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昼下がり  作者: 磯目かずま
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虚の引力

 こうして椅子に座ってPCを眺める生活に何も楽しさを見出せないわたしは、考えられることといえば過去のことか内面のことか、そうでなければ極些細な身の回りの出来事しかない。

 本当に何もないので、メールの更新ボタンを押したり、ネットでニュースを見たり、気になる単語をwikiで調べたり、GoogleMapで各地を見て回ったりするくらいしかやることがない。

 これはいいことだ。なぜなら仕事がないのだから。仕事がなくとも給料は出る。

 辛いことが自分を支配していないというのはいいことだ。それがあると、自分がすべてそれを解決するためだけに消費されてしまう。

 何もすることがないときだけ、こうしてしみじみと虚無に浸ることができる。

 

 虚無の中にはいろいろなものが溶け込んでいる。

 ぼんやりと虚無を眺めていると、見ないようにしていたものが浮かんでくる。

 自分の課題、やりたくてもやらないでいたもの、面倒くさいもの、自分の身体、自分の気持ち。

 そういった物事に意識を張りつかせることができたときに、虚無は対象になり何かになる。

 それが前景に出てこないとき、その背景を眺めているとき、意識は虚無を見ているように思われる。


 ちょっと油断すると脳がねばねばとした重みのようなものに囚われて、下腹部に油が溜まったようになり、眠気に襲われる。

 これは虚無に向き合うことの非生産性を全身が感じ取ることによって、それならばと休息をとるように促しているからである。

 しかしながら、ここは曲がりなりにも職場であり、四肢を投げ出して睡眠を取ることもできない。うとうととすることも憚られる。

 本来ならばここで少しでも睡眠を取ることで脳を休められれば、以降の生産的な生活につなげられるのかもしれない。

 しかし、単に打刻をし、職場に体を置いておくためだけに出勤している身からすると、寝ることもままならず、ぼんやりとした気持ちで意識を保っておくことが仕事の一環であり、それをうまく遂行するには今のように文章を書くか、ネットサーフィンをするかくらいしかないのだ。


 在宅勤務も近頃は頻繁にはできなくなってしまった。

 在宅でよければひとしきり寝て、もっとだらだらしながら自分の仕事もしつつ過ごせるのだが、職場の異質な環境は、暇を持て余しコーヒーを飲むくらいしか許されていない。

 こんなに暇では本当にコストカットされたほうがいいかもしれない。

 今日職場でしたことを数えあげてみる。

 打刻をしてメールチェックをして、出さないといけない請求書を一つだけ経理に回して、荷受室で荷物を受け取り、来客を一組対応し、同僚とアユの釣りが解禁になったという話で盛り上がり、ネットで淡水魚を検索して懐かしさを覚え、モカのコーヒーを一杯飲み、モカってどのあたりだっけと地図を見て紅海かほとんどアフリカだなと思い、昼になったので弁当を買いに行き白身魚のフライ弁当を買って食べ、今日の魚はメルルーサじゃあないですねナイルパーチでしたと同僚に話し、もう一杯コーヒーを飲み、メールチェックをして何にも来ていないのを確認し、ニュースを見てウクライナ侵攻のページを見て憂鬱になり、その流れで各種物品の値上げがされるということで同僚と生きていけないですよと言って世を嘆き、話題もなくなっていよいよ暇になってこの文章を書いている、そんな昼下がり。


 一人でいるときはスマホをいじったりソシャゲをしたりするのも暇つぶしになるが、同僚がいるときはそれも憚られるのでPCと無為ににらめっこをすることになり、虚無の息苦しさに抵抗するにはキーボードを小刻みに叩いているのが最善であると思っている。

 何らかの内職・副業でもやっていればいいのではとも思うが、会社のPCでできるようなことはないし、文章もお金にはならないし、絵だって描いてはいられないのだからまあやることは特にないのである。

 何か資格を取ったり勉強するというのは有意義かもしれない。

 参考書を広げてみたり、ネットで学べることをコツコツ学んでみたり、家に帰ってから自分の仕事で雑務をしなくていいようにそれらを済ませておいたり、資材等を発注しておいたり、SNSをひとしきり見てマーケティングを考えたり、まあいろいろできることもあるだろう。

 そういうできることが何となくぼんやりとあるにも関わらず、わたしは暇を持て余し、早く定時にならないかなということだけ考えて時を過ごす。

 職場の整理も面倒だし、溜まっていた仕事は同僚に任せたし、自分のやることは済んでいるし、今日は大便も二回しに行ったし、暑くもなく寒くもなく、程よい天気で気持ちがよく、それを全身に感じながら、どこか重たくねばねばとした心・脳・身体でもって椅子に座ってただ生きている。


 そうだ、ただ生きているのだ。

 高校の時の数学の先生が夏休み前によく言っていたことを思い出す。

「夏休み?何かすることだって?そんなものはない。私はずーっと寝ていた。ただただ何もしないでいるんだ。そうすると何かしようかなというような気になってくる。それでもそこからが肝心だ。それでも何にもしないんだな。そうしていると自分がどんどん干からびていくような感じがしてくる。どんどん何にもなくなって、意識もぼんやりとしてきて、床と一体化して、そうこうしているうちに夏休みは残り一週間くらいになっているんだな。それで宿題でもやるか、となって宿題をやる。なんだかんだ宿題も終わって、それでも何もやることがないな、と思う頃には夏休みなんて終わる。そんなものだ」と。


