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昼下がり  作者: 磯目かずま
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夢のない人

 いくら何かを書いたとしても、それが何の意味も価値もないということに、どこか安心する。

 意味や価値について考えることは単に苦痛だ。

 それは、網の目について考えることと同義だと思われるからだ。

 その網は無限に思えるほどに広大で、その結び目はねじれながら絡み合う無数の軸索につながるニューロンのようになっている。

 そこにおいて意味や価値というものは逃れようもない性質としてすべてのものに存在している。

 だから、本当はわたしの書いたものも意味や価値がある。

 それでも、何の意味も価値もないというようにわたしが感じられるというのは、だからこそ安心を生むのである。


 実は、意味や価値がないのではなく、相対的に重要でない意味や価値があるだけだ。

 それが自分なのだということを認めたくない、認めたら今すぐにでも消えてしまいたくなるから、安心できる偽りの無に安住しているのである。


 重要でないというのは、結び目が重要な位置にないということである。

 それを切り離しても、他のものがすぐにとってかわるようなもの。

 ただ、大部分の結び目というのは見かけ上の重要さほどに重要なものではない。

 本当に重要な結び目というのは、無くなったらまるで世界の構造が変容してしまうような何かである。

 それを描写することも難しいような規則がぽっかりと失われた世界を、わたしたちは表現できない。

 考えうる世界はいつだって既存の世界の引き写しである。


 何かに対して何かを付け加えたり、少しだけ変更を加えることで生きているのだというありきたりの創作に対する言説も、それを言われることも考えることも虚しいだけである。

 誰かの本当のこと、誰かの嘘、そんなことが日々膨大に生産されているとしても、そのすべてを辿り切れない。人間は有限である。

 何かに似ている、何かと同じだ。

 それを安心することも、忌み嫌うことも、写しだと言って非難することも、すべてがただ虚しいだけだ。

 人と同じことを考えて、違うことを考えて、正しいとか間違っているだとか、すべてが虚しい。


 そうやって厭世的になること自体が陳腐だし愚かで浅はかで、ありきたりだ。

 上で述べたようなことに自分が当てはまっているのだから。

 どこでもないところに行きたくても無理なんだ。

 死んだって、消えたって、それはありきたりの出来事だし、陳腐なものだ。

 死んだって二酸化炭素やいくばくかの残滓になるのは避けられない。

 消えることなんてできないし、死ぬのはそもそも種の保存のためにそう決められていることに過ぎない。

 わたしたちが憂鬱になり、日々命を落とし、それと同じくらい生まれていることだって、生殖して子孫を残して、進化していく過程に過ぎない。

 そして、いつか滅ぶのであろうし、そこまで見届けることはできないし、何のためにわたしは今こうしているのだろう?

 そんなことを考えるのもつまらないことだ。


 職場で有名人の死についてのサイトを見ている。

 こんなサイトを見ているのも今ここで文章を書いているのも、すべて会社に筒抜けであるがもはやそんなことはどうでもいい。

 いろんな死因や痛ましい事故、悲しい出来事、それらをただ眺めていく。

 有名人と言ってもわたしが知っている人なんて一握りである。

 その道を極めた人、流行っている人、偉人、それらもただの人間の流れの中の一人の人間に過ぎない。

 わたしなんてもっと矮小なものに過ぎない。

 殺人鬼、薬物中毒者、犯罪者、そういうのもたくさんいる。

 それを眺めて喜ぶわたしは、いったい何なのか。何に慰みを得て悦楽しているのだろうか。気持ち悪い。


 Youtubeでも奇妙な話のまとめ動画などを延々と流している。

 未解決事件、オーパーツ、暗号、UMA、心霊写真、オカルト、UFO。

 そういう一昔前に流行ったアングラなものに憧憬している。

 あのころの汚い白黒の雑誌を実家のソファで読んでいる頃は、毎日の謎にワクワクして生きていた。

 通学路の山に落ちているエロ本をこっそり拾ってきたり、怪談をしたり、スカイフィッシュを探しに行ったりした。

 できたばかりのネットで長い長いダウンロード時間をかけていけない画像を収集したり、フラッシュを見たり、サイトを開くと急にグロ画像と悲鳴が流れて肝を冷やしたり、ウイルスでPCをダメにしたり、あのころはなんであんなに楽しかったのだろう。

 

 今?今はもっと楽しいことがたくさんあるはずだ。

 ビデオゲームは3Dになって親切になったし、ソシャゲもきれいになったし、アニメや漫画も前より堂々と楽しめるようになったし、お金もあるし旨いものだって食べられる。結婚もしたし、行こうと思えばどこへでも行けるはずだ。

