昼下がり
一つの物語が生まれるまでには、それ以前に多くの時が必要だ。そう言い聞かせることでわたしは、筆をとれない日々を忙殺していく。これといってすることもない事務仕事に従事し、早く定時にならないかということばかり考えて、メールの更新ボタンを押してみたり、コーヒーをすすってみたり、会社のWi-fiでも見て許されるくらいのネットサーフィンをしたりする毎日。そういう無為な時間を勤務時間だといって自分に言い聞かせることで、消費されていく人生と引き換えにわたしは給与所得者になれるのである。
筆をとれない、といったが、わたしは日々のとりとめのないことを下手の横好きで書き記すことを常としている。もちろん、小説家や筆でお金を得ているいわゆるプロの物書きではない。ただの紙の束でしかない。わたしは精神の保養もかねて文章を書くのだ。よかったことやいやなこと、今の自分が何を思っているのかを知るために書く。そうしていることで、わたしは、書きながら自分の感情や思考が、そこに現れることを知る。そう、それは書くことによってしかそこに生じえなかったもののように。
でも、書くことの前にはやはり何かがあって、それをとらえたいということもまた本当なのだ。それは、本当は自分が「作品」を作りたいのに、無為に日々を過ごして緩慢に死に向かっているという隠された危機感や、今こうして、会社で仕事をしていると見せかけてこんな文章を書いているというような、有意義さへの渇望のような気持ちが折り重なって自分の中に堆積していることの表現なのかもしれない。
地層は上から見てもただの大地にしか見えない。だから、気持ちというのは今ここのものしか感じられない。それらを層として感じるためには、断面図を見る必要があるし、ボーリングをしたりエコーをかけたり、X線を当てなければならない。そうやって見方を変えたり透視できる装置が人間には必要なのだ。
それが文章であったり、芸術であったりする人もいるし、科学やスポーツなど何でもいいけどそういうのである人もいるだろう。わたしは文章というある意味原始的な手段でそうしていることが常だが、それは自分が怠惰で無能な人間だからでもある。なぜなら、母国語で文章をしたためることぐらいなら、一般的な教育を受けた人間ならもっとも簡単な行為の一つであるし、それ以外のもっと凝ったことをする気もなければする能力もないからである。漫画を描いたり、絵を描いたり、物を作ったりすることもおっくうだし、研究したり社会の変容を促したりするような気概もない。自分はこういう文章を打ち込むくらいが性に合っているといって、暖かい部屋で運動不足生活に甘んじているのである。
しかし、そういう自分に不満がないかといえば、ないとはいえないのが困りごとなのだ。そもそも、そのことになんの問題もなかったらこの文章はこの世に存在しているだろうか。給料をもらいながらただ定時に出勤して退勤して、飯食って風呂入って寝る生活を繰り返していればいいだけであり、そうして一市民として税金を払って、結婚して子供を育てて、そういうありきたりの幸せを享受していればいいだけである。そんな人生のビジョンに薄暗い灰色などんよりとした幸せ感を抱いている世紀末生まれのわたしは、新世紀に生まれたニュージェネレーションのまぶしさにも、先の世代のギラギラとした感じにもなじめず、夕暮れのソファにすわってゲームボーイカラーでポケモンをやっていたあのころがユートピアなだけのしがない存在なのである。
わたしはそういう赤黄色の世界の記憶を、忌々しいとも懐かしいとも思いながら、そうして生きてきた自分は、ずっとあの頃の切れやすい単三電池と同じくらいの出力しかないスペックの人間なのかもしれないと心の底で感じているのかもしれない。同世代のもっとすごい出力でOSも優れている人間は、わたしが毎日昼寝をして、夜寝もして、朝寝もしているうちにはるか遠くまで進んでいる。わたしはそういう人たちを見て、苦しみたくないからといって心を失ったまま「すごい人もいるもんだね」といって微笑する。「作家として大成するのはほんの一握りだよ」ということの事実と、自分に「魅力」がないという現実。ふとした瞬間にわたしはどうしようもない羨望と羞恥心と、悔しさで気が狂わんばかりになる。そういうときわたしはやたらと皮肉になって、目に入るもののすべての揚げ足をとって、「あんなのは全然よくないよ、全然本当じゃないよ」という言葉で世界に負け惜しみを言い放つのである。