 わたしは大学生の時のことも思い出した。

 大学生のころ、わたしはよく研究室に入り浸っていた。それも大きめの資料室で普段は全然人が来ないようなところだ。

 そこにはなぜか横になって寝られるくらいの古びたソファが置いてあってわたしはそこでよく寝ていた。

 土日も長期休暇の時も飽きもせず大学に来てはそこで適当な本を読んでは寝ていたし、何ならそこで泊ってしまってサークル棟で勝手にシャワーを浴びたり近くの銭湯に言ったり、マクドナルドでハンバーガーを食べて帰ってきて資料室で夜な夜な本を読んだりごろごろしたりしていた。

 特にお盆休みや正月などに大学にいるのは人気が全くなく世界に取り残されたような気分で気持ちがよかった。まさに虚無だった。自分一人でこの部屋を使っていても誰もとがめないどころかそもそもここの資料室を使おうという人もいない。ひょっとするとわたしがいつもいるから寄り付かない人もいたのかもしれないが、そうならないように気を付けていたし、いつもきれいにしていたし人がいるときには寝たりしていなかったのでそうではなかったことを祈っておこう。

 思えばアパートにいた時間よりもその資料室にいた時間のほうが長かったかもしれない。昔はそんなふうに大学でホームレスみたいなことをしていても許されたし何の問題もないどころかむしろ頑張って勉強してるとすら思ってもらえていたのだから寛容な時代だったのかもしれない。今はその資料室も20時には施錠されてしまうし、休日は許可がないと開けてもらえないと聞く。厳しくなったものだ。散々好き勝手使わせてもらって、税金を無駄にしたような負い目もあるので税金はきちんと還元しないといけないとは思う。


 社会人になっても、自分は相も変わらずただ生きているだけの存在だ。

 ただ生きているということを卑下する必要はないのはわかっているし、そういう習慣が自分を苦しめるのはよくわかるのだが、どうしても虚の引力が自分を引っ張って自我が引き延ばされて醜く間延びしているような感覚に常日頃苛まれているがゆえに自分を責めるのを止められない。

 自分を責めると、虚の力がさらに増して、無気力を際限なく醸成し、手が止まる。

 体が動かなくなる。

 そして、そのぼんやりとした気持ちでまた一日が過ぎ去っていく。

 そうして虚無に引っ張られて自分は低空飛行をして、そうこうしているうちに本当に周りからは取り残されて手遅れになってしまった。

 何が手遅れなのか、それももう考えられないし考えたくない。

 ただ、手遅れになってしまった。

 虚無と向き合える時にはいつだってそう思う。

 虚無は何もないのではない。たくさんのものがそこに溶け込んでいる。

 忙しさはそれを忘れさせてくれる。

 その忙しさが幸福であればなおよい。幸福でなくても、虚無と天秤にかけて虚無よりはましであればまずまずだ。

 その忙しさが虚無よりも苦しいものであれば、虚無のほうがまだいい。虚無は虚の引力さえ引き離して飛び上がることさえできればどこへでも行ける可能性だけはあるから。

 それでも、虚の引力に親しみすぎたり、その引力からなかなか離れられないと手遅れになって、いつしか飛び上がる力すら失ってしまう。

 引力とはそういうものだ。すべてを調整するものであり、すべての限界でもある。


 手遅れだというのはなにゆえにそうであるのか。

 老いたからか、大事な時間を虚無で消費してしまったからか、熱量がなくなったからか、虚無に呑まれたからなのか。

 いつだってそこから始めれば手遅れではないのかもしれない。だが、その考えは「努力が必ず報われる」という言葉と同程度に虚無の前には無力だ。

 引力が大きくなればなるほど体を動かすには多くの筋力とエネルギーがいる。負担も大きくなる。

 体と精神を改造してようやくそのなかで動けるようになる。飛び上がるためには、その引力から離れるためにはより大きな力が必要になる。

 滑走路を作って、飛び上がるために力をつけて若いうちに一気に飛び上がっておいた人は、その慣性でしばらく飛んでいられるし、それが落ちてくるころにちょうどよく老いることができる。

 そうではなく、しばらく飛び上がれずにいたものは、飛び上がるのすら一苦労であり、ともすると一生地べたを這いつくばって、しまいにはぬかるみに足を取られてずぶずぶと沈んでいくかもしれない。

 両足のくるぶしくらいまで無限のぬかるみにはまった人が、空を見上げておいおいと嘆き悲しんでも、体を動かさなければ自重でどんどん沈んで行ってしまうのだ。

 止まっているのは後退しているのと同じであり、坂道で立ち止まれば転がり落ち、羽ばたかなければ墜落し、足を動かさなければ前に進めない。残酷な未来への風は、自分を強引に未来へと流していくのに、同じかそれ以上に自分が進まなければ、何かを置いてきてしまう。そんなところにわたしたちは生きている。


 だから、ただ生きているというのは残酷なことなのだ。

 だから、人は虚の引力に引っ張られている。

 いつかは虚になって無になってしまう運命にあるのだから、それも当然のことなのだが。


 と、このような文章を書いているうちに、昼下がりももうすぐ夕暮れの気配を帯びてきて、世界は何となく薄暗くなってきている。

 わたしはもうすぐで今日の勤務も終わることを想いながらメールのチェックをしたが、特に何も返事をするものはなく、何事もなく今日も終わってよかったと思い、3杯目のコーヒーを淹れようとケトルのスイッチを入れる。

 

 死にたい。

 

 そうか、こんな時にわたしはそうつぶやくんだ。

 わたしはまた一つ賢くなって、モカのドリップコーヒーを蒸らすのであった。

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