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昼下がり  作者: 磯目かずま
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何にもない

 何かやるべきことがあったような気がするのに、何にもないような気分のときがある。

 そういうときはへそのあたりの内臓が、ぼんやりとした満腹感のようなものを常に発していて、だるいようなだるくないようなそんな気持ちでいる。

 そういうときはたいてい大事なことを忘れているか、見ないようにしているか、どっちかである。忙しいときはあんなに忙しいような気がするのに、そうでないときは何でこんなに何もないような気持ちでいられるのだろうか。


 そんな気持ちでいられるのは、そういられるように自分がしたからだ。そのこともわたしはすぐに忘れてしまう。

 何にもないという幸福は、何か必要なものへの焦燥感に苛まれなくてもいいということである。必要性はそのことへ心を縮約してしまうから息苦しくなる。そこから逃れるためには必要なものを手に入れるしかない。

 何にもないと言いながら、わたしは必要なものを手に入れて生きてきた。学位、仕事、家庭、不自由ない生活。そういう充足があって初めて、空虚だとか何にもないだとかの贅沢を感じられるのである。

 

 自分に何にもない気がするのに、自分はすでに何かであって、そこから簡単には変われない。そんなことを考えなくてもいいように、人は自分というものを受け入れる。

 何にもないという何かであるということが、時間によって積みあがってしまう。何かになろうとして何かになることだって当然できるのだが、そうして変われる部分はさほど多くはない。

 ご出身はどこですか?好きな食べ物は何ですか?ご職業は何ですか?好きな音楽は何ですか?ご趣味は何ですか?好きなものは何ですか?

 そうした質問に答えられること、そうとしか答えられないこと、答えたくないこと。それらがすべて自分なのだ。

 

 昔、表現することは「他人とつながること」だと言われた。そのときわたしはうさんくさくてそのことをよく考えなかった。

 今でもそんな風に言われるとうさんくさく感じる。言っていることはまあ、その通りだと思うし、このように文章を書いて人に伝わるという現象はそのようにしか言い表せないとも思う。

 でも、この言い方の引っかかる部分は、他人とつながることがよいことのように思われるということ、そしてつながることで一つの大きな何かになろうという意志を感じるということである。

 何にもないわたしという存在が、実は大きな何かとつながっていて、そこから表現も生まれてくるし、そのことによって表現は成り立っている。そういう世界観がなんだか息苦しいと思ってしまうのは、何でなんだろうか。


 何にもないことをそういう何かであることのほうから考えると息苦しくなるとするならば、もっと何にもないことを考えればいいということもあるかもしれない。

 例えば、自分であることもその自分が成り立っているということもすべて偶然で理由なんてないと考えることができる。そうすれば、あらゆるものは何にもないのにそうなっているのだということでぶっきらぼうになることができる。

 自然法則も、言葉も、考えることも、全部何にもないことだ。そういう子どもっぽい楽天的な発想は、怠けるための口実には最適である。「だって全部は偶然なんでしょ」そういえば何でも許されると思いたい気持ちもなくはない。

 

 すべて何にもないということも息苦しいならば、どうすればいいのか。初心に帰ってぼんやりとした気持ちでいればいいのだろうか。

 わたしは何にもないときの気持ちを描写しようとしたのに、いつの間にかそれ以外の何かがたくさん出てきて窮屈になる。

 そもそも、何にもないとか何かがあるとかそういうことを考えること自体がありきたりの考え方だとして考えようとしても心にデバフがかかってきて思考が止まってくる。

 考えていることがありきたりだ、という圧力は心のどこから来るのだろうか。これは、「つまらない」という気持ちとかなり重なるものである。


 つまらないというのはどういうことなのだろうか。興味がもてない、もつ価値がないということは、生存するために効率的にはたらく場面もあるだろうし、単に無気力な場合もある。

 退屈だ、というのも同様かもしれない。人は退屈に耐えられないから何かをしている。狩人にウサギを与えても満足するわけではない。そういう考え方自体もなんだか退屈だ。

 毎日家に帰って何となくパソコンをつけてツイッターを見たり、Youtubeを見たり、ソシャゲをしたりしている。テレビは持っていないのだが、持っていたら見るかもしれない。車に乗っているときはラジオを聴きたいし、旅行には一冊くらい本を持っていきたい。

 これらを全部なくしたらと思うと、やはりわたしは退屈には耐えられないのだと思う。おそらくここでこうした文章を書くのも、退屈でつまらないからそうしているだけだ。


 そしてまた最初に戻るのだが、こうしていられるというのがそもそも幸運であり、偶然であり、ある意味必然的にそうなるように生きているからそうなっているのだ。

 辛いことも苦しいことも、危機的なこともなく、毎日ほどほどの疲労と快感を享受して生きている。そんなつまらない生活をつまらないと言えることが幸福だということ自体がつまらない。


 何にもないときの気持ち、それが14時ころに世界に蔓延しているように感じるのは、どうせ太陽と血糖値のせいなのだ。

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