忠告をしたに過ぎない。
仮に店を始めたとしよう。だがすぐに潰れるのは目に見えている。
その場合、恐らくは負債を抱えあっという間にモリスに残された元宿屋これからレストラン予定の建物だって借金の形に取り上げられるだろうし、それだけで借金がチャラになるはずもない。
アーネストはまだ若く健康だからこそ、借金奴隷となったとして労働できる場所は恐らくいくらでもある。けれどモリスは。
彼女はそこらの男より力があるだとか、武術の心得があって強いだとか、そういうものはない。
掃除や洗濯といった料理以外の家事はできるけれど、それだって人並み程度だろう。
何か突出した技能があるわけでもない若い女。
借金を返すために働く場所などそうなるともっと限られてくる。それこそ、最終的に娼館に落ちるのが関の山だ。
そうなる可能性の高い未来を回避するために、アーネストは忠告したのだ。
だがモリスは聞く耳を持たなかった。
それどころかあたしの事を愛していないのかなどと喚いている。
ふざけるな。
愛しているとも。
愛しているからこそ――
は、と気付いた時には手遅れだった。
自分には何の非もないというのに頬を打たれて、カッとなったのも自覚している。
こんなにも愛しているというのにそれを疑われた事もあって、胸の内でとぐろを巻くようにどす黒い何かが渦巻いていたのも理解している。
だが、そういった部分を自覚できていながら、アーネストはたった今自らがやらかした事だけは理解できていなかった。
自分が何をしたのか信じられない。
だが、目の前にはぐったりとしているモリスが倒れている。
首にはくっきりと指の痕がついていた。
「モリス……?」
呼びかけたところで返事はない。
まるで眠っているかのように静かになってしまったモリスを揺り起こそうとしても、彼女は何の反応も示さなかった。そもそも既に彼女の呼吸は止まっている。
自分が彼女を殺したのだ、と理解するまでに若干の時間がかかってしまった。
理解すると同時にとんでもない後悔が襲ってきた。
どちらにしてもこのままでは問題だ。
モリスをそのままにしておくつもりはないけれど、けれど、死体をどうすればいいのか、アーネストにはわからなかった。幸いな事に、と言っていいものか、この国は今まで平和であった。戦争などで死体を見るような機会もなく、また、アーネストの周辺で人が死ぬということはほぼなかったのだ。
勿論、全くないというわけではなかったけれど、大抵は老衰だとかで穏便な別れだ。直接その死体を見たわけでもない。
だからこそ、アーネストにとって目の前にある死体は生まれて初めて見る死そのものであった。
王子として城に居た頃であれば、こういった事態になっても誰かしらがアーネストの代わりに色々とやってくれただろう。けれども今のアーネストは既に平民だ。自分でどうにかしなければならない。
だがどうすればいいのかわからなかった。
くたりと倒れたままのモリスをそのままに、アーネストはどうするべきかを考えた。
考えて、考えて、考えた末に――
王子として戻れば、彼女の事も従者の誰かが適切な処理をしてくれるのではないか、と思ったのだ。
だが勿論そんな都合よくいくはずもない。城へ戻ったところで彼は門前払いを食らい、王子としての立場に戻れるはずもなく。
アーネストがもう少し冷静であったならば、そりゃそうだよなぁ、とわかっているはずの事だというのに彼は最愛のモリスを自ら手にかけてしまった事で、冷静さを失っていた。いや、もしかしたら正気も失っていたかもしれない。
王子に戻るためにはどうすればいいのか。
かつての婚約者――ミレイユと元鞘にでも戻れば。
彼女はいずれこの国の国母となるべき存在だ。その彼女との関係を戻せば、自分は王となるのではないか。
アーネストは冷静さを失ったまま、短絡的にそんな事を考えてしまったのだ。
とはいえ、ミレイユの住む屋敷に乗り込もうにも警備は厳重。
真正面から行ってもあっさりと警備の者に捕まるだろう。
どうすればいい、どうすれば――
考えて、最終的に警備が薄い場所を探そうという事になった。
周囲の目を避けるように行動していたため、無駄に何日も経過してしまったけれど、それでもここからなら侵入できるのではないか、と思える場所を発見した。
そしてそこから敷地内に入り込もうとしたところを――彼は捕獲されたのである。
その後色々と聞かれたが、モリスをどうして殺したのか、という事にはこたえられなかった。殺すつもりはなかったのだ。けれど、殺してしまった。
その事実を今はもう理解している。けれど、それを人に上手く説明する事はできそうになかった。
原因を突き詰めれば、飯が不味いの一言に尽きるのだが、きっとそれだけでは誰も理解してくれそうにないとアーネストは思っていた。
自分だって、人からそんな話を聞けば飯が不味いくらいで……と失笑すらしただろう。
そんな事で殺したとか、どうかしているとすら口に出したかもしれない。
それどころか、その程度の愛なのか、と嘲ったかもしれない。
であれば、そんな事誰かに言えるはずもなかった。
この胸の内を正確に誰かに伝える事は、アーネストには不可能だと思えてしまったのだ。
だからこそ黙秘を貫いた。
そして牢の中で一人、どうしてこうなってしまったのかと後悔する羽目になった、というわけだ。
どうすれば良かったのだろうか。
モリスの食事を我慢して食べ続ければよかったのか。
彼女に真実を突き付けない方が良かった?
