薄情者
通勤時間帯、一人の男が頭を抱えて電車のホームでうずくまっていた。
どう見ても体調不良であるが、わたしを含めて誰も声をかけずに足早に通り過ぎてゆく。
彼に関わっていたら会社に遅れてしまう。遅れはしないまでも、自分のルーティーンが崩される。
もっというと、コロナでもうつされたらたまったものではない。
そんな思いからわたしたちは彼に声をかけない。
そそくさと椅子を確保して窓の外を見やると、彼は駅員の女性に声を掛けられていた。
「大丈夫ですか」駅員の女性はそう言っているように見えた。
男性は、頭を押さえながらお構いなくとでも言っているようだった。
駅員の女性は自分の仕事のためにその場を去って行った。
その後、別の駅員が通りがかり、対応のためにやってきたのかと思ったら、車椅子の方を乗せるためのスロープを抱えており、その男性を一瞥しただけで通り過ぎて行った。
わたしは不意に駅のホームで頭痛に見舞われた。
急に側頭部をハンマーで殴られたかのような痛みが走り、立っているのもままならなくなりうずくまってしまった。
この電車に乗らなければ会社には間に合わないのだが、このまま電車に乗ることはできそうにない。
道行く人は怪訝そうな顔でわたしを一瞥して通り過ぎてゆく。
それももっともなことだ、わたしが逆の立場でもそうするだろうし、今はコロナが怖いからだ。
駅員の女性が声をかけてくれたが、なぜかわたしは放っておいてほしいという気持ちが強くなり、大丈夫ですと強がってしまった。
本当は今すぐにでも救急車に乗りたい気分だが、そんなものの世話になるわけにもいかない。ひとまず動かねば。
電車の発車のベルが鳴り、わたしたちはいつも通り会社へと向かう。
男性は、頭を抱えてエスカレーターの手すりにもたれかかりながら改札方面へと向かっていた。
わたしはその後ろ姿をぼんやりと眺めながら、いつも通り自分の会社のある駅までうたた寝をする。
きっかりその駅に着くと目が覚めるように訓練されたわたしはいつも通り目を覚まし、改札を出て会社へと向かう。
わたしは頭を抱えて、改札方面へと向かった。
どうすればいいのか見当もついてはいないが、ホームで衆目に晒されている状況はよくないということだけはわかる。
どこかベンチにでも座って、近くの病院を探すべきだ。
もしくは駅員に言って救護室を用意してもらおうか。
わたしはふらふらと改札を出るために交通系カードをリセットしてもらうと駅員に声をかける。
痛みに耐えているという仕草をこれ見よがしにしているような格好になってしまっているが、本当に痛いのだから仕方ない。
わたしは、救護室のことを訪ねることはできずに、カードを渡して改札を出て、自分の家に向かって歩き出した。
頭を抱えていた男性はどうなっただろうか。
そんなことを考えてはみるものの。考えたところで本当に興味があるわけではないことがわかる。
そう考えることによって自分が日々の些細な出来事への感傷や記録を残すこと、彼はそのことへの関心の種以上のものではないからだ。
誰も助けてはくれない。わたしも助けようとはしない。
なんて寂しい世界なんだ。
そう思うこともなんだか決まりきった思考のパターンであり、そんなふうに思うことに心を使えるほどの余裕も元気もないわたしたちであるから。きっと彼のことなんて明日には忘れていると思う。
わたしは、今にもその場で倒れこみたい気持ちを懸命に鼓舞して自宅へと向かった。
ひとまず自宅に帰り静養すればこの苦痛からは逃れられる。
そんな希望があった。
しかし、わたしの足はますます遅くなり、通勤時間の雑踏から取り残されたわたしは、一人竜宮城の時間を生きているかのように時間が引き延ばされてべたべたとわたしの存在を曇らせているように感じた。
誰一人としてわたしを気遣ってくれる人はいない。
薄情者。
そんなことをつぶやいたが、何の気休めにもなりやしなかった。
薄情者。
そうなのかもしれない。
でも、人はすべてを愛することなんてできやしない。
いつだって天秤を持ち歩いて、損か得かを考える。
徳を積んだり、いいことをプレゼントするという習慣が成功につながるという啓蒙書みたいなことも本当ではあるのかもしれない。
でも、それもまた大きな意味での損得計算なだけだ。そう思う自分はやっぱり薄情者である。
そうしてわたしは今日は暖かくていいなと思いながら会社に着き、お湯を沸かして先日買っておいた生姜葛湯を飲むのであった。
もう歩くのもままならなくなったわたしは、道端の座っていてもまだ許されそうな段差に腰かけて恨めしそうに頭を抱えていた。
自宅まではあと1キロほどある。
こんな時に安いからと駅からちょっと遠い場所に家を借りた自分を恨む。
ふと見ると、自分の前に一台のタクシーが停まっているのに気付いた。
初老の運転手が窓を開けてこちらに声をかけてくる。
「乗っていきなよ。もちろんお代はいただくけどね」
それを見てわたしは、なんだって最初からタクシーに乗るという発想がなかったんだと自分を疑い、壊死した判断力で何とかタクシーの運転手に、近くの総合病院までお願いします、と伝えたのであった。
とろみのついたお湯はなんで冷めないのだろう。
わたしはボールペンの後ろで葛湯をかき混ぜながら、先ほど勢いよくそれをすすってやけどした舌先をいたわっている。
きっと邪魔するものがたくさんあるから熱が動けなくて、その場所にとどまっているということだ。適当だけどだいたいあってるはず。
そんなことはどうでもいいんだ。
そう、どうでもいいんだ。
エスカレーターを昇る、彼のあの後ろ姿くらいに。