わたしは、穏やかにコーヒーを飲んで午後の眠気に誘われているとき、狂気がどこかに行ってしまっていることを喜びつつ、その緩慢な状態自体が一つの狂気に思われてくることでいてもたってもいられなくなる。今、こうしているあいだにものすごい仕事をしでかしているやつが世の中にはいるんだ、という至極まっとうな推察によって、ぼんやりとした自分のうすら寒い幸福を何とかしてカフェインの興奮の向こう側へと持っていきたいというような加速する気持ちが鼓舞される。それでも自分は、食後の血糖値の高まりと、やることのない暇なオフィスで、うとうととしながら落ちてきた陽を感じているにすぎない。ありきたりの日々を過ごせるということを昔の自分に見せたら、ああ、未来の自分もゲームボーイをやりながらごろごろする自分と同じなのかと安心するだろうか。それとも、こんな大人にしか結局なれなかったか、といって悲しむのだろうか。
そして、文章をしたためることにも少しばかり疲れてきたわたしは、そろそろやめようかな、メールが来てないか確認しようかな、荷受室に荷物でも取りに行こうかなと、しょうもない仕事で気晴らしをしようと考えている。結局自分にとって今の仕事は、定時までの暇つぶしみたいなものだ。締め切りのある重要な仕事や、自分から発案するプロジェクトなんてものはないし、仕事を前に進めるなんてことは考えもしない。来たものをこなし、やりすぎても何もないからただひたすらにだらだらと過ごすことに最適化された、無能な給料泥棒の一人である。コストカットをするならばまず自分のような人間をカットすれば世界は平和になるに違いない。わたしよりも過酷かつ必要不可欠な仕事を担っている人はごまんといるに違いないが、そうした人よりも給料をもらっているかもしれないくらいのほどほどの給料をもらっていることもあるし、そうした給料が、社会のお荷物なくらいには納税額もたいしたことない低所得者層であるという事実もまた、自分を無気力にさせる。
自分の仕事をして、つらい思いも、いい思いもたくさんして、自分よりも「生きて」いる人々に比べたら自分はなんてつまらなくて、経済的価値もなくて、人材として劣っているのだろう。社会の歯車として生きることは別に多かれ少なかれみんなそうなのだからいいにしても、自分はいい歯車でなければ重要な歯車でもないのだ。歯車、歯車、歯車。世界が歯車で回っているなんていう産業革命的な世界観に当てはまるような人間は、わたしにとっては幸福な存在である。今の人は何に例えられるのだろうか。ネットの世界に漂う電子ミームの一つであろうか。そんなものは、今まで表に出てこなかった人間の欲望がこの世に見えるようになったものにすぎない。そう、この文章のように。それらは、歯車のようには無骨に働かないし、もっと陰湿に人を殺すこともできる。ただ回っていればいいとそうしていられる歯車は、それぞれが言葉をもってしまったことで、持ち場を離れて鳥のように囀り始めてしまった。それらは、自分の仕事をする歯車ではなく、その声で世界をざわめかせる。
統一感のあるすばらしさは、バラバラになったもののよさにとってかわられたのだろうか。烏合の衆も集まれば何かの思想を持つということが、後付けの統一感としてより本質的なものだとでもいうのだろうか。何かの目的のために何かをなすということの尊さは、偶然性に身を任せることの無計画さに打倒されてしまったのだろうか。かといって、判断基準が失われたときに、判断できる力として美しいものが再度求められて、それが統一をもたらすのだろうか。何度も何度も同じことを考えては繰り返す思考は、窓際族が同じ風景しか見ていないからそうなっているのだろうか。
午後の幸福な日差しは、そうこうしているうちにまた夕暮れの世界となって、足先に寒気を催す気温になってきている。わたしは窓の外を眺めて、季節外れの桜の花がなぜ咲いているのかを考えながら、新しいコーヒーを汲みに行くのである。