しかしそうしなければ、あのままレストランを開店させるような事になってみろ。瞬く間に借金まみれになるのは目に見えている。借金をどうにかできたとしても、あれだけ殺人的な不味さの食べ物を提供するとなれば、そんなものを食べる事になってしまった憐れな客がその料理の作成者に殺意を抱かないとも限らない。
アーネストだって最愛のモリスの手料理だから我慢して食べていたけれど、あれが例えば城の料理人が出したものなら間違いなくそいつはクビにして二度と料理人として働けないように手を回している。アーネストですらそう思うのだから、モリスに対して愛も情も抱いていない人物であれば彼女の事を衝動的に殺したっておかしくはない。
考えたところで、結局何をどうすればよかったのかなんて結論は出なかった。
仮にミレイユと結婚して王になり、ミレイユに事情を話してモリスを囲う許可を得たとしてもだ。
きっとモリスはそれを良しとしなかっただろう。彼女は平民で、だからこそそういった――愛する者に他の相手がいる、という事実に耐えられなかっただろうから。
どれだけ考えたところで正解なんてわかるはずもない。そもそもそんなものが本当にあるのかも疑問だ。
だが、薄暗い牢の中、他にする事もないためにアーネストはひたすらに考えるのだ。
そうして最後に行きつくのは、結局の所アーネストがモリスと出会わなければ良かったのだ、という結論だ。
だがしかしアーネストはそれを認めたくはなかった。彼女と出会ったからこそ自分は人を愛するという事を知ったのだ。その行きついた先がこれ、という部分はどうかと思うが。
モリスと出会わず、ミレイユと結婚して王となり、いずれはもしかしたら彼女とも愛を育む事はできたかもしれない。けれどそれはきっと、モリスに向けるような愛とはまた違った別の何かだ。
そして、もしそうであったとしても、アーネストはそれも認めたくなかった。何故ならそれは今の自分を否定する事に繋がるからだ。
だからこそ、モリスと出会ったところから、何をどうしていれば二人が幸せになれたかをアーネストはひたすら考えていた。もしそんな道があったとしても、完全に後の祭りでしかない。
そうしてひたすら牢の中でアーネストはそればかりを考えて過ごしていた。
時折出される食事は貧相なメニューでかろうじて飢えはしないといったもの。だがアーネストはそれに文句をつける事なく残さず食べた。
だって美味しかったのだ。
今まで、きっと城で過ごしていた頃のアーネストであればこんなもの食べられるか、となっただろう。しかしモリスの料理を食べ続けた今のアーネストからすれば、こういうのが素材の味を活かすって事なんだろうなぁ、なんて思えたし、間違っても一口目から吐き出したくなるような味じゃないだけで充分だった。あと変なにおいとかもしない。勿論古くなった食材を使っているのもあって、時々微妙なにおいはしていたけれどそれでも食べられるものだったし、モリスの料理と比べると圧倒的にマシだったのだ。
だからこそ、アーネストは毎食出された物はきっちり残さず食べていた。
だが――
そんな生活も長くは続かなかった。
ある日出された料理はいつもよりは豪華に思えた。今日は一体何の日だったか……とアーネストは考えたけれど、牢の中で外の様子もわからないまま数日が経過していて、果たしてここで何日過ごしていたかもわからなくなりつつあったアーネストは結局深く気にする事もなくいつものように料理に手をつけた。
そしていつものように綺麗に完食し――変化があったのはその後だ。
まず身体が動かなくなった。妙に痺れる感覚。上半身を起こしているのもつらくなり、その場に横たわる。全身に激痛が走る、といった事はなかったが呼吸をするのがつらくなってきた。そして目がチカチカする。元々あまり明るい場所ではなかったけれど、視界は更に翳りすぐ近くにあるはずの空の食器も見えにくい。
一体どうしたんだろう、と思う間もなく呼吸をするだけで精一杯になり必死に酸素を吸いこもうとするが上手くいかない。吸うのも吐くのもままならず、視界はどんどん暗くなり――
そうしてやがて、アーネストは動かなくなった。
王族のままであったなら、平民一人を殺したとしてもどうとでも揉み消せたかもしれない。けれどアーネストは既に王族ではないとされている。モリスを殺したアーネストをそのまま釈放するわけにもいかない。そして、人を殺したと知られているアーネストを外に出したとして、そうなれば次は自分が殺されるかもしれないと怯えた他の民に殺される可能性が高かった。仮に殺されなかったとしても、もうアーネストはマトモな生活などできるはずがない。一緒に暮らしていた女を殺した男が他の誰かに近づけば、次は自分がそうなる、と恐れる者が出るのは目に見えている。
そうなれば他の土地へ流れ着くだろうけれど、そこで果たしてマトモに暮らせるかもわからない。
アーネストは能力自体は決して劣っているわけでもない。だからこそ、どこかで何かを吹っ切って犯罪組織を立ち上げるような事になれば王家としても問題だ。
愛する者と生きていくと言って出て行ったアーネストの、しかしその最愛の女はもういない。であれば、王家としてもアーネストをそのままにしておくわけにはいかなかった。
本来であれば毒杯を、となるはずだったが、既に平民となった者に毒杯は過ぎたものだ。
だが、それでもまだ彼に対する慈悲はあった。
だからこそ、毒杯とはまた別の毒でもって処断する事が決定され――そしてそれは実行された。
ただ、それだけの話であったがアーネストがそれを知るはずもない。
アーネストが王族の時のように警戒心を持っていたなら死ななかったかもしれない。けれどモリスの料理により大抵の食事はあれよりマシ、とインプットされてしまったためか、アーネストは何の警戒もなく毒入りの食事を完食してしまったのだ。
アーネストが死んだのは、奇しくもミレイユが報告書を受け取りそれを読み、彼に向けての最後の言葉を放ったのと同時刻であったのだが――
ミレイユもアーネストも、勿論そんな事知るわけがなかったのである。