 それでも、どこにも行けずに家にいた頃が一番希望があった。

 想像に遊んで無限にどこへでも行けたし、将来こういうところに行きたいという思いで何とかなっていた。

 それに、遠くに行かなくても近くの山や川で遊ぶだけでよかった。未知のものが世界にあふれかえっていた。

 今?今はどこへも行けるのにどこへも行かない。世界は小さくなり、行ったことのない場所も全部知っているかのように溢れかえってしまった。

 近くの山や川で遊んでいたら不審者やその道の人と思われるようになってしまったし、堂々と騒げるのはYoutuberくらいなものだ。

 休日に出かけるなんて辛いだけだ。

 かといって、本を読む気も起きないし、出来ることとはいえばPCの前に座って日がな一日Youtubeを流しているくらいだ。

 ゲームだってする元気がない。ソシャゲもだるいし、アニメも漫画もたくさんあって追う元気がない。

 

 無気力、無感動、無関心。

 このうち一つでも当てはまったらよく睡眠をとり、二つ当てはまったら好きな人と旨いご飯を食べ、三つ当てはまったら親族と医療機関を受診すべき、ということがSNSでバズっていた。

 確かにそうすれば解消されるのかもしれない。

 だが、解決策を実行することすら無気力になり、旨いものを食べても無感動で、世界のことも自分のことにも無関心になるのだから、解決策を実行するのすら厳しいのだからどうしようもない。

 そうなる前に上記の解決策を実践しようというのが趣旨なのかもしれないが、それに気づいてそんなことができるような人はもとよりそれ以上悪化しないように思われる。


 「ストレス発散」この文字列にうさん臭さというかパリピ臭というか、そんなことするのは野暮みたいな感覚をなぜか感じてしまう人もいると思うが、これを意識的に実践できる人が結局強いのである。

 自分は今ストレスを感じている、そしてそれを解消すべく行動を起こし、発散した。

 こういう自覚的な行動がとれる時点で実際にストレスは解消されているはずだし、そう思い込む込めることも才能である。

 自分を責めている何かに対して、それを「ストレス」と名付けて、名付けることで解消できる対象にするというのも優れた方法だ。

 それができない人は、自分の苦痛を、自分に起因するものと思いなし、対象化して距離を取ることができず、かといって環境のせいにもできず、ひたすらに自分を責めて沈降していってしまう。

 そうなってしまうものだから、ストレスに対する抵抗力も失われ、結局は自分で自分を殺してしまうのである。


 しないほうがいい、やめたほうがいい、したくない、そうなりたくない。

 そういう量産型似非バートルビーみたいな負の条件付けで生きているものだから、何に対してもまず負のイメージからしか考えられない。

 する、やる、したい、そうなりたい。

 そういう考えで生きてこなかった。

 夢とか希望とかを考えることが陳腐でくだらないと、夢や希望なんて幻想だと、そう思い込んできた。

 夢、夢なんて持ったことがない。夢を叶えるために生きてきた人間と自分を比べたら、結局前者のほうが有意義に生きてきたに違いない。そうに違いない。羨望、嫉妬、憎悪。夢、夢、夢。

 挫折することが怖いのか。

 夢を掲げれば挫折する。そういうものとしてしか夢を見れなかった。

 「将来の夢」、お金持ちになりたい、スポーツ選手になりたい、ケーキ屋さんになりたい、芸能人になりたい。

 それはもう叶わないだろうし叶える気もないだろうし、書くことが思いつかないから書いていることだろう。

 でも、「将来の夢」に会社員、公務員、フリーランス、エンジニア、デザイナーとか書いているらしい今の子どもたちみたいに計画的になることもわたしには出来なかった。

 夢と目標の違いもわからなかった。

 そうこうしているうちに、いい高校に入るべきである、いい大学に入るべきである、いい会社に入るべきである、という「べき」に流されて、落ちこぼれたくない、失敗したくないということで今になってしまった。

 それがわたしだ、それが、すべてだ。


 結局わたしは、落ちこぼれて、失敗し、人生を手遅れにした出来損ないになった。

 そうならないように生きてきたことが、結果としてそういう結果を引き寄せた。

 そうならないように、という考え方は、ならないようにする対象のことばかり考えることになるのだから、自然とその対象に引き寄せられてしまうのであろう。

 こうなりたいと考えることのほうがよほど結果としてよくないものを引き寄せないのだと思う。

 また、こうなるというのは具体的なことであるが、こうなりたくないということはより漠然としていて、そうならずに済んだのか失敗してそうなってしまったのかの判別が難しい。

 あらゆるところに負のイメージが浸透して、それが何にでも当てはまってしまうがゆえに逃れがたいのである。

 その点、成功と挫折がはっきりとしている夢はまだ優しいのかもしれない。


 わたしは何の話をしていたのだろう?

 無意味や無価値のことだったかもしれないのだが、結果として夢について書いてしまった。

 もう今日の仕事もお終いなので、打刻をして帰らねばならないため、本日の文章もお終い。

 お先に失礼いたします。

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