反五月病
今日も通勤途中に人身事故があった。ここ最近は多い気がするし、実はいつもこんなもんなのかもしれない。わたしは少し遅れて会社に着き打刻をして、遅刻―交通遅延と申請する。
五月病という言葉が嫌いだ。それは、元気がないとか憂鬱だということの原因を気圧や生理や季節で説明してしまおうとすることの一環として嫌いだ。それに、それらしい名前を与えてその気持ちを平準化しようということ、普遍的な現象に還元することで陳腐化してしまうように思われて嫌いだ。そして、自分が自分の憂鬱に、五月病なんだねと言ってしまえるのが嫌いだ
今日は反五月病提唱者として皆様に一言ご挨拶をしようと思う。
毎日が薄曇りだ。気づけば雨が降っているようで、かといって知らぬ間に晴れ間がのぞいていて、世界はいつの間にか緑色で、ツツジばかりがマゼンタ色に鮮やかかと思えば、あちこちでバラが咲いている。
花びらの一枚一枚の微細なうねりや色の変化、葉っぱのギザギザや葉脈、托葉、芽鱗、そういったものをじっくりと眺めること。通勤中にさえそうしているし、そうしていると芽吹いたモミジが無数に生えているのを発見したり、カルミアの金平糖みたいな花とつぼみに見とれたりする。それがいいことなのか悪いことなのかと考えることはいらないらしい。美しいとかきれいだとかもいらない。ただ、それがどうなっているのかだけを感じればいい。
風がくぐもって少しだけ土のにおいがするということ、マスクを取ってそれを感じること、空の雲がどんな形をしているのか、足が地面について離れるという感覚、呼吸が荒くなったり早くなったりすること、それらをただ感じればいい。
食事をするときには、おいしいとか栄養価がとかそういうことすら考えなくてもいい。米を噛んでいて甘みを感じるだとか、肉が歯に挟まるだとか、サクサクしているとか、もちもちしているとか、そういうことを考えればいい。
そうして思考から感覚に自分を降ろしていく。そうすれば罪だとか善悪だとか価値によって苦しくなることから楽になれると。そうわたしは言われた。
脳の下に出ている尻尾みたいなところ辺りをギューッと絞られているみたいな感覚に苛まれている。
何もしていないのに息苦しい。動悸もある。脇腹の単純疱疹も痛む。
思考ができないし、思考をしないように努力している。それなのに、局所的な概念的存在がポッと出で自分を苦しめる。「ダメ」とか「出来ない」とか「辛い」とか。それらが理由もなく「不安」を作り出して、それがわたしの身体を動かなくさせる。土日は何もできずずっと椅子に座っているかベッドで横になっていることしかできない。
それをわたしは、五月病だなんて言わないでくれ、気圧のせいだとも、ストレスのせいだとも言わないでくれという気持ちでただただ耐える。耐えているうちに、そうだ、耐えるのではなく感覚に気を向けることが必要かもしれない、と思い、窓の外を眺める。
窓の外には隣の家の小さな畑と、とりどりの庭木が見える。カキの新緑、モミジの赤芽、百日紅のすべすべした幹、棕櫚の新芽。そういったものをただ眺めようとする。わたしはそれを眺めているうちは確かに不安とは切り離されているかのように感じられた。ヒヨドリが梅の木をくるくると回り、スズメバチが芋虫を狩る様を見ているうちは。
ただ、隣人の気配や上の階の住人の叫び声によってそうした気持ちもかき消えてしまう。ただぼんやりと庭を眺めることも、自分の逃れがたい人生の一幕に過ぎない。日がな一日ぼんやりできるまで自分はしっかりと生きてはいないのだから。これからも「不安」に駆られて動かない体を動かしながら生きていくしかないのだ。
五月病の本質が「不安」だとかそれのもとになっている概念的な存在であるのであれば、それらをどうにかできれば解消されるのかもしれないし、そもそもそういうものは五月でなくとも常にわたしを責めているのだから、五月病といういい方は適切ではない。
人間にとっての概念的なものが自分自身を責めるというのは副作用なのだろうか。
「不安」と呼んでいるものは生存するためのリスク対策であるのだから、それによって危機を回避できるはずであるのに、つもりつもったそれが結局人を殺す。
動物だったらそうやって自分自身を殺したりしないのだろうか。それとも、単に種の保存や淘汰のためにあらかじめ弱い者を殺すプログラムが組まれているだけなのだろうか。
だから、弱いわたしはすぐに死にたいと思うのだろうか。
気が付くと、わたしはそうつぶやいている。
それが、叶わぬ願いであること、絶対にいずれ叶う願いであること、叶えるのが怖い願いであること、叶えないほうがよい願いであること、それらはわかっているのに。
