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昼下がり  作者: 磯目かずま
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ありふれたこと、あたりまえのこと、ありきたりのこと

 本当に苦しいことが通り過ぎるときに、それを見るわたしはどうしようもなくそれしか見れなくて、そのことで頭がいっぱいで、そういうときの自分を後から見直すのも苦しくて辛いのだが、それもまた生きているという感覚なのだと割り切って、降り積もるそれを拾い集める。

 罪の意識が自分を苦しめること、そのことによって自分に罰を与えることを強いること。それを繰り返して食事を抜いたり、寝なかったり、幸せな感覚を禁じたり、自分をひたすら傷つけることばかりだった。おそらく、そうしているのが何年も積み重なっているうちに心というよりも物質として、生物としての身体がおかしくなってしまっていたのだろう。明らかな栄養失調も、痩せたといって喜びを覚えていたが、実際はあらゆる不足が脳の大事な何かを狂わせるにまで至り、そのような状態で心だけコントロールしようとしても無理な状態になっていたのだ。

 こころが不調なときは心にその原因を求めようとしてしまう。しかし、心身問題で陳腐になっているからといって歯牙にもかけない身体こそが結局心の土台としてそこに存在しているのである。そこで身体を大事にするということが自然主義者みたいに思われるという思い込みや強迫観念自体がおかしな習慣なのだということはもっと自覚するべきである。食事をし、排泄し、睡眠をし、生殖活動をしてこの世界に存在しているのが人間であり、人間は動物であり切ったら血が出るし、生まれて死ぬ。そんなあたりまえのことが、実は本当にわかっていなかったのだ。わかっていると思い込み、そう思うことが陳腐だというする刷り込みによって、心を前に前に加速させようとした結果、実在論としてしか身体を感知できなくなり、「実在しているもの」としてそこにある物質を理解できなくなった。わたしの身体の痛み、わたしの身体の快感、そうしたことすべてが、一足飛びに自分の罪と結びつき、それがそこに存在している理由も意味も、すべて一からげに苦しみに変換されて内容を無くしてしまっていたのである。

 それを物質として認識するということは何も、自然主義的になるということではない。物質を数量化したり実験によって知られうる原因と結果によって把握するということでもない。それを現象学的にありのまま把握するといういわゆるエポケーですらない。そういうもろもろのことが脳内に去来する以前の部分で自分を確かにそこに在るものとして認めるということだ。それがエポケーなのではという人がいたらエポケーという概念を知らずにそうしていられる人を想像してみてほしい。そういう概念を持ってしまっている以上、そこからも何とかして脱したい、そう思わされる時点で苦しみが一つ増えているということに配慮できるくらいに心に余裕がないと、その微妙な関係に気づけなくなり、「ああ、それってエポケーだよね、よくあるありきたりでありふれた対処方法だよね」といって結局何も解決していないことになるのである。

 そもそも、わたしたちが人間である以上、身体があるというのはごくあたりまえでありふれた現象である。頭があって体があって四肢があって、そして色や人種は違えど人間の構造は皆同じもので出来ているといってよい。それを、あたりまえだからと言って看破してしまうような心性は、あまりにも差異化の精神に蝕まれすぎていて、真理や本質や普遍性をバカにしすぎてバカになっているとしか言いようがない。

 そもそも、人は何をもって他者と交流することができるのか。「ことば」があるからか?「身体」があるからか?「人間」だからか?普遍的な共通感覚があるからか?間主観的な存在があるからか?そういったもろもろの疑問を、それぞれ考え出すと「ああ、それってそれぞれ専門に分かれている内容が複雑に絡み合った問題だし、手垢がついていて本もいっぱい読まなきゃいけないし、なんなら自分で論文も書かなきゃいけないし、今自分が知りたいのはそんなことじゃないんだ、そんなことがしたいんじゃないんだ」って思わされるから、しんどくなってくるんだ。自分はそういうもろもろのことを「研究」したいわけじゃないんだ。業績になるような文章を書いて、それでどこかのポストについたり研究費をもらったりしたいわけでもないんだ。もっとも、そうしている人たちもわたしみたいな欲求を公的に叶えるためにうまいこと世界に参入していることで回りまわって研究者になっているのかもしれない。でも、自分はそうしたいんでもないんだ。専門家にもなりたくないし、研究者にもなりたくない。ただ、わたしは確かに自分がそこに在るということ、ただそれだけを「健康」に認識したい。ただそれだけなんだ。それだけのためにたくさん本を読んだり研究者になる必要があるというのだったら、世界はちゃんちゃらおかしいと思う。そう思わないか?

