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昼下がり  作者: 磯目かずま
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似非(私)小説

 私小説というものが嫌いだ。

 なぜかというと、わたしではなく私自身が私小説の主人公のように思われてしまうからだ。


 わたしはそれゆえに「私」ではなく「わたし」という一人称を使っている。

 そんなこだわりは不要だろうか。それに、そんな小細工を弄したところでわたしが私小説の主人公的であるということは変えられないのだろうか。

 冒頭の嫌いな理由は、それだけでは何の説明にもなっていない。

 わたしが仮に私小説的であったところで、それの何が問題なのだろうか。

 

 まず、私小説において、私の範疇の物事しか語れないのではないかということがある。しかしながら、それはわたしにおいても同じだ。わたしがいかに私でないかということを主張したところで、わたしが私的であることは変えられないし、もっと言うと、わたしという人称が常に一人称として話が進行している点、わたしの背後に私が感じられるような構成になっているという点でわたしの私性は逃れがたいものとなっている。

 わたしはそもそも私の直接的な経験を基にして生まれたのだろうか。そうである部分もあるし、そうでない部分も当然あるのだろうが、わたしにとっては私が感じえたことと考えうること、創作しうる、想像しうることの違いがわかりかねるため、わたしがそうした私の産物に過ぎないともそうでないとも言い切れない。

 しかしながら、私小説というものは少なからず私との直接的なつながりが主人公とその語りに必要であるということが要求された文章である。そのことが、真実性や自然主義、リアリズムというものを担保するとして機能しているのだ。

 そのこともわたしは嫌いだ。だからと言って作者は死んだなどと言うつもりもない。わたしはそういう「人の欲求」の形として私小説を定義することが嫌いなのかもしれない。私小説を読むことでさかのぼって私・作者を知り、それを愉しむという精神が、スキャンダルや暴露を悦ぶという意地汚さのようなものを連想させるのかもしれない。

 それゆえに、私の範疇での語りは二重にわたしにとっての苦痛となる、それは第一にわたしが私によって限定されてしまうこと、そして他者にそれが晒され、好奇の目で見られるということによってである。


 次に、私小説が帯びている侮蔑の色が嫌いだからということがある。私小説というのは、上に書いたような事情により、矮小で俗っぽく、告白的、露悪的であり、自分のことしか考えられず、構成的な要素に乏しいという考えがなされることがある。そして、それらの作品群がそう言った評価をなされているというこれは一面的でしかない事実をうのみにして、わたしがそういった作品を毛嫌い・食わず嫌いしているからである。

 小説というものが虚構であることが確かだとしても、それが私小説だとわかったら直ちにそれが私の影として考えられてしまう。完全なるフィクション、私と関係のないわたしということはおそらく不可能であるにも関わらず、である。それは、主人公が転生したり、SFであったり時代物であったりしても同様であろう。おそらく中には私小説的なファンタジー小説というものもあれば私小説的な転生ものもあるはずである。

 作者の影というものはよく機能する場合もあれば、邪魔なものでしかないこともある。大家・文豪と呼ばれる者の私小説・自伝的小説には興味をひかれ、研究対象にもなるということがあるが、無名で無能な一般人の私小説ほど厭味ったらしく鬱陶しいものはない。自分のことで精いっぱいなのに、なんでそこら辺の人間の生を辿りなおすなどという苦行をあえて引き受けることがあろうか。

 日本における私小説というものは、どこか澱んだ空気感をまとっている。それは時代の闇というものを引き連れているからなのか、それが人間の必ずしもきれいなものばかりを表現していないからなのか、はたまた自我というものを人間が臭いと思っていしまうというだけのことなのかわからないが、少なくともわたしはそういう私小説が帯びている澱みを好ましくないと思っている。


 わたしは私と一緒にされたくないし、数多の私小説に登場する私とも一緒にされたくない。

 そういうわがままがわたしには含まれている。

 わたしは男であり、妻がおり、会社員で、毎日つまらない事務仕事をして、昼下がりにコーヒーをすすっては文章を書き生きている人間である。

 だが、私が本当にそんな人間なのかは定かではない。むろん、大勢の意見においては私がわたしであるということになるだろうが、それもどうだかわからない。

 わたしはどこかにいる、誰でもない誰かとして。きっとそうに違いない。

 こう思わせることができたら、わたしは成功したということになるのだろうか。

 わたしが私の影としてのリアリティではなく、わたし自身のリアリティとしてそこに確かに存在していると証明できたのなら、わたしはわたしになれるのだろうか。

 そうすれば、私小説の澱みから、わたしの嫌いな私小説から、開放されるのだろうか。


 しかしながら、わたしを書くことで私が私になっているという再帰的な生成現象もまた存在しているのは確かである。

 そうであるから、わたしは私を作っているのであり、わたしが私の影であるのではなくむしろ私がわたしの影であるともいえる。

 私はわたしという嘘をついているのかもしれないし、そこに本当のことも織り交ぜているのかもしれない。しかしながら、私がついた嘘はわたしにおいて本当のことになるのであり、それを書いた私はそれを書いたということで本当になる。それゆえに常にわたしは私にとっての本当であり嘘でもあるのだ。その構造が私小説的であるというのが本質であったとしても、問題なのは、私が必ずしも形相でわたしが質料であるばかりではないという事実なのである。


 わたしが私小説を嫌いなのはこの点においてでもある。すなわち、私小説の主人公が私でしかないという誤った認識についてである。

 むしろ私小説的な作品においても、主人公はわたしであり、もちろん私でもあるが、それらはどちらかが主体となるのではなく、相補的に形成されていくものだということだ。これが作者の死ということではもちろんない。わたしが言いたいのは、わたしはわたしであってそれ以上でもそれ以下でもないということだけである。

 

 ただ、いくらわたしが私小説を嫌ったところで、わたしは私の私小説として読まれるということを否定するものではない。それはこの世にいる「わたし」たちにおいても同様だ。なぜなら、わたしはいかようにも読まれうるということでわたし足りえているのであって、わたしが「わたし」になりそれがあなた方一人一人の「わたし」として読まれうるというところに私からの投瓶通信的なものが含まれているというのがささやかな希望だからである。

 それゆえわたしが主張する似非(私)小説としてのこの文章は、反目する諸概念のそれぞれの立場で読まれうるものであり、所在の曖昧なわたしの表現として、ここにあるものなのである。

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