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昼下がり  作者: 磯目かずま
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惜春の候

 とうに桜は新緑に萌え、藤ですら散りつつある候。惜しむべき春はいつの間にか過ぎ去ってしまい、世界はぼんやりとした憂鬱に身を浸す暖かな気候になっていた。

 わたしはといえば、新年度のばたばたを乗り切り、切れ切れのゴールデンウィークを憎ましく思いながら、どこか人の少ないオフィスで相も変わらず文章を書いている。

 

 わたしには昇進の打診が来ていた。それは2年後に新設される部署への異動を促すものであった。内容は客観的に見て今いる部署での代替可能な無味乾燥さに比べて格段に有意義で魅力的なものだったし、待遇もよいものだった。

 しかし、昇進に伴って当然ながら責任が問われる立場になるのは明らかであったし、いかにその部署が魅力的であったとしたところでわたしにとっては単なる会社での仕事でしかなく、やりがいを感じられるほどに興味関心も湧かない内容だった。それにわたしの専門分野とも微妙にずれた分野のことであり、そこに異動となれば新たに資格を取ったり勉強したり、果ては研究会等に参加しなければならず、負担が大変に増加するのも目に見えていた。

 その打診をしてくれたのはとてもお世話になった上司であった。この方はわたしが今いる部署で腐っているのを見かねていつも得意分野の仕事を回してくれていて、今回もわたしをぜひこの人をということで推薦してくれたのであった。

 わたしは上司への恩と推薦してくれたことへの多大な責任を感じ、この件を二つ返事でいかにも快い感じで引き受けてしまった。「しまった」というのは、心の中では先に述べたようにやりたくないと思っていたからだし、むしろ会社自体をいかにして辞めようかと日々模索していたような有様だったからである。

 わたしは今いる会社での仕事がどうしても苦痛であり、やや捨て鉢な方針ではあるがフリーになってやっていこうと常々考えている。同種の会社に転職するというのもしたくない。それでやって行けるのかといわれたら返事に窮するくらいには自分に実力がないことがわかっているので、今いる会社でほどほどに糊口をしのぎながら自分の仕事を続けて機を伺っている。

 そのような状況であるから、わたしは異動の話を引き受けたことを非常に後悔した。上司は本当に好意でそれを薦めてくれたし、その仕事をすることで何らかの「よいこと」が自分に起こるかもしれないことも十分理解できる。しかし、心というのは不思議なもので、やりたくないことを進んでやることができるほどに機械的でも順応的でもない。それがはたから見たら棚ぼたでいかにもありがたいラッキーなことであったとしても、当の本人は全然醒めきっているということもよくあることだ。

 さらに言うと、それが2年先だということも気乗りしなさに拍車をかけている。わたしは2年経ったらこの仕事を辞めてフリーになろう、と漠然とながら考えていた。2年経てば自分も独立してやっていけるほどの貯金もスキルも蓄えられるだろうと考えていた。しかし、2年先にそのような先約ができてしまえば、それに向かって自分を建設的に構築していかなければいけなくなるし、数多の準備は必要だし、何なら人格すら変えなきゃいけないし、自分のやりたいことは結局できないまま先延ばしになって身分だけ上がってしまうのである。そして、異動先で2年後からさらに数年間は勤め上げる必要が出てくるだろうし、先々辞めるのはもっと難しくなってゆく。そういう自分の人生が先んじて拘束されている状況が耐えがたい苦痛に感じられてしまったのである。


 わたしは引き受けてしまってから2,3週間毎日悩みに悩んだ。二日に一回は緊張で涙を流し、同じくらいの頻度で夜中にうなされて叫び声をあげた。なんで引き受けてしまったのだろう、断れなかったのだろう、これをやるためには何の本と論文を読んで、何の講習会と研究会に出て、口頭発表もして、それでどのくらい時間と費用が必要で、その間自分の仕事はどうしようか、全然できないし見通しも立たないし......

 毎日が苦痛でいっぱいで、そうこうしているうちに桜が散ってしまい、仕事も忙しくて判断力はすでに焼き切れていた。わたしは投げやりになり、もうどうなってもいい、新しい部署に行って役立てばいいじゃないか、自分のやりたい仕事をしたからといって何になるんだ、それはそれで無為に苦しむだけじゃないか、それなら明らかに求められていることに邁進して新しいことをしたほうが精神的にもいいんじゃないのか、そう思い込むようにしていた。

 それでもわたしは理性によって自分を律しようとすればするほど、納得したはずの論理によって自分が悲鳴をあげているという悪循環に陥っていった。わたしはいつものように自宅で涙を流しうめき声をあげていた。すると妻が、そんなになっているのであれば一度上司に電話してみたらどうかと言ってきた。