 ご飯を食べておいしい。夜寝たら気持ちいい。そういうもろもろのあたりまえの喜びを、それとして受け入れられたら、受け入れることでしか、自分が今ここにいるということの土台を感じることはできないし、そこから先の建造物を建てることもできない。自分が自分であること?自分の夢?自分がどうなりたいのか?仕事?やりたいこと?自由?......難しいことなんて、ご飯を食べてもおいしくないような状況で、自分が存在しているだけで罪の意識で気が狂わんばかりになる状況で、考えられるわけがないんだ。そういうときはただ体はこわばり涙を流し、口をついてはダメだ、死にたい、消えたい、許してください、それしか言えないし、寝れなくて寝てもうなされて叫ぶことしかできない。世界の状況が、感染症が、戦争が、政治が、そういうことの全てに対して自分は無力で無知で、どうしようもなく何にもない存在なのだから、消えたっていい、ありきたりの感情だ、あたりまえの身体だ、そうして自分を否定してみても、結局自分で自分を殺す勇気もないし、結局生きていたい自分がそこにいる。それもまたありきたりだというのなら実際そうなのだ。ただ、ありきたりであるということが必ずしも悪なのではないということを知ることこそが重要なのかもしれない。だって、ありきたりであることの本質をわたしはまだ知らないし、知る由もないのだから。そして、ありきたりのことの大事さを考えるために考えたことが、結果としてありきたりであることを責め苦しめるようになっている状況はやはり本末転倒だからだ。なんで、再現=表象的なものや質料形相的な関係や目的論をそこまで忌避する必要があって、そのことで繰り返すことや同じものになってしまうことや、変わらないことを悪とみなして、ないしは反復するようなものをよしとしながらそこに変化がないと本当じゃないんだよなんて変化したがらない心で考えて自分を責める必要があるんだ。現代思想?それが鬱の原因なのならそんなもの本当じゃないか、自分がバカすぎて理解していないか、そもそもそんなこと考える必要がないか、そういうことである。

 同じものにならないことこそが美徳ならば、そんな創造性が美徳ならば、わたしは人間をやめたい。そんなふうに考えさせるような創造性神話すらも陳腐だし、もっと大事なのは、自分が日々自分でしかいられないし、ありきたりの一人の人間だし、つまらなくてくだらなくて無力で、大部分は他人と同じだし、何一つ特別なことはなくて、本当に消えたって世界になんの影響もないことが心の底からわかっていたとしても、ただそこに存在して、今日も一日何かをして、何かをしなくても生きていたということのあたりまえのそんなことを、認められるということ、喜びを感じられるということ、ささやかでも変化を感じられるということ、そういうことが本当に大事なことなんだ。そう思うことがありきたりだということを抜きにしてだ。なぜならそれは普遍的で本質的な事柄だからだ。それをありきたりだといって貶すことができるなんでことはない。普遍性は貶したってバカにしたって普遍的であることに変わりがないんだから。そういうことを「人工物」だとか「相関主義」だとか「アクターネットワーク」だとか「社会構成的なもの」だとか「テクスト」だとか「虚構」だとかいろいろ言ってバカにしたところで、それが普遍的であることには、なんら影響がないんだ。そうなんだ、それが本当なんだ。

 そういうありふれたこと、あたりまえのこと、ありきたりなことに出会ったら、それを貶すのではなく、認めること。まずもって同じものや共通するものに気づいたとき、それを否定し、批判し、同一化という問題としてとらえるのではなく認めること。そこからしか変化や違いを受け入れることも生まれえないのではないのだろうか。陳腐なものや大衆的なものや文化産業やそういうものを心のどこかで批判的に構えることでしか受け入れられない心性は、巡り巡って自分が物質であることさえも批判的にとらえ、貶すことにつながってしまう。これはわたしの体験談で個人的なことだが、実際にあった話なのだ(まあ、わたし自体が虚構の存在だから作り話にすぎないのだけれども)。

 何かを伝える目的で書かれた文章がつまらないしうんざりするという『果てしない物語』の一節にはわたしも共感するけれども、わたしが何かを書きたかったというそのことを否定してまでそんなふうにふるまう必要はないんだと、自分を許してもいいし、そもそもそこで許しを請う必要もないんだと、目的を持ってもいいのではないかと、今はそう思える。それもおそらくは、昨日はきちんと12時には布団へ行って6時間は寝たからだし、最近食事をきちんとしているし、春の訪れを過剰に憎むこともないという気持ちで温かくなっていく世界を眺めていられるからだと思う。そこからしか、世界は創り出せないんだ。いかにそれがありふれていて、あたりまえで、ありきたりだったとしても。

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