イルミネーション
師走にもなると街は、電飾をぐるぐる巻きにされた哀れな街路樹たちのため息でいっぱいだ。いつも思うのだが、あれは樹木的にはどうなのだろう。実は暖かくて嬉しかったりするのだろうか。
クリスマスの飾りつけはいたるところであふれかえっていて、普段そんなにどこにしまってあるのかと思うくらいである。コンビニごとにチープなツリーとオーナメントが出されていたり、駅にでっかいのが飾ってあったりする。職場にもポインセチアの造花と2.5メートルはあろうかというツリーが飾られていた。
わたしはそんな浮かれた年末の雰囲気が嫌いではない。なぜだかはわからないが、クリスマスが近づくにつれ自分がまだサンタさんを信じていたくらいのバブルの残滓のような記憶がよみがえってきて、暖色のとばりがプレゼントを待ち望む子どものような高揚感を記憶の中で演出してくれるからだと思う。
わたしの実家には真鍮製の卓上クリスマスツリーがあった。それはツリーのシルエットに切り抜かれた真鍮の板を2枚組み合わせて立体にしているもので、高さは30センチくらいだった。ところどころフックのような部分がありそこに同様に切り抜かれた天使や星のオーナメントをぶら下げることができた。
ツリーは板状の台座の上に乗っていて、くるくると回転させられた。金属が鋭利にカッティングされていて、不用意にぶつかると危ないという緊張感と、錆や薄さからくる儚さを同時にまとっていたそのツリーのことがわたしは好きだった。
そのツリーには飾りつけをする余地がなかったから、電飾やいわゆる立体の飾りをつけることはなかった。代わりにそのツリーを飾るときには、部屋を真っ暗にしてろうそくの明かりだけを灯して、浮かび上がるそのシルエットをくるくると回して楽しむのであった。
いつのころか忘れてしまったが、そのツリーはどこかへ行ってしまって、クリスマスに飾られることもなくなった。たぶん、妹が生まれて危ないから飾らなくなったのだろう。今もまだ実家の倉庫にあるのだろうか。それとももう捨ててしまっただろうか。
田舎にはクリスマスのイルミネーションをやたらと豪華にする家がある。家一軒、庭と合わせて一つの作品であるかのように仕上げていて、等身大のサンタやトナカイはいうに及ばず、万国旗のように電飾を四方に張り巡らせて家の壁には巨大なリースをぶら下げたりしている。
わたしはそんなこてこてのイルミネーションもまた嫌いではない。なんでこんな田舎の一軒家をそんなにまでして光らせるのか、電気代がすごそうだな、というような疑問を抱かせつつ、人々の目を少なからず楽しませているというその珍奇性がわたしには大変好ましく映ってしまうのだ。
いつか見た一際手の込んだ飾り付けは、光のアートと題されたもので、その説明には「光はそれが通り過ぎたときには消え去ってしまう。しかし、何かの痕跡をきっと残しているはずである」ということが書かれていた。
わたしはそのときそれを読んでいたく感心して、そもそもわれわれはイルミネーションみたいなものなのかもしれないと思った。
誰もが光らせなくてもいいものを光らせて毎日を過ごし、明滅を繰り返している。でも、光はただ通り過ぎていくのではなく、世界を触って、それを少しだけ変えてから去ってゆくのだと。
冬の夜を彩る光はそんなことを思わせるから、楽しげなのに少し悲しい色をして見えるのかもしれない。
わたしは、一足早く聖夜の装いをまとった帰り道を歩きながら、うっすらと白い息を空にふうっと吐き出した