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昼下がり  作者: 磯目かずま
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人一人分の

 年が明け、溜まっていた仕事も一段落したころ、寒さが佳境を迎え日々神経痛が痛む。正月休みは祖母の家で元旦に集まっておせちを食べたこと、湯島天神に初詣に行ってなぜか学業御守りを買ったことくらいしかしていない。それだけやっていれば十分か。もらった切り餅をかびる前に今年は消費できたし、ホームページも酒を飲まずに更新できた。

 元旦に集まっていたときに鳴り響く地震警報、アナウンサーの必死な訴え、その後の惨状。それらによって、一瞬で元旦気分が失せてしまった。祝うこともできないし、何かをつぶやくことも、日常を過ごすことも、どこかの誰かがそれを腐しては、腐す人を腐し、あらゆる釘が方々から打ち込まれて、疲弊していく。共感性疲労や集団心理、そして様々な反応。結局わたしは少し委縮して、少し悲しんで、そして何事もなかったかのように日々を過ごし、結局募金も何もしなかった。


 距離の問題。自分の国、自分の言語、自分の文化。人が知りうる範囲のもの。それにしか人は心をくだけない。つねにどこかで争いや災害が起きている、ということをいつも薄ぼんやりと抱いて、抱かせられて、そうしていることがうっすらとした正しさとして浸透していて、それでも人はすぐにそれを忘れることもできる。当事者性を云々してまた人はそれをビジネスにする。あるいは避けがたいアイデンティティとして「探究学修」の種にしてありがたがる。埋没することに余念がないことも努力の一つであるとして、厭世家は努力家に打ちのめされ、人を理解することが足りないと非難される。努力家は自分と自分の手の届くことに邁進する。自分の手の届かないものを届いているとみなせるようにしようとする。しかし、結局、人の手に収まるのは限られた量に過ぎない。

 量の問題。距離と量はトレードオフである。あまりに多くを持つと、遠くまでは行けない。遠くのものを多く持ち帰ることはできない。近くのものは大きく見え、遠くのものは小さく見える。手に入らないものを求める心が旅を求める。遠くのものはだから、少しで価値があればあるほど良い。お土産にしたときに、一つ一つが価値が高ければ嬉しいから。少しであっても、こちらに持ってくれば価値が上がるのであれば嬉しいから。

 貿易の問題。自分はここにいる、そしてここでは何があり、何がない。ないものとあるものを交換しよう。場所の問題。場所の場所性は環境であり、それが育む意味や価値である。そして、そこにいる人は、その構造に組み込まれたり、離れることもできる。ただし簡単には離れられないことがある。引力の問題。場所の持つ力はそれぞれが引力を持つ。場所の構造から逃れがたいがゆえに人は貿易をする。距離と量を自分の場所から考える。それが遠近法の問題であり、見かけ上の大きさや見える範囲の限定性および意味や価値を形作る。それゆえに、切り取られた風景は部分的なのであり、その切片であってもありがたがる気持ちは生まれうるのだ。


 人は自分自身の量、それを規定する場所、そこから見える世界において生きている。自分の持っているその量とは何か。もっと焦点を絞ってみて、自分の関心とは何か。人は何かに心を寄せている。共通して考えやすいものは共通の関心となるだろう、政治、経済、エンタメ。もっと絞られた関心とは何か。職場環境、専門分野、趣味嗜好、家庭環境、人間関係、夢や目標。こうした関心はなぜ生じているのか。

 なぜかこれらにはなぜと問うのが大変不思議なことに思えてしまう。関心を生じさせるドメスティックな事物が特定の個人にとってはほとんど不可避に与えられたものに思えてしまうからだろうか。それは与えられた引力なのだろうか。だからなぜと言われても引力あるいは表現として磁場によって、そういった関心が作られているとしか言いようがないのに、なぜ問うているのかと思うのかもしれない。

 ある特定の個人に限定すれば、客観的にも主観的にもその関心の原因を挙げていくことは可能だろう。挙げることができなくても、それが関心として立ち上がっているその状態は知られうるのであるから、そこから原因を考えていくことができる。こうして考えていくことを現象学的だとかいう言葉で簡単に切って捨ててしまうのは一番よくない行為であるし、純粋にそう思わずに自分の関心を探っている状態に文脈的な意味を過剰に与えるのは良くない。大切なのは、その関心を、関心の原因を、考えることがそのとき必要だという危機感なのであり、実際にはその危機感こそがすべての関心においても重要な存在なのだ。

 例えばある人間がテストに受からなければならないとする。このテストは社会的慣習によって、合格すれば大学に行くことができる。その人間は理系と呼ばれる分野に進もうとしていて、特に数学に関心があり、またテストでも点を取る必要がある。この場合、もちろん他教科でテストに必要なものの点数を取らなければならないのは自明だが、専門分野での理解が及んでいることは必須であるし、その能力如何が合否のみならずその後の人間としての意味や価値を決定づけることにつながりかねない。もちろんその人は数学者を目指すような人かもしれないし、数学が他よりできるだけでとりあえずその学部を受けているだけの人かもしれないが、数学に対する危機感は単なる理系学部や入試に数学が不要な学部に行く人と比べて格段に高いと言わざるを得ない。これはあらゆる分野でそうである。スポーツ、芸術、政治、あらゆる分野においてそれができなければいけないという重大な関心ごとというものがあり、それに対する危機感によって志向性は定まっている。

