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昼下がり  作者: 磯目かずま
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退職

 この職場ももうあと一日になる。これまでこの席で仕事をし、密かに文章も書いてきた。最後に何か特別なことを書こうと思ったが、退職前に普通に忙しく、やるべきことに追われていたらもうすぐ退職日だ。

 今はひとしきりやるべきことも終わって眠気と闘いながらコーヒーを飲んで、あとは自分の荷物をまとめて、このPCも初期化するだけだ。

 

 思えばいろいろなことがあったようにも思うが、結局何にもなかったようにも思う。最近は、辞める前に叔父に飲みに行こうと呼ばれ、そこで「高学歴難民」という本を渡されて喧嘩したということがあった。そのことをもっとしっかり書きたい気持ちもあったのだが、疲れて書く時間もないので、言われたことだけ列挙しようと思う。社会人童貞、被害者意識が強い、金もないのにカードで払うとか、もっと世間を見ろ、縁切ろうかな、何でそんなに硬いの、子供っぽい、なぜつながりを断とうとするのか、親を説得しろ。あと何か言われた気もするけど、今思い出せないのでもういい。

 わたしは改めて人間を信じてはいけないと肝に銘じた。だますならまず身内だと思った。子供だというならば、自分の心が「社会人」でないというならば、硬い、というならば、そうでないように嘘をついて、大人になり、「社会人」らしくふるまい、柔らかくユーモアあふれたように対応してあげよう。そう思った。結局心を許すことはリスクであり、誰も彼も他人であり、もっというと敵であり障害である。

 自分が否定されたように感じてダメージを受けた。曲がりなりにも小さなころから知り合いだった叔父すらも、自分のことはどうしようもないと思っていたようだ。今まで仕事をしてきたことも、大企業の人事部長からすれば社会人童貞に過ぎないのだろうし、自分の都合で仕事を辞めてしまうのも、いいところから声をかけてもらったのに断ったのも、それを親族にきちんと説明しないで勝手に過ごしているのも全部子供っぽいのだろう。この文章も子供っぽいわたしの所作でしかないだろう。誰にも見られていないのをいいことにここにこうしたことを書くのもこれが最後かもしれないし、環境が変わったらまた書き出すかもしれない。


 純粋に何かの道に邁進する人がいたとして、その人がそのことで道を極め称賛されていたとする。しかし、人間であるから何かの欠点はある。そしてその欠点によって騙され、盗まれ、嵌められたとし、それによって何かに邁進していた人はそのことばかりやっていた馬鹿であり、反面教師になってしまう。

 人は裏切り、簡単に手のひらを返し、好き勝手なことを言い、自分を棚に上げる。そして、曲がりなりにも問題を起こさず、問題を起こしても持ち上げられず、市井に紛れて一市民としての匿名性を保っていられるということから「社会人」として自分を正当化し、何かそうできなかった人を非難して喜ぶ。

 わたしはともすると難民となってしまい、犯罪者予備軍や自殺者になってしまい、社会人になれなかったとして非難されるのかもしれない。そうなのだろうか。わたしはそういわれるべき人間なのだろうか。それとも、ここでこうした文章を書き続けながらどうしようもなくコーヒーをすすっていることがいい社会人としての正解だったのだろうか。

 わたしは確かに足りない人間で、出力も少なく、厭世的で鬱病で、カウンセリングにも通い、職場でどうしようもない文章を書き、身内にも馬鹿にされ、友人もなく、貯金もたいしてないような弱者男性なのかもしれない。

 それでも、そうしてしまった自分には理由がおそらくあるのだろう。それは、ここに書かれた文章が一つの物語として機能するならば、その中に織り込まれたひとつひとつのかけらが指し示すようなものなのかもしれない。何かを書くためにわたしはこの文章を書いた。それは、この文章を書くということであったのだろうか、それとも、この文章の後に書かれるためのものを書くためのものであったのだろうか。

 それは、どちらともいえない。ただいえることは、この文章を書くことでわたしはわたしであることができた。何かとしてそこにあるにはまだ厚みが足りないのかもしれないが、それでいいのだろう。何かを言い切るということは、そこで言ったことだけが十分なのだ。それが足りなかったとしても。


 冷静に自分を省みることなんてできそうにない。ずっと省察してきたようにも思うし、ずっと感情に任せていただけにも思う。思考はまとまらず、思いついては書き散らし、将来は漠然と不安なまま。もう、早い桜が咲き始めている。そうだ、桜の咲くころにはいつだって憂鬱だ。美しい気持ちは日々の生活に忙殺され、統一的な自分の像を社会に定めることだってできやしない。

 もうすぐ自分の荷物をまとめたダンボールを運送業者が集荷に来る。それを出して、机を拭き掃除して、PCを持ち帰って初期化してから返却して、明日は打刻だけして他は何もしないんだ。インスタントのコーヒーを一袋補充しておいた。置き土産だ。わたしが散々消費したのだから、今までも補充していたのだから。

 わたしは薄ぼんやりとした天気の中、窓際の席で冷えたコーヒーをすする。なぜだか切ない気持ちになる。どうしてだろうか。実家のソファでゲームボーイをしていたこと、誰もいない大学で寝ていたこと、夜中の散歩、謹慎中の日向ぼっこ、しけたイルミネーション、同僚と詰将棋をしたりタロット占いをしたこと、高架下、スイミング、夏の日の水のきらめき。同じような色味で心を締め付ける走馬灯が、空虚なオフィスにこだまする。

 そうしてすべては記憶になったのだ。今はもう戻れない場所に行ったのだ。自分のこの場所も、もう戻れない場所になるのだ。そう思うと、入職時に先輩にもらったこのサーモスのコップに染みついた年輪のようなコーヒーの跡が、余計に切なさを生んだ。きっと洗えばすぐに落ちてしまう。そもそもそんなになるまで放っておくな。


 そろそろ頃合いだ。書くのを切り上げて、データの整理をしよう。唐突な終わりだとしても、終わりは決まっていたんだ。きっとまた別の物語が始まる。さようなら。今までお世話になりました。

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