情報陳腐化現象
火事場の馬鹿力というものがある。死に物狂いになればリミッターを解除したかのように人間の出力が上がるという現象のことだ。これによって普段ではありえない力を発揮し車を持ち上げたり、崖を跳躍したりして難を逃れることができる。場合によっては思考力や判断力にもこれが適用されるのかもしれない。
この現象をもし自発的に活用できるのならば非常に有益なものになる。ゲームでもHPが減るほど能力が高まるようなアベンジャースキルとして実装されていることが多い。この場合、意図的にHPを減らした状態で運用し火力を上げることが出来たりする。
つまり、自らのHPを減らしたり、何らかの方法で追い詰めることによってパフォーマンスが上がるということが(これがいかにもありがちな少年マンガ的手法だという陳腐さを抜きにして考えて)成り立つのであれば、自分をあえて瀕死にすることで物事を達成するのは有意義な手法であると言える…
ここで唐突に火事場の馬鹿力について考えようとしてみたのは、馬鹿力それ自体への関心もさることながら、ある現象についての克服のためでもある。
あること(ここでは例として火事場の馬鹿力)について考えることが陳腐であると思え、よくあるまとめサイトやうさんくさいブログのような内容であると感じられることによって考えるのをやめてしまうという現象がある。この現象は自分の思考において非常に深刻であり、あらゆるちょっとした情報に対して即座に陳腐のラベルを貼ってしまうことで、自らの中身が全く「良く」ならないということが観測されている。
共通のミームを認識するや否やそれに紐づけられた無数の存在と一絡げにしてその意味を陳腐にしてしまう現象は、名称があるのかどうかわからないが現代の共通認識の形成過程においてかなり浸透している問題ではないかと思う。現にわたしにおいてはこの現象によってかなりの苦痛を感じる。ここでわたしはその現象を「情報陳腐化現象」と呼ぶことにする。
特に、専門的な知識とは言えない教養的な内容や、啓蒙的な内容、ライフハック、トリビア、陰謀論、掲示板のスレ、ネットニュース、SNSのトレンド、解説系YouTubeなどでその現象が発生する。すなわち、日常的に吸収される情報の9割方において苦痛を感じると言っても過言ではない。そもそも、一般的な現代人の脳内は上記の情報源からなる情報でほぼほぼ構成されているといってよい。どうしようもないネット記事の内容が驚くほど共通認識化しているという経験はよくあることだと思うし、それが再生産されて二番煎じ三番煎じとなって伝播していくのもいつもの光景である。
この現象は今に始まったことではなく古来より人類はそんなものだったのだろうと思う。それが加速しているだけだ。人間はそういう情報を欲するものだし、それゆえそういう情報が氾濫していく。しかしながら、そういう情報は何らかの毒を有している。その毒が快楽物質でもあるがゆえに人に依存性を与え、同時に害として苦痛を生じさせる。また、必ずしもそのような情報を欲していなくとも人は情報を欲する。無音で過ごすのが苦痛であるかのように音楽やラジオ、動画を流し、隙あらばネットをやりSNSをやり、何かの情報を得ようとしてしまうものである。その際に、氾濫した情報の毒にあてられてしまう。意図せずに混入したり与えられるそれらの情報の毒を摂取してしまうと、不快な声に脳を侵され、敵意や誹謗中傷の余波を感じ、人間の愚かさを実感し、何もしていないのに性悪説を感じ自らも同類であることによって精神を摩耗し、陳腐なファストな情報の快楽によって自分の言葉が溶け切ってなくなってしまい、社会と一体化したメジャーな毒物の中に融解してしまうことで自らがどんどん希薄になってしまう。
こうした苦痛に晒されることが続くと、情報に対するアレルギー反応が生じるようになってしまう。具体的に言うと、SNSを見るのも怖くなり、見ると憂鬱な気持ちや動機息切れが出るようになったり、掲示板の内容が自分へのちくちく言葉に感じられてきたり、ネットニュースのコメント欄を見るだけで吐き気がしてきたり、気晴らしに流す動画が全部うざくてうざくて仕方がなくなってしまい、何からも救いを得られず、あらゆる方面から攻撃されているように思え、エンタメを憎み、本も読めなくなり、人の言葉に耳を傾けることができなくなり、コミュニケーションに弊害を生じ、総合的に必要な情報すらも取り入れられなくなることで精神がますます疲弊し、最終的には心神喪失になって通院するようになってしまう。
