井の中の蛙
わたしはよく井の中の蛙と言われる。
それも、一度や二度ではない。数えきれないくらいだ。
どうもわたしは、はたから見て蛙だと言いたくなるような存在らしい。
自分ではそんなつもりがないのだが、気を利かせて何か言ったりしても、調子こいてるだとか余計な一言が多いとか、挙句の果てにはバカにしてるのかとかお前ふざけるなとなる。
そして、いつもわたしをやっつけるための決め台詞が「お前は井の中の蛙だ」なのである。
わたしは悲しいし悔しいのだが、井の中の蛙なんていう言葉を使う人は「同じ穴の貉」もとい「同じ井戸の蛙」ではないかといつも思っている。
そもそも、こんな蛙と同じ空気を吸っている時点であなたもまた場所としては井の中にいないでしょうか。そして、わたしを非難するだけの非蛙性をあなたは持ち合わせているのでしょうか。例えば、あなたは羽が生えていて井戸から自由に飛び去ることができるとか、足にかぎづめがついていて井戸をよじ登って外に出られるとかということである(もっとも、蛙だって足に吸盤ついてるようなのは外に出られるのだろうから井の中にいるのはそれもないような種類の蛙ということなのだ)。
仮にそういう能力を持っている人がわたしに蛙であることを指摘したとしたら、まあそうだよねとなるが、そんなことをわざわざ井戸の底まで言いに来るようなのはやっぱり嫌な奴だし、そういう奴に限って、井戸の外の世界がもう一段階大きな井戸の底であることなんて気づきもしないのだ。
わたしにとっては、人は皆何らかの井戸の底にいる蛙にすぎない。
わたしはもちろん、嫌というほどに自分の蛙性を認識している。それだから、改めてそれを指摘されても、そんな当たり前のことをなぜわざわざ面と向かって(面と向かわないことも度々だが)言われる必要があるのだろうとしか思わない。
考えてみてほしい。あなたは何か超えられない壁のようなものを認識してはいないだろうか。
どうしても超えられず、一生付きまとい、幾度も挑戦したり努力したりしたとしても決して破壊することも潜り抜けることもできないような絶対的な壁が、あなたにはないだろうか。
もしこれがないという人がいるとしたら、その人は自信をもって蛙でないことを主張しよう。でも、もはやそんな人は神か何かではないだろうか。人は皆超えられない壁の中で生きるしかないのではないか。それゆえその構造は、井の中の蛙と同じであるとわたしには思えるのである。
わたしたちは超えられない壁という井戸の中で、それを登ろうと試みたり、空を見上げて井戸の口から見える世界を眺めたり、ときどき舞い落ちてくる木の葉や訪れる鳥や蝶を愛でながら、外の世界を夢想し、今いる世界で生きている。ゴミを投げ込まれることもあれば、水があふれかえることもあり、それでもその場所から離れられずに、生きている。
たぶん、わたしを蛙と呼ぶ人にこんなことを話しても、そんなことを言っているんじゃない、おちょくるのも大概にしろと怒られるだろう。
場合によっては、そんなことはわかっている、言いたいことはもっとシンプルなことだ、お前が「知識が狭く偏見にとらわれていて、広い視野に立って物事を判断することができない」ということだ、そしてそのことを軽蔑しているのだ、と言われるかもしれない。
これはもっともなことだ。わたしが言っているのは言い訳か屁理屈にすぎない。おそらく、嫌味に対して上記のようなことを返してくるようなわたしの人格自体を多くの人は唾棄すべきものととらえるのである。
そして、ストレートな意味での井の中の蛙という意味でわたしは確かに軽蔑されるべき存在なのだ。なぜならば、一般的な人が「世間」と呼ぶものを「井戸」に変換してしまうことで、知識を不当に矮小化し、広い視野というものを喪失させ、希望も救いもない「世間知らず」の厭世家になって皮肉ばかり言っているどうしようもない人間だからだ。
ここで、正しい意味での世間というもの、あるいは大海というものを設定できる場合、それは常に自分よりも広大で偉大で普遍的な存在が確かに存在し、それと比較することで自らの不足を感得し、さらに向上心を持って偉大な存在に近づこうと試みるという崇高な理念を想定することになる。
そして、努力によって蛙は井の中から脱し、いつかは大海を知ることもできるのだ。そうすることがよいことなのだという啓蒙を、わたしに伝えるために警句として言っているという方もきっとおられるのであろう。この場合、井戸は超えられない壁ではなく超えるべき壁であり、不可能性の比喩ではない。
