コンセプト
わたしは以前同僚と「コンセプト」について喧嘩をしたことがある。
そのときは、ちょうど何かの展示をしているときで、デザインの見本市のような感じでもあったが、中にはアート系の作品のほうが多く展示されていた。その中のデザイン分野ではあるがアート系の作品で、大きな花がファンシーな感じでレイアウトされていて、夢を具体化する、というような「コンセプト」の作品があった。
同僚はそれを見て、頑張っているけど「コンセプト」が弱いと言った。わたしはこのとき「コンセプト」の使われ方に激しい違和感を覚えた。もちろん、その作品はそこまで完成度が高いものではなく、そう言われるのも仕方ない部分はあった。単純に、その言い方に腹が立ってしまったというのもあると思う。
わたしはそのとき、その違和感について深く考えることができない前に、この作品の場合「コンセプト」の強弱はそこまで関係ないのではないかと述べた。その作品はアート系の作品であったし、「コンセプト」がありきたりの言葉で表現されていたとしてもそこに表れているものが独創的ないし技術的に優れていれば成り立つものではないかと考えたからだ。
同僚はそこで考え方が違うと言った。わたしはそこに少しの軽蔑を感じ取ってしまい、それならばと語りの土俵を拡張しようと考えた。そもそも、その同僚はアートに造詣が深く、現代アートの展示に頻繁に行くような人なので、特に現代アートの文脈の「コンセプト」を基にして「コンセプトが弱い」と言っているとわたしは推察した。ここでの現代アート系の「コンセプト」というのも説明が難しいが、「それ自体に独自性がないと作品の完成度如何に関わらずアートとしての価値自体が弱まる要素」が現代アート系の「コンセプト」である(これについては後に考察する)。
わたしが先に述べたような「コンセプト」自体が仮にありきたりでも作品自体がよければ成り立つようなものは逆に、アートはアートでもより大衆的で「文化産業的」なアートの文脈で成り立つものが多く、あるいはそれが現代アートであり得るとしても作品自体の独創性や技術が突出していたり、作者の言説如何によらず第三者の評論家などが「コンセプト」を補強してくれている場合であるようなものである。
そのためわたしは、「コンセプトというものは実際には広く使われるものであるにもかかわらず、特に現代アートでは限定的に用いる場面が多く、それは権威主義的な言説に結び付きがちだ」ということを言った。さらに、「コンセプトというもの自体が文化的・歴史的に形成されているものであるにも関わらず、作品に対してその強弱を云々し、その作品の価値自体の強弱をそれに結び付けるようなことは、暴力的な行為である自覚を持つべきだ」とも言った。
同僚は押し黙ってしまい、しばらくわたしが上記の話の続きのようなことを矢継ぎ早に話していた。その後、休憩室に戻り、同僚が非常に腹を立てている旨を伝えてきて、そこからは言い合いになってしまった。
同僚によると、まず「コンセプトが弱い」と言ったときの「コンセプト」はデザインの文脈のものであったということである。作品がアート的であったとしても該当作品は一応デザインの分野でのものであった。そのため、作品としては頑張っているけどデザインとしては「コンセプトが弱い」という意味でそれを言ったとのことだった。これに関してはわたしの曲解であったと言わざるを得ない。また、この問題に関連して、コンセプトという言葉が自分を非常に混乱させる要素をはらんでいるということが改めてわかったので、以下それについて考察することにする。
デザインの分野での「コンセプト」というのは、ほとんどビジネスにおける「コンセプト」と同じものであるといえるが、「商品企画において基本となる統一された考え方や概念」であるといわれている。この場合、コンセプトというものが具体的な手段や方法を指し、その指針に則って物事を進めるようなものとして考えられている(以後コンセプトの括弧を外して記載する。ここまでの括弧は単に違和感の表現であり、あらゆるコンセプトが現状括弧に入れられなければならないほどの差異がある可能性を示唆するものである)。
ビジネス的用法でよく出てくるのがテーマとコンセプトの違いである。これまでわたしが見てきたものによると、テーマは主題として基本的なアイデアや方向性を打ち出すものであり、それを実現するための具体的な方針がコンセプトである、といわれている。この時点でわたしはいつも違和感を覚えてしまうのだが、そもそもコンセプトが概念という意味であるならばこの使い方はおかしいのではないかという思いがある。
