第2章「遭遇」①
暗闇を歩いていた。
民家の明かりはすでに消えている。人々は闇の中、それぞれの住処で昏々と眠っている。
誰一人歩いていない街並み。
静まり返った街並み。
誰もここには居ない。
何の音もしない。
「無」の世界
無人の世界。
無音の世界。
コレは、そんな「無」の世界の形だ。
だけど、そんな世界にもまだ残るものが在る。
街灯の明かりは無機質に光っていた。そんな街灯の周りには、羽をバタつかせた蛾達が性懲りもなく飛び回っている。
眩しい。
街灯から離れていく。離れれば離れるほど、光は消えていき、それもいずれは消える。
光は消え失せ、闇は闇を強くする。
だが、そんな中で尚も光るものがある。
ふと、空を見上げた。
「ああ……」
溜め息が漏れた。
--この世界でも、月はこんなにも綺麗だ。
○○○
時刻は、二十三時四十五分。
辺りは静けさに包まれていて、微かな物音にすら敏感に反応してしまう。自分の五感が、いつになく研ぎ澄まされているのが分かる。
夢の中で感じていた体内時計では、おそらくこれくらいの時間だった。何の根拠もなくそう思い、こうしてこの時間にこの場所に来てしまった。
目の前にあるのは、私が普段通い慣れているいつもの学校だ。だが、三年通い続けて、見慣れてしまったはずの校舎の姿が、今は全くの別物に見えていた。
まるで、暗闇の中に聳える禍々しい城みたいだ。
自分の想像に、思わずゾッとしてしまった。そう考えてみると、本当にそう思えてきてしまい、恐怖心が煽られる。
ギュッと口元を引き締めて、学校へ向かって歩き出した。
学校の中は、暗くてとても静かだった。
静寂,沈黙という言葉は、この空間の為にあるのだなと思えるほど、今私が見ているこの空間は、純粋な「静」に包まれていた。普段、様々な生徒たちの声で埋め尽くされている校舎も、今のこの時間はこんなにも空っぽだ。
この時間を、昼間のあの騒がしさに少しでも分けてくればいいのに、なんてそんなくだらないことを考えつつ、律義に玄関で内履きに履き替えた。
廊下に、内履きのタンタンタンという音が響いていく。その音は、この空間には大きすぎるくらいに響いた。
階段の前まで来ると、迷うことなく階段を上り始めていた。
上に行けば、何かある。そんな予感だけがあった。
誰もいない、何もない階段をゆっくりと歩いていく。なぜだか、一段一段上っていくこの足が、だんだんと重くなっていくような感じがした。その感覚が、堪らなく嫌だった。
ようやく階段を上がり終え、三階の廊下に出た。
いつも過ごしている教室がある場所だ。何気ない日常の風景の一つ。普段との違いといえば、昼か夜か、明るいか暗いか、人がいるかいないか、騒がしいか騒がしくないか。ただ、それだけの違い。
そう、たったそれだけの違いのはずだった。
それだけだと、思ってたのに。
「何、これ」
思わず、呟きが漏れた。
おそらく、普通の人が見たら、いつもと変わらない廊下の風景なのだろう。何一つ変わらない、普段通りの風景だ。
でも、違う。
これは、視覚的なものではない。そんなはっきりと目に見える実質的なものではない。もっと感覚的に感じる、どうしようもない嫌悪感。
この空間は、何かがおかしい。
歪んでいる
壊れている
解れている
どの表現も、当て嵌まりそうで違う。何て表現すればいいのか分からない。ただ分かるのは、「違う」ということだけ。
そして、その違いの原因も何となく分かる。
ここには、何かがイる。
意を決して、歩を進めた。足が地面に呑みこまれていくような感覚がする。歩くたびに、気持ちが悪くて、頭にチクチクとした痛みを感じる。しかも、室内だというのに異常な程の寒気まで感じる。
痛む左方の頭を片手で押えながら、ようやく自分の教室の前まで辿り着いた。扉は、開いていた。
中を見なくても、感覚的に分かった。
この壁の向こうにイる。
そろそろと顔を扉に近付けていく。慎重に、顔の半分を出して、中の様子を覗いた。
窓際の席のところに、真っ黒な人影が立っていた。
真っ黒な人影は、首を下げていた。まるで、そこにある何かに向けて祈りを捧げているように見えた。
その窓からは、おぼろげな光が差し込んできていた。その光のせいで、あそこにいる人は影になってよく分からないのだ。こちらからはどんな服を着ているのかさえ判別できない。
人影の向こうには、誰かが机に座っていた。こちらからでは、男か女かもよく分からないが、ただその人は外を見つめていた。
その人は、まるで人影になど気付かない様子で、ただただ外だけを見つめていた。人影は、その姿をじっと見下ろしていた。
そのときだった。
「とても、綺麗だね…」
突然、声が聞こえた。どちらが発した声なのか分からない。だが、あまりにも脈絡のない言葉だった。
その言葉には、返答がなかった。
その代わりに、人影が何か手に持っていた長いものを振り上げた。