 わたしはそれはよいことだと思いつつ、引き受けてしまった手前断れないというのと、長文の企画書のような内容を推薦してくれたの上司のさらに上司に送ってしまい、それがすでに好評を得てしまっていたことでますます断りづらくなっていたのでずっと電話はできなかった。スマホのアドレス帳で上司のページを開いたまま手が震えて掛けられずに気づけば2時間脂汗を流していたこともあった。

 今度は電話しなければという強迫観念によって苦しい日々を過ごしたが、連絡するならば早いほうが良いということである日意を決して電話をすることにした。

 上司は驚くほど親身になって話を聞いてくれた。悩んでいることや今後会社を辞めようと思っていたことなども伝えた。上司は理解を示してくれ、それではその思いを正直に伝えるべきだと、今一度新しくできる部署を統括している上司の上司と面談の機会を設けてくれた。その場では明確にお断りするとは言えず、やるのかやらないのか今一度考えなおすということになった。

 

 わたしは、面談に向けて考えようとした。でも、薄弱な精神は考えを深められずに、断りたい、断れない、どうしよう、ということをぐるぐると考え続けるだけだった。そして、こんな優柔不断な人間だからダメなんだというような内容でひたすらに自分を責め続け、結局涙ばかりが流れて物事は何も進展しないのであった。

 面談当日、わたしは上司の上司とZOOMで話し合った。ここでも真摯に対応をしていただいたのだが、どうしても話が引き受けるという方向に流れてしまい、期待しているだとか、無理しなくていいからとか、そういう言葉が積み重なるにつれわたしはどうしてもお断りするということを口にできなかった。

 正直言うと、正直なことはその場で全然言うことが出来なくて、自分の中にいる会社員の人格が期待に応えます、頑張ってみます、自分の勉強だと思ってお引き受けいたしますと、心にもないことを話しているのがたまらなく歯がゆかった。

 結局、断るどころか今後の具体的な方針を話し合うような形で面談は終わってしまった。

 わたしは終わった直後こそ、これでよかったのだ、わたしにしてはよくできた将来のビジョンを提示できた、これを遂行しさえすれば苦しみは軽減されるのだとそう思った。

 しかし、それもまた一瞬のまやかしにすぎなかった。なんでこの場でもわたしは正直に話し、断ることができなかったのだろうか。あんなに苦しんで上司に電話してこの面談にこぎつけたのに?バカなのだろうか。本当に、本当にバカでどうしようもない人間だ。


 その日、わたしは帰宅後面談の顛末を妻に話した。妻はそれでよかったの?と言った。

 わたしは、呵責の念と後悔と罪業妄想と不安が臨界点に達し、パニックを起こし奇声をあげ、引きつりながらしきりに涙を流した。

 うわごとのように自分を責め続け、悲しくなり、どうしようもない状況に希死観念ばかりを募らせていった。

 妻はそんなわたしに対応しながら、この状況で上司にもう一度電話をすべきだ、と言った。

 わたしはなんて残酷なことを言うのだろうと思った。しかし妻は、この状態で話さないと状況が伝わらないと言った。なぜならわたしは人と話すときにはいつだって取り繕ってしまえるからだ。

 わたしは電話を拒否し、携帯を壁に投げつけた。

 涙を流しながらしばらく椅子にうなだれていた。もうどうすればいいのか皆目見当もつかなかった。

 すると、妻が「もしもし、○○の妻なのですが、ご相談したいことがありまして……」と話しているのが聞こえた。見ると、わたしが壁に投げつけた携帯を拾って上司に電話をしている様子であった。

 わたしは咄嗟に妻から携帯を奪い電話を切り、何でこんなことをしたんだ、何で電話をしたんだ、なんでなんでなんで!!!と言って再度発狂し、もうだめだ、おしまいだ、と言いながら記憶がなくなるまでうめいていた。

 

 その日は結局、わたしは自室の床で意識を失い、朝起きたらいつの間にか布団が掛けられていた。

 ひとまずシャワーを浴びて、恐る恐る携帯を確認すると、上司からメールが来ていた。わたしは怖くなって手が震えだし、携帯を触ることができなかった。

 その日はいつも通り出勤した。幸いその上司とは職場で一緒になることはないため、何事もなくその日を過ごすことはできた。

 昼下がり、落ち着いたときに上司からのメールを確認した。内容は、昨日奥様と思われる方から電話をいただいたのだがすぐに切れてしまいました。面談で今後の方針は決まったと伺っていたのですが、大丈夫でしょうか?心配しています。とのことであった。

 わたしは昨日の顛末をメールで説明した。面談ではお引き受けする旨をお伝えしたこと、上司の上司はとても真摯に対応してくださったこと、しかしながら自分で納得してお引き受けしたにも関わらず帰宅後本件が原因でパニックを起こすなど精神的に不安定になってしまったこと。もともと、異動の話を伺う前から精神的にすぐれず通院、投薬治療を検討していたこと、昨日は妻が電話をしたがわたしが咄嗟に切ってしまい大変申し訳ないこと、などを書いた。

