タロット占い
タロットカードが職場で流行り、昼休みなどに占いをしている。ワンオラクルという簡易的な一枚カードを引いてその意味を解釈するものが一番楽だが、ほかにもカードを引く枚数や並べ方でやり方がいくつかある。
わたしも自分の今年のことなどを六枚引くやつで占ってみたが、アドバイスが心臓に剣が三本刺さっているものの逆位置で、認めたくない現実に絶望している、という内容であり、そのほかも悲惨な感じだった。何度引いても吊られた男の逆位置が出てきて、徒労を意味するそれが、現実を変えようと努力しても何も起こすことができずに絶望するという自分の状況を暗示してくる。
占いというのはバーナム効果や確証バイアスのたまものだといってしまうことは簡単だし、逆にそうして切って捨ててしまうことは情報陳腐化現象としてある意味危険なことでもある。占いという文化的な価値のある存在は、確かにそこに見逃せないものがあるがゆえに存在していて、大事なのはそこから自分が何を得るかでしかないからだ。
カードを引く、そこに現れた意味を解釈する。ただこれだけのことであるが、大アルカナといわれる二十二枚のカードでワンオラクルをやっても四十四通りの結果が出る。同じカードでも正位置と逆位置で意味が変容するという要素もある。ここでやはり重要なのはカードに込められた意味となる。
カードには様々な絵柄が描かれている。それは、直感的に得られる印象を左右する。そして、大まかに分類された印象と、その図形の基本的な意味付けは、解釈の余地を残すことで、各人の人生から得られる意味に接続し、固有の意味を得る。ここでの意味は、カードの図の固有の意味と、占いという行為によって生じた意味の双方を含む。そのため、カードに込められた意味とは、それ自体が指示する対象と、再帰的に生成された意味の双方を指し、それらの総体が今現在のタロットの意味を形成している。
タロットの参考書も複数今手元にあるのだが、片やざっくりとした単語の羅列になっているものもあれば、片や項目ごとにどう読めばいいか細分化して説明してくれているものもある。基本的な考え方はだいたい同じなのでどれを参考にしても占いは可能だ。参考書を読み込んで、カードごとの基本的意味を覚えれば、後は実際の占いの際にいかにしてそれを真に迫って演出できるかという点が問題になる。
真に迫った占いとは何なのだろうか。カードの意味はそれ自体が人間の産物であり、それこそバーナム効果が発生するようなもので出来ているので、誰でも当てはまるようなものとしてとらえることができる。だから何のカードが出てもそれなりに納得する意味を与えることができ、全くとんちんかんなカードはあり得ない。仮に現在身に覚えのない予兆のようなものが出ても、潜在的なものでいつでも起こりうると考えれば何でも可能性として許容できる。そして、実際それに近い現象を体験すれば、占いが当たったと思わせられる。
そうであるならば、占いでは誰でも当てはまるようなことをいかにその人個人の問題として強く思わせられるかということが真に迫るということになるのだろうか。そもそもであるが、占いを求めている人というのはそれなりに占う必要がある対象を抱えており、それに付随する精神的負荷も抱えていると考えられるため、それを事前情報として得ていたり、様子を見てどういう問題がありそうか予測をしておき、会話の中で探りを入れつつ明らかにしていけば、実際の占いの際に真に迫りやすくなるといえる。ここで、できるだけ具体的な事柄に言及したほうがより真に迫っているといえるかもしれないが、それは的外れになるリスクもある。そうであるともいえるしそうでないともいえるという微妙な言葉遣いをすることで、被占者の疑問を回避し、強い言葉で表現できるときにそれを真に迫って伝えることが必要である。
例えば、浮気されているかどうか占うという場合はどうだろう。ここで浮気されている/いないを明確に伝えられる占い師はほぼいないのではないだろうか。ここで断言して家庭崩壊を招いた場合、そのあとのトラブルにも巻き込まれかねないし、被占者もそういう明言を求めているわけではないと思われる。ここでは、浮気というものが実際にされていそうだから占ってほしいのか、単に心配性の発露なのかを探りを入れるべきだろう。もし、何らかの証拠があってそう思っている場合は浮気の可能性も高まるし、そうでないなら単にいささか疎遠になって心配している程度のこともあり得る。
前者であれば、例えば恋人のカードが正位置で出ても、相思相愛の対象が不倫相手かもしれないということをほのめかして注意を促すことができるし、後者であればパートナーとは相思相愛の関係であり心配することはなく、忙しいでしょうが一緒の時間を取れたらいいですねとか言うことができる。ここでうまくアドリブを利かせることが重要といえる。そのためには、占いにおいて真に迫るということに加えて、カウンセラーとしての能力も必要ということだ。実際、占いというのはとっかかりでしかなく、何がしたいかというと人に相談して話を聞いてほしいというのが本質だからである。
だから、占いというのは真に迫るだけでは片手落ちであり、占いの結果からいかに被占者が満足できるような対話を生み出すかというところが核心的な部分である。いうなればコミュニケーションツールとして占いは存在している。