概念というものは、基本的には抽象的な指示対象であるということができる。これは「明けの明星」という場合の金星のことを指すが、この場合の金星は実在する金星というよりは明けの明星という状態のことも指すし、この名辞が用いられる文脈的な意味も含んでいる。ここでいう金星という一義的な対象とそれ以外の多様な意味については前者を「意味」後者を「意義」として論じることがあるが、ある言葉の指示対象という観点では広い意味では同じであり、意味と意義を含めたある言葉や命題の指示対象を広く概念といってもよいということができる。また、指示対象を示す名辞や命題、記号それ自体も概念といわれることもあり(キャッチコピーとコンセプトの同一視などがそれだといえる)、そもそも、概念として語られるものは言語によって表現される形態のものであることが基本であり、印象や感覚的質のようなものまでを概念と呼んでよいのかどうかは解釈によって異なる。
意味と意義を区別して考えること自体が論理学的であるし、一般的には意味と言った場合意義も含めて考えられている。そのため、意味と概念も一般的な用法で混同されやすい。さらにいうと、意味や概念として指示されている対象が実在するその事物なのか記号的なものに過ぎないのかという点でも意見の相違が生まれうる。こうした違いは、概念というもの自体が指示しているものが何なのかという時点での解釈の違いを生み、今挙げたものや挙げたものからの派生を考えてもざっと、意味、意義、指示対象、実在、記号、言葉、命題、名辞、言語的表現に依らない対象(感覚、印象、直感、アフォーダンスとか)、解釈等がすぐ出てくる。このうち、概念ということで何が指示されているのかということは、個々人の文脈によって異なってしまうのは当然であると思われる。
先に述べたよく言われるテーマとコンセプトの違いに関しても、テーマが主題というより抽象的なもので、コンセプトが具体的なものという違いは、結局デザインやビジネスの文脈でそのように分類されているというだけで、テーマがコンセプトに含まれるという解釈も可能であるし、コンセプト自体が具体的ではないものとみなしてコンセプトを実現するための技術とか行為とか素材とかの話こそ本質だということもできる。そして、コンセプトが何かの価値を創造することに対して重要だと考えることを、質料形相論的だといって批判することだってできる。この場合、コンセプトというものが実のところ相関的に質料と形相の関係性において形作られ調整されるものであるにも関わらず、思弁的・理念的なもので一方的に質料を抑え込んでいるとの批判が発生する。
実際には、こうした批判はビジネスにおいては的外れなのかもしれないが、コンセプトを実行するために現実世界をいいように改変することの問題点について思いをはせればいくらでも問題が予想できるのであるから、的外れな指摘でもないことである。そういうことも含めて、コンセプトが具体的なものとして設定されているとみることもできる。すなわち、界面的に主題と現実世界が応答するときにどのようなやり取りが想定され、そこにコンセプトが一貫性を持って関わることができるのかという問題である。
このことをふまえた上でさらに先のコンセプトの用法への違和感がもう一点出てくる。それはコンセプトの持つ「一貫性」という意味合いである。もっとも広辞苑にもコンセプトの項目で概念の次に「企画・広告などで、全体を貫く統一的な視点や考え方」というのが出てくるように、用法としては一般化しているものである。確かに、いわゆるコンセプトについて語る際に重要なのは一貫性である。これがなければ企画を進めることが難しいし、仮にコンセプトがないのがコンセプトというようなコンセプトがあったとしても、それはある種の一貫性をそこに与えるという意味でそれは一貫しているのである。
しかし、先に述べたように、概念というものはその時々で変容しうる要素を含んでいる。もっとも、犬という言葉が基本的に猫を指示しないように、ある種の指示作用の一貫性が存在している。これを記号と対象の再帰性や一貫性ということで考えることができ、シニフィエとシニフィアンの対応ということでよく言われるものである。
