澱
計算していないレシートやら領収書やらがが財布とファイルにうずたかく積み上げられて、日記と手帳に記入されていない白紙のページが繰り返されて、自分は見たくもない時間を、それが本当は見えるものではないのに見ないようにしている。
振り返るのも先を見るのも億劫になり、過ぎ去った時間の価値やこれから使うことができる時間の価値を正確に見定めることにも注力できない。そんなときは、漫然と仕事をして、漫然とゲームをして、漫然と惰眠をむさぼることによって、一日をあっという間に過ぎ去らせることだけを考える。
今生きていられるということが苦痛な日もあればそれだけが悦ばしい日もある。もう考えることも薄弱な精神では耐えられないから、一つ一つの成功と失敗をいちいち数え上げることなんてせずに、垂れ流す記憶によって過去はどんどんなかったものとして焚きあげられていく。
今日も夜中にうなされたし、いつもいつもいつも!と言って大声で寝言を言っていたらしい。何に対してそんなことを言っているのだろうか。
虚構としてのわたしが、虚構としての日常を生きているなんてことを、昨日のわたしに言っても、そんなことはあたりまえなんだからもっと虚構らしく振舞いなよ、としか返されないようなありきたりの現実を生きている。
嘘をつくのがへたくそだから、きれいな嘘すらつけなくて、いつしか自分と嘘は同じものになってしまう。そうして密着して離れて見ることもできない息苦しさにわたしが溺れてしまうから、必死にこう言うんだ、いつもいつもいつも!と。
流れゆく思考は川の流れのように、だなんてことを考えていた方丈記のようなわたしは、高校の湿った部室で今でも夕暮れ時にしくしくと涙を流し、今では定まらない思考で言葉の澱を垂れ流している。
それは流れたところで重すぎてそれ以上進めないのだから、川にもならずに海にも行けない。それは自分の足元をふやかして、ぬかるみの中へ中へと加速する重力装置であり、自分を中心にしてよくないものだけを惹きつける磁場に過ぎない。
ひとつ何かを言うと、それによって自分は何かを失ったように感じる。何かを言わなければならなかったから言ったはずなのに、言ったそばから後悔して、そのことで気もそぞろになって今日を無駄にする。そんな心の弱い人間ならばもう何も言わずに黙っていればいいのに、そうもできない自分は今日も何か喋っては嘘みたいだねと自分で思って、そうだよ、嘘なんだよ、嘘だったらいいね、と微笑みながら歯が欠けるほどに歯ぎしりをしている。
病院に行ったほうがいいのかな、なんて行ったほうがいいに決まっているよ、なんて、そんな話ばっかりして、迷惑をかけないためにならなんでもするって言ったよねって、ぐるぐるぐるぐるして、結局予約がいっぱいで世間はそんなぐるぐるで満たされている。
渦になるくらいに自分をかき回せたらまだ空気が入っていい感じなのかもしれないけれど、不健康な三十年物のマコモ汁みたいに真っ黒なわたしは、かき混ぜてもねとねとして秘伝のたれみたいに継ぎ足し継ぎ足し自分を入れては煮詰めて煎じてを繰り返しているにすぎない。
今日も昼ごはんはお肉屋さんの280円のカレーライスとからあげ100グラムだったし、たぶん明日もそうだし明後日もそうだ。たまにベーコンエッグや焼き鳥を食べて、そんなふうに自分の血糖値を上げて眠くなっては見たくないものを見ないようにして、ポケットから取り出したゲームももうクリアしてしまって無駄にドロップ厳選する以外にやることもないのに出てくる敵を虐殺して、毎日風呂に入って垢を落としては、伸びた爪を切り、洗濯物を干す。
不老長寿の薬を求めるみたいにAGAの薬を服用して、退行する各種のホルモンに嫌気がさしながらミノキシジルを塗ったりする。食欲もなくて一日一食しか食べてもいないのになんだか体がたるんでいて、餓鬼みたいに手足は細いのにお腹だけ膨らんで、目は明かなくて二重が四重になって、もう描写するのも嫌になったからもうそれも見ないようにする。
だから今日もわたしはこう言うんだ、いつもいつもいつも!と。それが今日という日の足元に沈んでいく澱んだ距離しか持てないと知っていながら。