このようなアレルギー反応への防御策として、そもそもの毒となる情報を忌避する反応が生じる。これが情報陳腐化現象である。この現象は、おそらく防衛機制であり、最悪の状態にならないように人の悪意や愚かさから自分を守るためのものである。これによって、人は情報を陳腐であるとみなし、これは要らないものだと判断し、意識から追放することでダメージを軽減する。問題なのは、この反応が無意識化に刷り込まれることで、入ってくる情報の多くにこれが適用されてしまい、逆に世界が陳腐まみれになってしまうということである。
こうなると、防衛機制としての働きが過剰になり、陳腐化現象自体がアレルギー反応の一形態となってしまうことで、結局よくないものになってしまう。情報が取り入れられること自体へのアレルギー反応から、情報を取りいれないように工夫してラベルを貼ることへのアレルギー反応、それによって得られる二次情報へのアレルギー反応というように、対策が意味をなしていない反応の連鎖によって、結局情報毒を解毒できずにそれを増幅してしまっているのである。
以上の考察からわかるのは、情報陳腐化現象は毒をもった情報の氾濫に伴う情報アレルギーに対する防衛反応によって引き起こされる、情報量・質のコントロールを伴う負の条件付け反応であり、このことで情報アレルギーを緩和するが、逆に情報陳腐化現象自体がアレルゲンとなる可能性がある現象であるということである。
この情報陳腐化現象のアレルゲン化は、情報アレルギーの場合と同様にして必要な情報が獲得不全に陥るという問題を発生させる。それが当人にとって本当に有益な情報であっても陳腐化されてしまう可能性があるし、陳腐化することで間引いている情報群に紛れることで必要な情報が見えにくくなるということもあり得る。
これを回避する方法はあるのだろうか。まず考えつくのは、陳腐化現象の起因となる情報アレルギーを別の方法で解決するアプローチを探ることである。
情報アレルギーは毒となる情報、アレルゲンとなりうる情報によって引き起こされる。現状では、食物アレルギーのようにこれを科学的に特定することはできないが、各人がどのような情報で症状を引き起こすのかを把握することができれば、アレルゲンを特定し、確度を高めてそれをフィルタリングすることができるはずである。
不特定多数の誹謗中傷や過度な批判が苦手であればそれを避けるようにすればいい、不確定なデマゴーグや民衆を扇動するような言説が苦手であればそれを避ければいい。しかしながら、そういった情報の特徴として、避けようとしても避けがたいという重要な特徴がある。まず、何らかの出来事に対して、それを擁護する者も批判する者も発生するのが自然であり、これはあらゆる場面で起こりうる。この声を完全にシャットダウンすることはできないし、しようとすればまた新たな情報の遮断による防衛反応につながる恐れがある。また、デマや風説というものは、意識せずとも「流れてくる」ものであり、そこに対して常にすでに何らかの反応を取ることが求められているような性質をもつ。真偽を判断し、場合によっては何らかの行動を迫られる。距離を取るにしても、そこにすでにあるものである以上、何らかのアクションは避けられない。
よって、毒のある情報は完全にフィルタリングができない以上、それらをいかに扱うか、それらといかに向き合うかという部分での対処が必要となる。毒のある情報の向き合い方として一般的なものは、事実を正しく認識して、それをもとに適切な判断を下し情報を評価し、自らの行動を決定するということになる。毒のある情報というのは概して一次情報や事実の記述であるというよりは、二次情報であり、価値判断や解釈、改竄、推敲、編集が加えられたものである場合が多い。いうなれば事実に対する無数の声であり、人の反応や気持ち、心理状態の集団的鏡のようなものである。これが無数に溢れている状況というのが情報化社会の特徴であることは明らかであり、われわれは直接的に経験できないことを知りたいがためにニュースや掲示板でそういった事実の残滓をかき集めて悦んでいるといえる。