 その危機感は人一人分の量を超えることはできない。ある人間があらゆる事物に危機感を覚えることはできない。一人の人間がプロ野球選手をやりながら数学者をやり、歌手もやってイラストレーターをやって、投資家として資産を形成して、農業をやり、スケボーでオリンピックに出たりすることは、二刀流の難しさを鑑みて今後人類が進化しない限り実現できないだろう。刀の分だけ危機感が存在し、それに応じて関心すべき方向性が違う。もちろん、すべて人間の文化的産物なのだから、同じ人間である以上やってできないことはないと言えるのかもしれない。広く浅くという方針で行けば、上記の羅列も一通り触って水準以上の存在になることも場合によっては可能かもしれない。だが、そのどれもが一流といえるものになりうるのかということに関してはやはり不可能であろう。

 文武両道という言葉があるが、これは結局のところバランスの問題であり、二兎を追うものが一兎をも得られない結果になるのが一般的な結末であり本質である。文武両道という言葉が示しているのは、単純に人間の一人分の量の範疇でその専門性を損なわない範囲で人間として必要な能力を極端に偏らせないようにすることでリスクを管理しようということに過ぎない。危機感の適切な配分ということである。プロ野球選手は野球以外でも金銭の扱いや言動にも気を付ける必要があるし、数学者も健康のために体を鍛えるのはいいことだ。その程度のことなのだ。何もかもできなければいけないというような触れ込みで文武両道を唱えるのは人間の危機感の閾値を見誤った言説に過ぎない。皆がそのように文武両道をできるのであれば専門家の必要性はもっと下がるはずであるし、分業もいらない。資源が有限であるから距離や量の概念が生じるし、経済が生まれうる。


 だから、それゆえに、特に自らの関心について考えることは意味があるのである。今自分が何に危機感を得、関心をしているのか。これが自らという人間の意味や価値であり、存在そのものであるとすら言うことができる。自分が今日一日関心を寄せたものを書き出すというのは日記をつけようとしたときによくやることかもしれない。それをすべて書き出したときに何が出てきたのだろうか。食事、睡眠、気になるニュース、職場の出来事、仕事の内容、鬱、恋愛、イライラしたこと、天気、お金。それが、自分なのである。それが、自分でしかない。

 そのことに対して、新たに変化がもたらされるとすれば、それは新たな危機に直面する・しているということを意味している。自分という存在を規定している危機の総量は常に一定である。それは、生命の危機に瀕しているときでも、何気ない日常を過ごしているときでも変わらない。危機には潜在的なものと顕在的なものがある。

 ここで挙げた生命の危機というものは根源的な危機の一つであるということができる。それは災害や紛争にあったときは最大限に顕在化してくるが、何気ない日常を過ごしているときでも、その日常を遂行できなくなったときにすぐさま顕在化してくるがゆえに常に潜在的に存在している。それゆえ、日常ですら生命の危機によって成り立っているということもできる。生命の危機は根源的な危機であり生命である以上避けがたいのであるが、そうした根源的危機よって生じる危機の質には違いがある。その質の違いが個々人の危機の違いを演出している。事務職が数字を間違えてはならないのと、数学者が数字を間違えてはならないのは、根源的な危機として同根であっても質が違う。仮に事務職が数学者になろうとしたときに直面する危機というのは、その質の違いからなる潜在していた危機に直面するということなのだ。

 つまり、われわれはそれぞれの場所で顕在化した危機に直面し、関心を形成しているが、つねにすでに潜在化した危機にもさらされている。個々人において顕在化しうる危機にはある閾値があり、あらゆる危機が同時に顕在化することはない。現在自分が直面している危機を明らかにするためには、自分の関心を明らかにすることが有効であり、そのことによって具体的な環境や問題点を見直すことにつながる。現状を変えるということは新たに危機を顕在化させるということである。これは新しく危機が付け加えられたのではなく、今まで潜在化していた危機が新たに焦点化され、それまでの危機と取って代わったということである。危機の顕在化―潜在化のサイクルは自らの意思で引き起こすこともできるが、不可避に巻き込まれる/ていることもある。ある危機に直面した人間の関心によってそれに応じた意味や価値が生成され、これは経済的観点において交換可能な価値となりうるものである。


 ここでなぜ危機に直面した人間が作り出したものが価値を帯びるのかということを考えると、それは危機に対する解としての価値であるということができる。言い換えると、危機に対する存在の価値である。あらゆる顕在化した危機は潜在的に存在するのだとすれば、顕在化した危機への応答はそれ自体で普遍的に危機への応答として意味がある。その結果がよくも悪くもである。誰かが作り出したものということの意味はほとんどここに集約されている。誰かの痕跡はそれ自体がその誰かの存在であり、存在の解であり、危機と関心の証明であり、他者はそれを遠近法や貿易においてであるが省みることができる。学びというのはただそれだけのことであり、その学び自体が危機を帯びていることによって、関心がまた生成されていく。

 人一人分の量は人一人分の危機や関心であり、そして人一人分の存在である。重要なのは、それが自らにおいてどのようになっているのか、どうするべきなのか、どうしたいのかを可能な限り明らかにして、日々を過ごしていくことである。そのことが、人一人分を超えた価値となり、その価値が高まるかどうかはすべてその人の存在それ自体が決めている。

 なぜこんなことを考えているのだろうか。学業御守りが早くもご利益をくれているのかもしれない。たぶんそういう危機を感じていて、それを持っている時点でそのことに気づかせてくれているのだから。

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