体壊したい病
ツイッターなどを見ていると、クリエイターの方が体を壊してしまいしばらくお休みします、ということを言っているのを見かける。わたしはそれを見ていつもうらやましく思う。
そもそも、体を壊すほどに激務であるという状態自体がうらやましい。体なんて壊れたって別にいい。体が資本といえるまでの体なんて持ち合わせていないのだから。
体の価値を高めるために体を酷使して、価値が高まったころにはボロボロだ、というのもよくあることかもしれない。本当に体を壊してからは、絶対になんであのときもっと体を大事にしなかったのだろうと後悔するに違いない。それも、不治の病やら一生苦痛に苛まれるようなものだったらなおさら。
しかし、いつも自分の限界にリミッターを作って、体なんて壊したこともなく、そもそも風邪すらそんなにひかなくて、倒れたくても倒れられない妙に丈夫な体をもっているわたしは、体を壊したいという欲求を少なからず持っている。
こういうことは、本当に体が弱くて苦しんでいる人に申し訳ないことであるかもしれない。そして、丈夫な体に育ててくれた親に感謝すべき案件であろう。
健康第一であることはとてもよくわかるのだが、なぜだかそれと同じくらい不健康さへの憧憬が捨てきれない。タバコを吸い深酒をしてくだをまくことへのあこがれとか、エナジードリンクの缶をPC周りに山積みにして徹夜上等で仕事したりとか、いつでもデスマーチなブラック企業が頑張ってる話とか、そういう話にどうしようもなく惹かれてしまう。
わたしも睡眠時間を削って仕事したりとか、全身にブツブツができて体重が10キロ減るくらいに体を酷使したことはあるし、それでなにがしかを成し遂げたことも確かかもしれない。そういうときはなんともいえない達成感と高揚感もあるし、若さに任せてなんでもごり押しできているのでそういう成功体験を記憶の中で美化しがちというのもあるかもしれない。
でも実際には、そういう生活は長続きしなくて、無理をしたらその反動で必ず生産性が落ちてしまうものだ。
現に、無理をして何かをした後に本当に体を壊して仕事ができなくなったり、燃え尽きて手につかなくなったり、何かに邁進していておろそかにしていたことであとから問題が発生したりする。
本当に生産的な仕事ぶりというのは、効率を最大限重視して壊れる一歩手前までの仕事を長期間計画的に継続することであり、耐えられなくはないくらいのしんどさにさらされ続けるような思慮深い忍耐が必要なことなのである。
だから、壊れたい、という欲求は実は楽になりたいという欲求と無関係ではない。限界を超えて頑張れば逃れがたい日常から抜け出すことができるかもしれないから。
ああ、明日隕石降ってこないかな、世界滅ばないかな。そういう非日常蕩尽欲求みたいなものが体を壊したい欲求には含まれているのだ。
本当に必要なのは、スケジュールを立ててそれをしっかりとこなしていくという至極まっとうなことであり、それが多少無理をして体を壊すことになったとしても、そこから反省してさらによりよくなっていくようなシステムを構築することなのである。
そういうこともせずに、体を壊している輝かしい世界の住人を暗い場所から眺めてうらやましがっているようだから、自分は今こうしてしょうもない文章をしたためているのだということに落ち着くのかもしれない。
体を壊したいと望むより前に、自分がどこまでやったら壊れるのか、生産性を上げるにはどうすればいいのか、というようなことを具体的に実験して経験を深めるべきなのである。
でも、少なくともごくごく健康に何の問題もなく普通に生きていられることへの危機感が体を壊したいという気持ちに含まれていることは確かであり、その自壊する欲求を行動に転化できればプラスに働く性質の感情なのだとは思う。体壊したい病は結局、変わりたい、変わらねばという心の叫びがわだかまっているだけなのだ。