Google先生にそう相談すると、いつだって「ヘルプが利用可能 今すぐ相談する」と相談ダイヤルを教えてくれる。
知恵袋を覗けば、「辛かったけど生きててよかったと思うので今は辛くても生きてください」とか、「休むことが大事です、医療機関を受診しましょう。恥ずかしいことではありません」とかいう言葉を見かけるし、中には「死にたければ死んでください。人に迷惑をかけないように死んでください」という言葉もある。
こころの相談室を見ると、「死にたくても死ねない人」がそれでも生きているというスレッドに、「死にたいと思ったらそれ以後ずっとそう思いながら生きていくしかない、辛い、でも死ぬのは怖い」とか、「いろいろ病気になってそれでも40年よく生きたと思う」とかいろいろな言葉がある。
ツイッターでは、リスカの写真をあげている人もいるし、「何で産んだの」と嘆く人もいるし、同じような境遇の人で集まれみたいなタグだってあるし、死にたいというつぶやきにさえいいねがついている。
わたしはそれらを見て、ただ虚しくなる。
脳の尻尾が締め付けられる。
特に何もしていないのに口と鼻の奥のほうが焦げ臭くなってくる。
そして、どこからともなく口をついて「ごめんなさい」と言う。
死にたい・ごめんなさい・死にたい・ごめんなさい……
このサンドイッチがうずたかく積みあがる。
そういうとき、自分は「ああ、そう思っているんだね、仕方ないね、そういう自分を認めようね」と心でつぶやいてみる。そうすることがよいと言われたから。
それでも自分の中の自分が、そうは言われても何も変われないで、相変わらずサンドイッチを作ることしかできない。
自分を責めない、責めない、責めない。
呼吸に集中するんだ。吐くときにストレス軽減物質が出る。ゆっくり吐き切るようにして、それを繰り返す。呼吸をするということの対処法に陳腐さを感じる必要もない。
それでも呼吸にすら集中できない。
うわごとのように呻きながら椅子に座ってしばらく涙を流し、水を飲んで鼻水をかんで、少しだけ元気になる。
毎日が、この繰り返し。
「考える力が、才能があるから、考え続けて思考をつかさどる脳がオーバーヒートしている。だから休ませて違う部分に血流を流す必要がある。繰り返しますが、あなたは才能があるのでそうなっているのですよ。これは客観的に見て本当にそうだからです。自分を責める必要はありませんよ」
そう言われた。続けて、
「そういう人は、それぞれ独自の対策を見出して実践していくことが必要です。それは自分の才能を〈マネジメント〉するということです。〈コントロール〉するという人もいますが、わたしはそういう言い方は好みません。自分に合ったやり方で自分を導いていけるようにしていくことが大事です。これはすぐにできるようになることでもないので、徐々にやっていけばいいです」
こう言われた。
わたしは、そうは言っても、才能が自分を苦しめるというのであればそれはもはや才能ではなく欠陥ではないか。そんな才能は欲しくなかった。もっと考え続けられなくても、普通でも、いい加減でもいいから、そういう才能があればよかったのにと思った。ただ、その場では、「はい、わかりました。やってみます」と、そう言った。
プリミティブな感覚を感じること。判断をしないこと。リズミカルに歩くこと。マッサージをすること。奥歯を噛みしめないこと。最低7時間寝ること。三食バランスよく食べること。呼吸を意識すること。
そういう具体的なことで脳の状態は改善されていく、らしい。
そうは言っても、そうは言っても……とじぶんは「そうは」とばかり言っているが、しばらく継続しないとそれは改善しない。
しかも、全部きちんと継続することもできなかったら、それはそれで自分の努力不足ということなのかもしれない。
三島由紀夫だって太宰に言っていたらしい。あんな軟弱な様子は全部寒中摩擦と機械的な体操で解決できることだと。
実際そうなのかもしれない。
上に書いたことをきっちり半年も継続出来たら、おそらく「健康」になっていると思う。
ただ、それで「健康」になったところで何をするかなんて今考えられるようなことではないけど。
と、ここまで僭越ながらご挨拶とさせていただいたが、実際問題わたしは反五月病を提唱するにはいささか元気がなさすぎる。
「健康」のための処方箋を実践してマッチョになることでもいいし、これはいつも憂鬱なんだから五月に限定するのはおかしいというのでもいいし、とにかく名前を付けるのが嫌いなんだと駄々をこねるのでもいい。
反五月病実践の方法は、もう皆様にお任せしたい。
それよりもわたしは、今も自分の脳のもやを晴らしたいという気持ちでいっぱいで疲れてしまったので、今日のお話はこれでおしまい。
それでは皆さん。会う日まで。