これは知ることに対する本質的な問題を含んでいると言えるかもしれないが、人一人の直接的経験を超えたものを知るためにはそうした間接的情報を摂取する必要がどうしても出てくる。これは自分の目で見て考えたことを超えた情報に接するときはいつでも問題になることであり、現代に限った話ではないにしても、改めて意識することは有益なことである。間接的な情報から事実を知ることは実のところ不可能だ。他者からの情報で知りうるのは「確からしさ」であり、情報をつなぎ合わせて想像上で作り上げる各人のイメージでしかない。そのことをふまえた上で、事実を判定し、そこに対しての確からしい考えを構築するのが一般的な情報の適切な取り扱い方法である。
では、なぜここに毒が生じるのか、情報中毒を発症することがあるのか。それは、間接的情報は有毒なのだということで説明できるだろう。言い換えれば、他人の言葉には毒があるのだ。ここで問題なのは、言葉というものは真に自分の言葉と言い切れるものは本当にあるかどうかわからないのであって、自分の言葉でさえも他人の言葉によって構成されているし、それを覚えて使っているのであって、自分の言葉が自分を責める毒となることも普通に起こることであるということである。ここまで考えると、言葉には毒があるということができ、情報化された現実にはほとんど避けがたく毒が含まれているということもできる。いうなれば、生のままの現実を超えた人間との関係性において把握可能なものすべてが毒物なのだ。
しかしながら、すべての情報が毒であると言ってしまうと、問題が発散してしまい有意義な考察にならない。ここで毒として名指すべき情報というのは、やはり人の愚かさに関するものであると言える。
他者を騙すこと、貶すこと、陥れること、嵌めること、嘲笑うこと、そういった意図で発せられた情報、あるいは意図せずともそういう内容になっている情報というものに抵抗するためにはどうすればいいのか。先に述べたような常識的対応では対応しきれないような悪意に直面した場合どうすればいいのか。もし、誹謗中傷の渦中にいる等であれば法的措置も視野に入れるべきかもしれないが、外野で野次に飲まれてしまうような位置にいる場合はどうすればいいのか。
わたしはこの対応方法に対する最適解を提示することはできないが、いくつかの対処療法を考案することはできる。
第一に、人は愚かなものだということを受け入れ、それに負けないように健康でいることである。歴史的に人間はむごたらしい惨事を幾度となく繰り返してきた。文明化されてきたと言っても、人間の本質は紀元後二千年経ったくらいでは変わらないということである。さらにいうと、現代のテクノロジー自体が人間の欲望を体現したものである以上、人間の愚かさの増幅装置としてそれがはたらくのは当然のことである。そのため、毒をもった情報に晒されても、そこで毒に負けない免疫を維持するということが重要になってくる。かぜをひくのも免疫力の低下が原因である。情報毒に対しても免疫力を高めることで、それに抵抗することが可能だ。すなわち、人間の愚かさ、情報毒というものはかぜのウイルスのように常在しているので、それに負けないように健康でいようということである。
第二に、毒となるような情報に触れる機会を減らすということである。これは、意識的に実行可能な具体的方法として、そういった情報が集まるプラットフォームの使用を控えるということである。いかに情報毒が自然と蔓延しているといっても、そういった情報源へのアクセスを無くせばそれ等に曝露される時間は減らすことができる。デジタルデトックスではないが、携帯端末の物理的使用禁止も効果があるだろう。しかしながら、これによって必要な情報が獲得できないということではかえって問題となるのであるから、その均衡を保つということがこの場合に争点となるであろう。全く情報を遮断してもなんら問題なく幸福であるのであればそれでいいし、そうでないのなら危険な情報内に分け入ることができるだけの健康さを保つ必要がある。
第三に、これは健康さの一環でもあるかもしれないが、自分の言葉を獲得することである。他者の毒に浸透されないためには、それに対抗する自らの毒を醸造するのも有効であるといえるだろう。天敵に食われないために毒をあえて摂取して体内に蓄積する動物がいるように、毒を食らって血肉にすることによって防衛手段とするのである。この場合に気をつけなければならないのは、毒を食らった場合の抗体を生成する必要があるのであり、許容量を超えて毒を摂取したり、自らの毒で中毒症状を起こさないような調整は必須だということである。これは愚かさの消化ということ以上に、自分の言葉という存在の確立によって、それがそのまま健康さという強度に直結するという意味が大きいため、非常に重要なプロセスであるといえる。