ほとんどのサービスは実際なにかしらのコミュニケーションツールであり、そこで提供されるコミュニケーションの質の違いを楽しむものだ。占いにおいては、カードの意味があり、それを引いて解釈する意味生成の楽しみがあり、それをもとに対話を生み出すという一連のコミュニケーションが成り立っている。占い師はそれを真に迫りかつ被占者の満足感を高められるようにすることでサービス業としてビジネスをしているのであり、円滑なコミュニケーションをするために観察力や読解力、話術を磨いているのである。
もちろん、そうした能力が高い占い師は人心掌握術にも長けているし、社会的地位が高い人間と深いコミュニケーションをとり、その人生に干渉することで社会的・政治的な地位を高めることもできるだろうし、弱者を篭絡してたちの悪い商売をすることもできるだろう。
こうしたことはコミュニケーションとしての占いそれ自体を超えた占いの活用法であり、単にビジネスの問題といってもいいが、こうしたことが起こりうるのは、占いがもっている質が人の心をつかみ、支配する力を持ちうるということがあるからであろう。本来はこうした現実に作用する真に迫ったものとしての占いというものが古来より占いとされていたということができる。いうなれば、呪術的なものとしての占いであり、占い結果が真であると信じられている占いである。
今日でも占いは完全に呪術的な要素を捨てきったわけではない。むしろ、呪術的雰囲気を味わい、そこに参入するために占いを用いることが大半である。違うのは、それをコミュニケーションの一環だと思ってやっているか、本当に呪術的な意味で受け入れているかということであろう。わたしは前者として占いのことを本当の意味で信じているわけではないし、大多数の人はそうして占いを楽しんでいると思う。しかし中には、妄信的にそれを信用してしまう場合もあるだろうし、本当に真に迫っていて予言が的中したような占いに出会ったときには集団的に肝を冷やすことだってある。
呪術的要素は現代におけるオアシスである。未解決事件、UMA、オーパーツ、心霊現象、都市伝説、そうしたものは今日解明され謎でなくなったものもたくさんあるが、それでもなおそうしたものには魅力がある。作り話や単なる勘違いだったとしても、その中に本物があるのではないかという期待はなくならない。それを期待するのは、現実に対する異質なもの、非日常の幻想性が妄想を巡らせる対象として心地よいくらい、現実に疲弊しているからかもしれない。
もっとも、そういうものが流行ったのは世紀末のころで、今はもっと異質になっている気もする。今ではネットミームで猫やSCPやドゥーマーやらが流行ったり、呪術的なものとしての真偽不明な週刊誌的情報に一喜一憂している。SNSでの誹謗中傷も一種の呪術的要素に踊らされているし、本当とされているものに対しても思い込みや妄想で拡大解釈していいように叩いたり燃やして消費されている。そうしたいわゆるネット上の情報はもはや直接経験したものではない情報とその情報を転がすことで、間接的な意味を無限に生成する呪物のようなものに思える。誰も当事者以外は知りえない情報をUMAのように見立てて、あることないこと考えて楽しむ。そういった事柄も、コミュニケーションとしては従来の呪術的要素が現代的に発露しているにすぎないのだろうか。
ここまで来てしまうと、それをコミュニケーションとして楽しむということももはや倫理的に問題があるように思われるし、呪術的に真実として扱うのも問題である。SNSも占いのようにある種の型として扱う必要があるかもしれない。占いの結果はどこまで行っても占いの結果でしかありえない。それがいかに真に迫っていても、占われる対象と同一化されるものではなく、あくまで類似性の関係にある。
それはSNSの情報とその情報の発信者や指示対象が同一ではないのと同様である。これは、結局は記号や言語の問題でもある。すなわち、記号とその指示対象は同一であるとは限らないという至極まっとうなことである。犬という単語から指示される犬それ自体は多様であり、自らの発した言葉と自分自身が完全に一致することはない。もちろん言葉には責任があり、発することにも注意深くなることは必要だが、記号はそれが再帰的に生成する意味があることを加味しても、指示対象と完全に同じものにはならないということを改めて意識するべきかもしれない。
そうした情報への正しい距離感を得るということが情報リテラシーといわれるものであろう。そもそも、情報というものは直接的な経験によるものであっても常にすでに距離があるものである。直接的なものは過ぎ去っていくものであり、現実は固定できない。それゆえわたしたちは記号によって世界を認識し、意味付けし、名前を付ける。記号が無距離の真実であると錯覚し、その真実性を担保にして何かの行動に移すのは危険である。
もちろん、あらゆるものを記号でしかないとして実在的なものを否定するのは悪習であるが、今日、直接的な経験に依らない情報のマッサージにもまれるのが日常化しているのであるから、改めて占いを占いとして楽しめる心でいられることの重要性というものがあるのではないか、わたしは自分の未来に悪魔のカードを引き当てて狼狽しながら、そう思うのであった。