この意味でいうならば、記号や命題には指示対象への一貫性があるのであり、それは二通りの方法で一貫性を与えられている。第一には社会的価値づけによる一貫性であり、ある言葉がその対象を指し示すことが間主観的な価値づけによって確立されている状態である。これは犬を猫に結び付けないような規則それ自体のことを指す。第二には再帰的になされる一貫性というものがある。これは、ある文脈で犬を猫と呼ぶという規則が作られ、それが繰り返されることで犬が猫を指示すること、さらにいうとその文脈で犬を猫と呼んでいるということ自体の理由や正当性というような価値づけが与えられることによって生成される一貫性である。
この二つの一貫性は記号の成り立ちにおいて実は同根であると考えられる。記号にはシニフィアンの先行性という考え方があり、あるシニフィアンが使用されることが重なることによってシニフィエとのつながりが確立されること、あるいはシニフィエ自体をシニフィアンと不可分なものとして生成することがある。すなわち、犬というシニフィアンが使用されるうちに「犬」のシニフィエを確立する(犬それ自体とは別に)のは、そもそもにおいて恣意性によって成り立つことであるのだから、確立される過程すなわち記号の生成過程では犬への「犬」の再帰的生成の過程があったということがいえるということである。これは犬という一般名詞であるから話が大きくなってわかりづらいが、固有名詞であればより再帰性が明瞭になるであろう。
ここまでくると、コンセプトが概念としては多様でありうるにも関わらず一貫性を持つものとして扱われるということの意味もおぼろげながら把握できてくる。すなわち、ある企画におけるコンセプトはその企画の固有名詞・固有名辞として世界に生成され、その企画を運営していく/実現させる過程で、再帰的に「その」コンセプトとして生成されるのである。
これはどういうことなのかというと、ブランディングというものとして解釈することもできる現象であるが、ある理念やテーマ、これは一般的だったりより抽象的で普遍的なもので、この段階では固有性を持たないというものに対し、それをある固有の事物として具体化する過程で様々な限定化が生じる。この限定化における具体的要素の集合と、それによって生じる二次的な意味、その固有性および固有名詞・名辞化という過程がある事物におけるコンセプトの生成であり、それは先んじて方向性として具体化を基礎づけるものでありつつ、再帰的に後から「その」コンセプトとして固有名詞・名辞と一体化するようなものとして現れるのである。
先にわたしが表明した一貫性に対する違和感は、コンセプトが先んじて設定されており、あとはそれを出力するだけかのように言い表されているビジネス用語に対する違和感であったということができる。コンセプトが先んじて決定されているだけのものであれば、それはここでいう理念やテーマと何ら変わらないにも関わらず具体性という部分で区別する意味が見いだせなくなってしまう。コンセプトが具体的であるのは、それを実現する過程でそのコンセプト自体が生産物と一貫性を持った状態で存在するようになるからであり、この意味では一貫性をより違和感なく理解することができる。
この意味で言うならば、テーマとコンセプトの区別は、普遍性と固有性の区別ということに求められるため、いわゆる用法でのテーマとコンセプトの区別にも納得できる理由を見出すことができる。テーマはそれ自体では理念的なものでなんら具体性を持たず、一つの商品として成り立つものではない。それを具体的な一つの商品化するすなわち具体化し固有化すること、そのためには実現に関わるいくつもの手続きが必要なのであり、それに関わる指針であり、事後的にそれとして指示される固有の概念というものがコンセプトなのである。
ビジネスにおいては先行してコンセプトを投機することが重視されている。これは元をたどればシニフィアンの先行性という記号の性質を利用しているということもできる。何かを生み出すという場合には先んじてシニフィアンを投機しなければそれに具体的な意味を与えられない。これがいわゆる企画である。企画は、具体的な成果物が得られる前に世界に投機される。そうであるがゆえに、一見して先んじてコンセプトが「出来上がっている」かのように思われるのであるが、企画に付随するコンセプトは決して完成されたものではない。それが一貫性として制作に影響を与えるとしても、それは支配するという関係性で関わるのではなく、投機された企画に具体性という意味が与えられていくという関係性で関わるのであり、企画やコンセプトは具体性との関係において変容し、一方が一方を規定するような関係性でないようなものとして、最終的な商品と寄り添って生成するものである。
