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昼下がり  作者: 磯目かずま
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若さ

 ある感情がとくにとるにたらないものだったり、だらだらのほほんとしたものだったとしても、それを描写しようとしたときには鋭敏で執拗な観察と描画力が必要になるというところのギャップが、表現の難しさなのだ。


 のんびりとした気持ちは、のんびりとしていない有様によって初めて知られうる形になる。このことを真に理解したときに、本当にのんびりとした気持ちを得ることができる。わたしは、そんなことを考えながら、食後のコーヒーを片手に恵まれた日々に皮肉を送っている。一人仕事もなく今日も打刻だけして、スマホをいじったり、オフィスをうろうろしたりして、カレーを食べて今に至る。


 わたしが知りうる世界のすべてをきちんと描写しえたとしても、それが全然鮮やかで貴重な経験ではないこと、偉人や成功者のような有意義な人生訓もないこと、ベストセラーの啓蒙書で書かれるようなものでもないし、たくさんフォローされる大衆的で劇的なコンテンツでもないこと、そんな事実を噛みしめることでわたしは、今日も命を一日分無駄にして、それと引き換えに命をつないでいる。


 わたしがいなくても世界は問題なく進んでいく。そう思って消えたいと思えるほど繊細な心はもう失われてしまった。いなくてもいい存在がすべて消えたら、世界はきっと無になってしまうだろう。どうでもいいものの組み合わせ、相対的な必要性。社会的な地位とか経済的な基盤とか、国籍とか能力とか、そういうのの全体の波の中の、分割できない水の一粒みたいなもの。


 今どきの若者は~という常套句を使うことよりも、今の若い人はすごいね~ということのほうが圧倒的に多い。世界は自分が思っているよりも加速している。自分ができもしない勉強やスポーツの部活で浪費した時間で創造的なことをしている子どもたち。機器の発達、人間の役割の変化。AIが仕事を奪うとかいうちょっと前の流行りを真に受けることはないけれども、若い人に仕事を奪われることについては真剣に考えたほうがいい。


 もう自分は若くない。おそらく人生も半分は過ごしていると思ったほうがいいだろう。無駄なことをして、遠回りしたほうが豊かな何かが生まれる、そういう常套句もまた自分は信用できずここまで生きてきた。無駄なことを極力しないようにしてきたのに、結局人生の大半は無駄だった。多くの人間は、そういう事実を慰めるために、無駄なことを肯定的にとらえているだけだと思う。


 だらりとした気持ちで自慰行為に励むような緩慢な生活を送ってきたわたしは、かといってそんな人生を肯定できるでもなく、きらびやかな世界へは憧れをいだいている。しかし、そういった世界へと足を踏み出そうとするたびに、自分には無理だ、自分は人の作ったものを食べて生きるだけの存在だ、自分はもう老いてしまい手遅れだ、という気持ちで何も実行することができない。たぶん、そういうことを考えるその瞬間に足を踏み出す勇気があれば、その瞬間はいつでも手遅れではなかったし、今もまだそうなのだろう。しかし、過去の足りなさにばかり目が行って、現在の不足に目を瞑ろうとするわたしは、永久に未来の充足に向かって進もうとしていない。


 かつて自分は若かった。少しばかり、最年少〇〇とか、若手〇〇とかいってもてはやされたこともあった。しかし、そういうもてはやされ方をしているうちにもっと確固たるところまで加速しておくべきだったのだ。若さを売りにできる期間は大変短い。命短し〇〇、とはよく言ったものだが、若い時間は本当に金に換えられないから学生は援助されて学校に通うのだろう。その仕組みがよくわからないから、人は皆若さを無駄にする。老いてからしかその大切さに気付けない、本当の意味でそのことから距離をとってみることができないから、若さとはとらえがたいものなのである。


 若いときは早く大人になりたいと少しくらいは誰でも思っただろう。若者特有の社会への憤りや、理不尽さへの反発。もっとも、ずっと子どもでいたいという気持ちもあったし、それで「こどおじ」とかになってしまった人もいるし、自分もモラトリアム人間の一種だろうと思う。若いうちに大人顔負けのことをするようなやつが、そのまま大人へのスタートダッシュを決めているようなパターンは大変けっこうなことだ。そういう少し背伸びしていたりするような生き方は、若さのモラトリアムをそこに染まらないように最大限生かしたようなものに思えて、とてもうらやましく思う。中高生のころにお金を稼いでいる人を見てとてもすごいと思ったあの頃の気持ちは、結局今でも若さへの渇望感として失われていないのだろう。


 大学生なんて実際にはほとんど子どもでしかないが、中にはすでに出来上がっているやつがいるのは確かだ。そういう人がうらやましくてしょうがなかった。そんなうらやましさは、院卒で、博士出て、ストレートで、新卒で、20代で、30代で、40代で…というように際限なく続いていく。いつになったら一人前になれるのだろうか。かといって、伝統工芸みたいに60歳で若造で…みたいな価値観も辛気臭くていやだが。


 人間には一人分の出力の限界みたいなものがきっと存在する。それは使い切りの電池みたいなもので、それぞれ決まっているのだと思う。どれだけ人一人が頑張ったって、一生のうちに消費できるカロリーはたいしたことないと思う。そういうことだ。その総消費エネルギーでいかにして何かを成し遂げるのか、総消費を増やせるのか、そういうことが、その人の人生を劇的なものにしたり、偉大なものにするのだ。偉大さというのは、特異点ということだ。普通にしていたらそうはならないというところに自分を持っていくというシステムのことだ。ああ、こんなこと、よく啓蒙書にでも書いてありそうだな。


 昔、啓蒙書を読んでからラブレターを書いて、内容が意識高い感じになっていたのを思い出す。今思うととんだ黒歴史だ。だが、当時は、自分の「言霊」で人に「いい影響」を与えられるような人になろうなどと本気で考えていたし、「行動を変えれば人生が変わる」などというありきたりの警句を本当にそうしようと考えていた。そのころの自分は若さを有効活用していたのだろうか。かたくなで不器用で、まっすぐすぎる、そういう言葉でまだ描写できたころの自分。青臭いというふうに片づけてしまいたい自分。そんな自分を今のわたしは受け入れられないくらいに心が狭くなってしまった。


 筆を止めたら死ぬ、とか一日書かなければ三日飢えるとか、そういう切実さが仕事と直結している人間がうらやましくて狂いそうだ。人から見たら、こんな文章を会社で書いていてろくに仕事もしないで金をもらっている自分がうらやましくて憎くて殺したいくらいのこともあるかもしれないが。


 はやく定時になってくれないだろうか。この帰るまでの数時間がもどかしくてしかたない。さっさと帰って自分の作業をするのだ。人からうらやまれるような人になりたいのだ。自分の作品で人を殺したいのだ。うらやま死するくらいの何かをそこに作りたいのだ。その熱量が本当なうちに、フリじゃないうちに、自分がまだ若いうちに。


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