要するに、井戸の中で安住せず、井戸を絶望の牢獄にも厭世的な庭にもせずに、そこから海に向かうという希望の場所にせよというありがたいお言葉をわたしは常々頂戴していたということなのである。
しかし、希望の場所としての大海という考え方には疑問を呈さざるを得ない。
わたしは基本的には井戸から蛙は出られないと考えているので、いつかは井戸を出られるという期待をすることはできない。
それゆえ、大海はたどり着いたりそれを直接知ることができるものではなく、間接的に想像したり知ることができるにすぎないものとなる。
また、大海とはあらゆる井戸の外側に存在するものであるとここで設定されるようなものであるため、すべての蛙は大海にアクセスする術をもたない。それではなぜ間接的にであるが大海を考えることができるのかというと、井戸の中に海に通じる水源があったり、潮風が井戸に吹き込んできたり、井戸の位置によっては微かに大海が見えたりすることがあるからである。
そしてその情報が井戸間で何らかの方法で共有されている。それは同じ井戸にいる蛙間での伝達ということでもあるだろうし、近接する井戸間では何らかの接続がなされていることがあるからである。
ここで同じ井戸ということが考えられたが、本質的には一蛙につき一井戸が対応しており、それぞれの蛙は個別に井戸の中にいる。そして、その井戸を包括する井戸があり、それを包括するより大きな井戸がフラクタルに存在しているのだ。
すなわち、大海というのはそれらすべてを包括する井戸?として考えられているものということもできる。
しかしながら、この場合、すべてが井戸にあるのであれば大海よりも大きな井戸、例えば宇宙のようなものも考えられることになる。そしてそれは無限に後退していくのであり、あらゆるものを包括する井戸―世界もまた考えられる必要がある。ここにおいて井戸―世界はもはや井戸としての蛙の限界を示す意味で用いられるのではなく、蛙がいなくても存在する全体性としてそこに存在している。
しかし、このような包括するものとしての世界については、蛙が井戸の中にいる、そこから決して出られないということから否定される。
すなわち、蛙は自らの井戸から認識できる範囲のことしか実のところ認識できない。蛙が認識できない世界なるものは存在せず、ただフラクタル状の井戸だけが確かなものとして存在する。
仮に大海や宇宙、世界なるものが井戸において知られうるのだとしたら、それはそこに蛙が移動できるからではなく、蛙をとりまくフラクタル井戸の一部として考えうる大海や世界が確かにあるというだけのことである。
そうであるならば、「大海を知らず」という言葉は、「大海をすべて知りえないにせよ、井戸から考えられる範囲でも大海を知りうるはずである。そうであるのになぜ大海を知らないのか」という意味で人に言われるものだということができる。逆に考えると、「井戸にいるのに大海を知ったふうに口をきくな」という戒めもそこには込められているのだ。
整理すると、①蛙はそれぞれの井戸から出ることができない、②井戸はより大きな井戸の中にフラクタルに存在している、③大海とはある井戸より大きな井戸に存在する情報である、④すべてを包括するような井戸は存在しないが、そうした存在を知りうる範囲で仮定することや考察することはできる、⑤井の中においてもそうした思考ができるのにしないような蛙は「大海を知らず」と言われ、あるいは大海を知りえないのに知ったかぶりをする蛙も「大海を知らず」と言われる。
以上が「井の中の蛙」という蔑称に込められた意味であろう。
ここで大海と呼ばれるものが何であるのかはどこまで行っても知りえないし、断片的な理解にとどまる。確かに、それを知ろうとすることは大変素晴らしいことかもしれない。だが、それがどの蛙にとっても同じものであることもないし、理想でもないし、大海が井戸の外のすべてでもない。
そのため、大海を知らない蛙を軽率に非難したり、大海を知ろうとしないからといって蛙を軽蔑したりするのも、それは同じ井戸の蛙である発言者へのブーメランにしかなっていないのである。
以上をもって、わたしは井の中の蛙と言われることへの違和感を表明する。
もちろんそれは、わたしが蛙であることを否定するのではなく、わたしやわたしたちがまぎれもなく蛙であることによってなのだ。
そして願わくばわたしは、井戸の中にしかいられないのに、まるで井戸から自由であるかのように語ることはしないで生きていきたいと、そう思っている。