われわれが商品とコンセプトをセットで認識するのは、それが自分で企画し作り上げたものでなければ、商品が完成しキャッチコピーなどと同列にHPやPOPなどで目にする段階のものである。そのため、いわゆる完成された商品としてのコンセプトであり、その過程は見ることはできない。もちろん、企画段階から完成まで名辞としてのコンセプトやキャッチコピーは一貫していることが求められているだろうし、そうして作られていているだろうが、完成している商品とそのコンセプトは先んじてコンセプトがありそこから生じた結果として商品があるのではないということを念頭に置くべきであり、そのことはしばしば忘れられている。
ここで、先に同僚と会話した中で出てきた「コンセプトが弱い」ということについて考えてみよう。ここまで見てきたように、コンセプトは固有性として具体化する作用および、具体化されたものの総体である。同僚は完成された作品および傍らに置かれた説明パネルを見て「コンセプトが弱い」と判断した。これはどういうことかというと、完成された作品を見て、それが生成される過程での具体化の諸要素の適合性や工夫、組み合わせが不十分に感じられるがゆえに、それの企画としてのコンセプトが遡及的に不十分だったというように思われ、さらに、完成した事物との総体としての固有性としてのコンセプトおよびそこに示されている名辞としてのコンセプトにも不十分さが表れていたということであろう。それが「コンセプトが弱い」という言葉で表現されているのである。
この不十分さというのは何に由来するのであろうか。アメリカの哲学者ネルソン・グッドマンは作られた記号が価値判断を受ける際の基準に「適合の正しさ」というものを挙げていた。これは、ある記号がそれ自体として指し示すものが記号の様々な側面から考慮されたうえで、それが「上手くいっているか」という観点で測られうるということだといえる。すなわち、あるテーマからコンセプトを設定して作品を作り、それが記号だと解釈した場合に、テーマとコンセプトの関係性、コンセプトの具体化に関わる素材や技術の関係性、出来上がった作品(記号)それ自体が指し示す意味・コンセプトそれ自体の関係性、そうした一連の関係性というものは価値的な判断で測られうるものだし、それらが上手くフィット(適合)しているか否かは判断できるということなのである。これが上手くいっていればコンセプト(この場合作品を記号と見た場合の意味や概念の総体といえる)が強く、そうでなければ弱いのである。ここで強弱でそれを表現するのが適切かどうかという問題もあるが、コンセプトの良し悪しは作品や商品の良し悪しとして語られうるし、それは企画やテーマの良し悪しとしても語られうるのである。
それでは、先にわたしは「コンセプトが弱い」という用法になぜ違和感を覚えたのか。これは、デザイン的用法でのコンセプトをアート的用法だと曲解したというわたしの勘違いに由来する部分と、コンセプトという用法自体の違和感に由来する部分があったように思われる。この後者の問題は上記に考察してきたように、実のところ理にかなった用法ではないかということで一つの理解を得られた。それでは、デザイン的用法とアート的用法の差異についての問題はどうなるのだろうか。
デザイン的用法のコンセプトは改めてここで述べると、「商品企画において基本となる統一された考え方や概念」である。これは、商品企画の部分を単に作品や記号として言い換えるとさらに汎用的なものとして使用できる。それではアートにおけるコンセプトはどのようなものかというと、先にわたしは特にそれを現代アート的なものとして「それ自体に独自性がないと作品の完成度如何に関わらずアートとしての価値自体が弱まる要素」であると述べた。これはわたしの解釈であるから必ずしも正しいわけではないことを断ったうえで、なぜこうした考えになっているのかを考察したい。