以上に示したように、端的に言えば情報に対して抵抗力をつけ、闘争したり、逃走したりすることでうまく立ち回る必要があるということであり、言ってみれば当たり前のことだ。
しかしながら、これがうまくできず、いつの間にか心身がその場で適応して、あるいは委縮して様々な反応が引き起り、陳腐化現象もその反応のひとつであるといえる。
基本的には、アレルゲンとなる情報に上記のように対処できれば問題は軽微に収まるはずであるが、現に陳腐化現象が起きてしまっている以上、陳腐化現象自体の対策も考える必要がある。
この対処方法も最適解とは言えないがいくつかのものが思いつく。
第一に、情報に対する判断を停止し、情報それ自体をよく吟味すること。陳腐化現象はある情報を即座に価値判断し陳腐であるとして断ずる。これを停止して、その情報について改めて考慮するということである。情報が毒性をます条件に、その価値を判断することがあげられる。その情報は意味がない、価値がある、重要だ、醜悪だ、美しい。そういう判断は二次的情報として情報それ自体を覆い隠し、毒の源泉となる。陳腐さもそう言った二次情報の一つだ。どれだけ陳腐に見える情報だったとしても、そこには陳腐でない意味や、情報それ自体の意味というものがある。それを陳腐というフィルタを外して改めて、これは再判断とも言っていいが判断することで、新しい意味や価値を見出す。結局価値判断はするのではないかということが言えるのだが、ここで重要なのは陳腐さに囚われないということである。陳腐さは情報に対する積極的関与を阻害する。ここから一歩先んじて、再解釈をすることでその都度発見的意味を生成できれば、陳腐の壁に阻まれるという息苦しさからは少しだけ解放されることが可能だ。
第二に、情報に対して探究することである。陳腐の壁は自らの関与を阻害し、情報へのアクセスを停止させる。それを超えて自らの理解と知につなげるためには、情報が陳腐ではなくなるまで徹底的に自らの探究を加え、そこに意味を作り出すことが有効である。例えば、火事場の馬鹿力という概念が陳腐だと思われたとしよう。しかしそれが何等かの重要性があると思うのならば、自らの言葉で納得するまでそれを考えればよい。その過程で飽きてしまったり関心が移ることで(現にこの文章もそうなっているが)道がそれてしまってもそれはそれで問題ない。重要なのは陳腐に対抗する探究心を働かせるということだ。そして、その探究は、その営み自体がいかに陳腐だったとしても決して陳腐に飲まれることはないといえる。それは自らの尊厳の問題だからだ。これは心の持ちようかもしれないが、そこは非情に重要なポイントだ。陳腐に飲まれないというのは簡単なことではなく、陳腐の引力は計り知れない。だからこそ、それを超えるための探究は陳腐ではないのである。
第三に、これは第二の内容とも重なるが、自信をもつということだ。それがいかに陳腐な警句であったとしても。今この瞬間自信を持つという言葉を発して、見て、いかにも陳腐だという気持ちが湧いたというのも事実であるかもしれない。しかしながら、自信を持つという言葉の字面の陳腐さにそそのかされてはいけない。それでは真に自信を持つことなど未来永劫できないに違いない。重要なのは、自信をもつことなのだ。自信を持て。自分は陳腐ではない。ただこれだけのことがいかに難しいか、この段落を読み進めてきた者ならば誰もが感じるだろう。そうだ、自分は脅かされているのだ、常にすでに。だからこそ自信を持つことが重要だ。そうでなければ、抵抗力も尊厳も、対抗手段も講じることはできないのだから。そして油断すれば陳腐に飲まれてしまう。だから、最後に改めて言おう、自信を持て、それは陳腐ではない。
以上がわたしの情報陳腐化現象についてとその対処法の考察である。もちろんこれは決定的なものではないし、今後逐次更新し、自らの実践として改善していくべき問題だ。なぜなら、歩みを止めてしまえば、それはすぐに陳腐になってしまうのだから。




