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昼下がり  作者: 磯目かずま
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文化産業批判批判

 「芸術」という言葉に言いようのない苛立ちを覚えるのはなぜなのだろうか。

 昨日妻と話していて、流れをよく覚えていないがわたしが「芸術なんてこの世から消えればいいのに」と言って騒ぎ、険悪な雰囲気になった。晩御飯に手を付けられないくらいに心身が緊張して、結局何も食べずに風呂に入って酒飲んですぐに寝た。

 

 わたしはいわゆる「文化産業」と呼ばれるものが大好きだ。ゲーム、マンガ、アニメ、イラスト、映画、ラジオ、JPOP、Youtuber、Vtuber、SNS、ネット小説、ラノベ......

 そういうものたちをわたしはれっきとした芸術だと思っているが、世間一般というかなんかの哲学的な概念ではそれは芸術ではなくて「大衆的な消費において付加価値としての文化が再生産されていくことを利用した管理構造」に支配された何かなのだという。

 わたしが冒頭で消えればいいと言ったのは、ここでいう「文化産業」を批判する意味での「芸術」である。

 そういうなんか昭和後期を感じる論調は古臭くてダサいくせに、未だにそれを振りかざして人を傷つける手合いは数知れないし、「サブカル」とか「キッチュ」とかいう概念で「文化産業」を「周辺」に追いやろうとする心理的な構造もまだまだ健在だ。


 逆にそういう弱い文化を、「クールジャパン」だの「オタクは市民権を得た」だのといってやたらと称揚するベクトルも存在するのだが、これはこれでどうかとは思う。

 ただ、令和になった今思うのは、こと日本においては「文化産業」と呼ばれるものが第一線の芸術活動に相当するということが疑いえないということである。


 そう思うこと、思わされること自体が「文化産業」の権力構造に支配されている証拠だ!といってわたしを責めるのはちょっと待ってほしい。

 よく考えてみてほしいのだが、あらゆる創作活動において「文化」から逃れて活動できているものがあるだろうか、いやない。

 いわゆる芸術性の高い作品とか、もっというと「現代美術」のような作品が既存の枠組みにとらわれないような性質を表現しているときでさえも、それは既存の枠組みがあったからそうしていられるのである。

 そもそも、芸術やアートなるものは、人間的な営みとしての「文化」によって成り立っているといえる(ここで卵が先か鶏が先かといって食い下がってくるのは野暮だ!)。

 「文化産業」という概念がなんとなく人を攻撃するような感じがあるのは、大量消費社会でそれを消費させられるという構造に無批判にそこにどっぷりつかっているようなのはダメなんだという批判精神が宿っているからだ。

 基本的には人は文化において生きているし、問題なのは無批判に文化に飲まれるなということだけなのである。


 今の「文化産業」は確かに大量消費のたまものだし、時代の結果ではあるが、そんなものはいつの時代だって同じである。

 フィレンツェだってメディチ家がいなかったら成り立ってないし、浮世絵だってまんま「浮世」によって成り立っている。

 たまに「芸術をやるのならその文脈に乗らないとだめ」という人がいるが、浮世絵が西洋でもてはやされてそれを取り入れた印象派とかが美術史に残ったのだって、それは西洋の文脈でいいように解釈したからというだけであり、日本的要素のアート進出というのもそれをなぞっているだけである。

 要するに、芸術やアートをするのだって既存の文化的な枠組みに則ることが第一に重要なのであり、そこで「文化産業」という概念を使っていかにもファインアートとそれ以外は違いますというような風を装うのは破綻した論理だということだ。

 

 「文化産業」的なものだって、その枠内で創造性を発揮してしのぎを削っている。むしろ、ムーブメントして主流なものは大衆からの目にさらられて、厳しい淘汰の上で成り立っている。生き残っているものは需要にマッチして、技術や質も非常に高いものが求められている。

 そういう大きな流れをそんなものは「文化産業」に過ぎないなどといって批判するのは楽ちんだし、人々が作り上げた意味や価値を利用してそれを笠に着た「芸術作品」を作るのもまたただの二次創作の一種である。

 「文化産業」という言葉には、批判的な意識だけではなく、大衆文化のきらびやかな世界にのっかれない立場からのひがみややっかみも同じくらい含まれているのだ(むしろそういう気持ちをテーマにしたアート作品も多く見かける)。


 こうした一連のごたごたは、つきつめると「新しさ」とは何かという問題で成り立っている。

 すなわち、「文化産業」は新しいものを生み出さずに文化の再生産に従事し、芸術はそれを破壊し新しさを作る、という考え方が根底にあり、人はみんななんだかんだで新しい何かを欲しているわけだから、その新しさとは実のところ何なのかということで議論が紛糾するのである。

 何か「新しい」ことをしようとしても、実は世界の誰かが既にやっていたという場合が多い。だから、本当に新しい発見をしたら称賛されるし、歴史に名を残してしまうのである。

 この「新しさ」は科学的な発見であっても、芸術的な達成であっても、結局は文化的な行為の結果であり、何かからの新しさとして常に比較によって成り立っている。

 それにも関わらず、芸術が本当の「新しさ」を作るといわれるのは、芸術を成り立たせている「美」というものが「新しさ」の権化みたいなものだと考えられてきたからである。

 ここで「美」という概念についてくだをまくのは辛いのでしないのだが、要するに「美」というものは「新しさ」の真理みたいなものであるから、それを体現している芸術は新しいもので既存の何かにとらわれないということのだ。


 そんな理想化された芸術なんて今どき考えるのはしんどいし、そんなことを考えるくらいならわたしは頑張って「文化産業」の仲間入りをしたいと切に願う。

 文化産業を批判していられる立場は、すでに生活が成り立っているところで悠々自適にそうしているか、もしくは戦略的にそうしているのだと思う。まずもって経済活動として文化産業に参入するので精いっぱいのわたしからすれば、そんな雑音にはなりふり構わず生存するために頑張るしかないのだ。

 

 そんな気持ちがわだかまっていたから、昨日わたしは妻にまた恨み言を吐いて険悪にしてしまったのだと、文章にしてみて改めてよくわかった。

 妻はそんなわたしを往復ビンタで慰めてくれたし、優しくしてくれて大変に助かっている。今度一緒に温泉でも行ってのんびりするか。


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