アートにおけるコンセプトというものも、基本的には汎用的コンセプトの用法で考えることができる。すなわち、作品における抽象的要素を具体化する過程で生じる、諸要素の集合における意味や価値、実在の総体である。デザイン的用法でもこのコンセプトの強弱を論ずることができたように、汎用的用法でもそれは可能であるといえる。着目すべきなのは、「それ自体に独自性がないと」の部分なのかもしれない。すなわち、コンセプトというものが作品と切り離して考えられており、それが作品よりも高次の存在で、そのコンセプトの強弱自体が作品を支配しているかのような関係性だということだ。
これはどういうことか。例えば、デザインにおいてはあるパッケージをデザインするという場合それのコンセプトはパッケージされるものやブランディングや需要に応じて企画されるものであり、その時々の問題解決としての独自性は必要であるが、逆にいうとその問題解決を超えた革新性や独自性は求められていない。あくまでそのコンセプトはその対象によって規定されるのであって、それを超越した抽象性への接続や普遍化は逆にコンセプトを具体性から遠ざけることになる。
しかし、アートにおいては汎用的コンセプトとしての具体化の作用がはたらいたとしても、翻ってそのコンセプトが普遍的な概念やテーマそれ自体、あるいはアートそれ自体を改変しようという志向性をもつということがいえる。これは、作品と再帰的に生成されるコンセプトよりも、先に投機されているコンセプトの設定がより厳しく重視されるという重みづけの問題であるといえる。
これはアートで考えているからややこしくなっているのだが、研究ということに置き換えて考えるとわかりやすいかもしれない。研究では先行研究をふまえた上でそこに新しい知見や発見を加えなければ基本的には研究とみなされない。もちろん、先行研究は膨大であるのだから、そのすべてにあたることができず研究内容に被りが生じることも場合によってはあるかもしれないが、その可能性を廃するところまで現行の研究状況を精査し、主要な参考文献にはすべて当たり動向を理解して、それでそこから新しさを求めなければならない。これはしかし基礎研究や理論研究のような分野の問題であって、中にはより実証的で具体的なデザイン的研究というのもある。それは研究の内部でも明確に白黒分けるのも難しいのであって、そこにはグラデーションが存在している。
アートとデザインということにおいてもそれは明確に分けられるものではなく、グラデーションとして革新性が重視されているか問題解決が重視されているかということでしかない。ここでいう革新性というものも、アートの文脈や文化的背景に対する革新性であり、それは言語における社会的規範のようなもので、それを拡張するようなもの、そうでなければ作品に価値を認めないという厳しい見解が先に述べたアート的コンセプトなのである(このため、アートにおけるコンセプトについての言説は時に権威的になることがあるし、とても質料形相論的なのだ)。
しかしながら、アート内部にもそのグラデーションがあるように、革新性への重みづけが必ずしも必要ではない場面というのが多々ある。われわれはアート的革新性を度外視した状態でも多様な作品を作る。絵画や彫刻は既存のジャンルを革新しない状態で個々人のコンセプトで作られうる。これが先に述べたような「文化産業的」なアートの場合である。ここでいう文化産業的というのは既存の枠組み「において」制作されるものの一般的用法として使用している。この場合は、テーマやコンセプトがありきたりであったとしても、再帰的コンセプトが作品としての価値や質を担保するという場合、それ自体の価値を論ずることも可能であり、良し悪しを評価することはできても革新性如何によって切り捨てられてしまうことはない。
広い目で見れば、アートにおける革新性の問題も、アートという文脈が存在しているから(それを再構築や脱構築することにかかわらず)存在しているのであり、大部分の現代アートとされているものも文化産業的であることに変わりはない(このことは「文化産業批判批判」において論じた)。先に口論のきっかけとなった作品がわたしには、文化産業的なもの、必ずしも革新性を求めていないものに思われたことからわたしは反発してしまったのだが、結果としてそれはデザイン的コンセプトであったので的外れであったということである。