 

 帰宅後、昨日の疲れからかわたしは泥のように眠ってしまった。

 目を覚ますと、上司からの着信履歴とメールがあった。メールには、先ほどの電話は本件を推薦したがゆえにあなたを苦しめてしまったことへの謝罪としての電話であり、掛けなおす必要はないからまずはゆっくり休んで下さいと書かれていた。

 わたしはなんていい人なんだろうか、期待に応えられず、むしろわたしが苦しめてしまい、本当に申し訳ないとそう思った。すぐ謝罪の電話をしたいと思ったがもう夜も遅いので、明日適切な時間に電話をすることにした。

 わたしは次の日の昼前に上司に電話をした。

 上司は電話に出、もしもしと言うときに一瞬ごくりと唾を飲み込み、身構えたような気を発したように思われたが、その後いつも以上に明るく親切に接してくれた。事の顛末を説明し、わたしは謝った。すると上司は、そんなことだろうとは思っていた、そこまで追い詰められてしまうようだったら今回の件は断ってしまうのがいいと思う。わたしが推薦したからといって気にする必要はない。むしろ着任してから辞めたほうがよほど問題だからね。ただ、精神的な問題は個人情報だし、社会人としてお断りする旨はきちんと上司の上司にはメールでいいから伝えておくように。こちらからも連絡はしておくから。と言ってくれた。

 わたしは謝っても謝りきれない気持ちでいっぱいになりながら電話を切り、しばらくして上司の上司に本件を辞退する旨の連絡を入れた。こちらでもゆっくり休んでくださいと言っていただくなど真摯に対応をいただき、申し訳なさで気が滅入ってたまらなかった。


 そうした一連の流れが終わって、ちょうどゴールデンウィークになった。

 わたしは妻が計画していた旅行に行き、いくばくかの気分転換にはなった。

 それでも度々発作を起こして涙を流したり、気もそぞろになってレンタカーをぶつけて5万円を支払う羽目になったり、行く前には飛行機を一日間違えて予約して予約変更で高い手数料を取られるなど精神的にはあまりすぐれない旅路だった。

 現在も心の底からよくなっているわけではないが、無理やり外に連れ出してみる荒療治的なものも一定の効果があったのか、ここ一か月の自分を振り返り文章に書くことができるようになり今に至る。

 

 わたしの身勝手により方々に迷惑をかけ、今現在自分自身のこともぼんやりとしか考えられない状況であるが、見ないようにしている周囲の傷跡がわたしをひそやかに責め続けている。

 そして、立ち消えになった将来の昇進や、上司の好意を無下にしたこと、会社での微妙な力関係のひずみなどに思いをしっかりと巡らせられるほどに、自分は今元気でない。

 そんな自分が本当に矮小で愚かな存在だと思い、改めて悔悟の毎日を過ごしている。来週にはカウンセリングの予約も入れていたが、連休明けに休みを取ることもできず、結局キャンセルになりそうだ。

 

 最近、友人の結婚式にウェディングボードの絵を描いてくれと頼まれ、お車代3万円と引き換えに描いて納品した。

 新郎新婦の満面の笑みの背景には、満開の藤の花を配して、その幸せな初夏の空気を演出した。

 わたしは結婚式に参列し、その晴れ姿を見、感謝の言葉も述べられ、「喜んでもらえたならよかったです」と言った。

 わたしが昇進について悩んでいる期間、元気な時間の合間をぬってそれは描いたものだった。

 正直、辛かった。自分が苦しんでいるときに、幸せなものを表現するのも大変だった。お車代も最初は何にも言われてなかったし、無償でやっていたから余計に大変だった。

 参列していた人たちは、うちが結婚するときも描いてよ、と次々に頼んできた。わたしはにこやかに、いいですよ、いくらでも描きますよ、と言った。


 わたしはここでも断れない人間だった。人々の期待が怖かった。応えられないのが怖かった。断るのが怖かった。にこやかに近づいてきた人たちががっかりして去っていくのが怖かった。

 でも、そうして断れないことで苦しむのは結局自分なのだ。

 わたしの苦しみと引き換えに人々はいくばくかの幸せを得られる。

 それはそういうものとして世界があるのかもしれない。

 でも、わたしは、それすらも叶えられなかった。

 それは、それを叶えても、叶えられなくても、後悔が確かにそこに残るものとして、わたしに、わたしたちに決断を迫るものなのだろう。


 わたしは今年の春も、桜色のよどみとしてそれを消費してしまった。ピンク色というのは、春めいた幸せにもなりうるが、肉のような奇妙な気持ち悪さと息苦しさを与える紙一重なものだと思う。

 わたしはそんな惜春の気持ちを込めて、いつものオフィスの机で冷えたコーヒーをすすりながら、今日も昼下がりの憂鬱を噛みしめている。

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