以上に考察してきたように、コンセプトは概念としてとらえる場合多様なものとして考えられ、それを一義的に定めるのが困難であるが、基本的には汎用的用法により投機的コンセプトと再帰的コンセプトが生成されることでその都度固有なものとして具体化されそれが定着し、この具体化作用がコンセプトの一貫性を生んでいる。この用法にはコンセプトの作用に対する重みづけのグラデーションが存在し、普遍化作用と具体化作用および、枠組みへの革新性という観点からアート的コンセプトや文化産業的コンセプトという差異も生じる。こうしたコンセプトのもつ多面的要素が、コンセプトについての言説の難しさにつながっており、しばしば依拠する文脈の違いによって不和が生じうるのである。
これが、今回の問題についての現段階での回答だが、コンセプトについての問題だけではなくそれの扱い方について、自分が問題点だと気づいたものがあるので最後にそのことについて言及したい。
それは、ある概念を(ここからは概念という語を普通の意味で使わせていただきたい)それが権威主義的だと批判する際に、批判する側がより権威主義的になってしまうことが多々あるということである。
今回も、わたしの勘違いが発端であるが現代アート的コンセプト概念(この言い方が不自然なのは承知なうえでこう書くのだが)が権威主義的だとしてコンセプト概念の本質的要素からそれを批判しようとしていた。この場合、仮に現代アート的コンセプト概念が権威主義だったとしても、それを批判するわたしが依って立つコンセプト概念はそれを包摂するないしより大きな視座からの語りであるという点でより高圧的で言い換えれば神の視座寄りの語りとなっている。
より高次の視点からその下の領域を批判するという姿勢がそもそも権威主義的であるとするならば、概念の抽象度を高めてその普遍的領野から個別事例を批判してそれの問題点を指摘することは非常に権威主義的である。これを限界まで高めれば、神を最高位とした宗教的権威による強権主義につながるものであろう。
これはそういう宗教や国家などにおける特殊な事例かと思われてしまうが、日常生活で往々にして起こりうる現象である。ある事象に対して演繹してその理由や結論を示そうとするとき、何かの理由を知識や一般観念や常識から求めてしまうとき、専門的な知見から個別の事象を判断するとき、そういうときにわれわれは常習的に権威的になっているのである。無論、これは人間の精神作用の基本的な構造であるから、そのこと自体を否定することはできないし、懐疑主義や帰納主義になれというのでもない。
気を付けるべきなのは、自分がある対象を権威主義的だと批判するとき、自分自身が常にすでに権威主義的になっている可能性について十分に検討することである。レジスタンス自体が権威化して新しい革命で滅ぼされるのは歴史の常であるし、少数派であるからといって声を大きくすれば要求が通るわけではない。弱者の論理は強者を仮想敵にしなければ成り立たない。アートの革新性はアートという文化的枠組み無くしては起こりえない。どのような場合であっても既存の権威とそこからの距離感によってしか物事を語ることはできないし、その自分の立ち位置もまた権威の一つでしかない。
この権威性はある種の構造として逃れられないものとして与えられている。それゆえに人々はそこからの距離を取る方法としてノマドや出来事やリゾームやヒッピーに傾倒し、果ては呪術やオカルト、似非科学、フェイクニュースや陰謀論というものまで作り出す。しかしながら結局はそうした力に対する反力は力であることには変わりなく、力の総体は常に編み込まれた稠密な宇宙として更新されている。
確かに、ある権威は批判しなければならないような権威であることがあり、それは社会的に改善すべきものであることもある。その積み重ねで人類は文明を構築してきた。そのような巨視的なビジョンでなくても、普段のわたしたちの生活において批判すべき権威に直面したとしても、そこに新たな権威を打ち立て対抗することを考えるというよりは、自分もある種の権威であるということを自覚したうえで、抵抗すべき権威とどう向き合うべきなのかをよく考えるべきである。
実際、このよく考えるということだけがミクロな人間関係においては界面的に重要なのであり、よく考えられない段階で違和感や不和をぶつけてしまうことで、会話は平行線で水かけ論となり、結局いさかいだけで建設的なことが何もできなかったということにつながりかねない。違和感を覚えても、それに反射神経で応答しないで上記のように(それが無理でも)よく考えてから応答せよ、というのが、今回の教訓であろう。