その瞬間、思った。
これは、デジャヴだ。
シュッという鋭い音。
ドサッという鈍い音。
そんな音が、教室に響いた。
倒れたクラスメイトからは、トロトロと液体が流れ出てきていた。その液体の色は、陰で隠れて見えない。だが、私には何となく分かってしまった。
紅イ
それを見た瞬間、私は顔を掌で覆っていた。
『絶対に、夜の校舎には入らないで』
私は思い出していた。
『絶対に、来ちゃ駄目だからね』
昨日の月夜君の言葉を。
私は、指の間からその眼でじっと目の前の光景を見つめた。
ああ、月夜君…
意味が、分からなかった。
私は、どうしてあなたの言いつけを護らなかったのだろう。
しかし、そんな後悔はもはや遅過ぎた。
私が見つめているその先で、
その人影がゆっくりとこちらを振り向いた。
影の中で異様な輝きを放つ双方のヒカリ。
この暗闇の中で、見えるはずの無いその眼が、こちらを向いた。
その瞬間、
戦慄
その眼を見た瞬間に感じた感情は、「恐怖」なんていう人間的な感情ではなかった。もっと動物的な、本能的な、根本的な感情。理性ではどうしようもない感情。
この感情に言葉を充てるとすれば、「畏怖」、いやもはや「畏敬」とすら言ってしまいたくなるほどのこの感情。もう、どんな言葉が似合うのか分からない。
ただ、目が合った。
ただ、それだけなのに、
私はこんなにもオビエテイル
もう、何も考えられない。
自分がどうすればいいのか。
自分がどうすべきなのか。
自分がどうしたいのか。
もう、何も分からない。
戦慄
畏怖
絶望
頭に残るのはそんなものだけ。
後は何もない。
あるのは、私を見つめる目に視えている、
ワタシノ、「死」ダ
「オマエ、」
唐突に、
「マサカ、」
その影が喋った。
「…視エルノカ?」
その視線が、私の眼球を貫くような感覚を受けた。
その瞬間、全力で廊下を走っていた。叫び声は上がらない。むしろ、叫び声を上げる暇すらもったいない。
逃げなくちゃ
逃げなクチャ
ニゲナクチャ
頭にあるのはそれだけだった。頭の中はぐちゃぐちゃで、方向感覚もろくに定まらない。眼球の中は、何かで引っ張られるかのように歪んでいて、視点が安定しない。大した距離を走っているわけでもないのに、異常なほど息が切れる。
嫌な感覚だった。
まるで、脳味噌の血が全て頭蓋骨に溢れ出してきてしまうような感覚。
眼球が張り詰めて、そこから血液が滲み出してくるような感覚。
肺が破れて、そこから止め処なく息が漏れてしまってきているような感覚。
必死に走った。この空間から一刻も早く逃げ出したくて、ただ本能的に足を動かしていた。
廊下を駆け抜け、階段を転げ落ちる勢いで下りていった。
気が付けば、私は一階まで下りてきていた。あとは、目の前にある玄関への廊下を駆け抜けていけばいい。後ろを振り返る。あれが追ってくる気配はない。
思わず、安堵の溜め息を吐き出した。
助かった。
そして、前を向いた。
ところが、
そんなのは、あまりに浅はかな希望だったということを思い知らされた。
「…逃げられるとでも?」
廊下に、静かな声が響き渡った。
廊下の真ん中に影が立っていた。すぐ横の小さな窓から差し込んでいる光以外、ここの空間に明かりはない。そこに立つ影は、そんな暗闇の中で、その存在の輪郭ばかりを濃く映し出して、そこに立っていた。
「…なんで、いるの?」
なぜ私は、こんなことを聞いているのだろう。もう、考えることも出来ない。
影は、ゆっくりと左手を上げて、上を指差した。見ると、そこには人一人が通り抜けるほどの空間がぽっかりと空いていた。
「どういうこと?」
思わず、後ずさっていた。頭はますます混乱するばかりだ。今自分の目の前にいるこの存在。それが、どうしようもないほどの不可解な存在であるということを改めて認識させられた。
影は、後ずさった私との距離を縮めようと、ゆっくり踏み出してきた。影は、一歩一歩、私へ近付いてきていた。その様子には、興奮も焦りもない。ただ、私へと「近付いてきている」という、そんな単純な動作だった。
影は、ゆっくりと歩み寄ってきて、窓から差し込む光の手前で止まった。そして、そのままじっとして動かない。
窓から差し込んでくる光には、まだその影の姿は照らし出されない。まるで、陰が光を恐れるが如く、影は光に入ってこない。
だが、その代わりに照らされるものがあった。影が右手に持っているものだ。今まで、影に隠れて見えなかったその姿が映し出されていく。
それを見て、息を呑んだ。
--それは、美し過ぎる日本刀だった。
外から差し込んでくる光に照らし出された刀は、その幻怪な輝きを反射させ、どうしようもなく見惚れてしまうほどの美しさを魅せていた。
極限まで洗礼された姿。ただの鉄が作り出す、芸術的な美。
しかし、その美しさの中に、私は感じた。
「死」という恐怖を
人影が、光に入ろうとしていた。それまで、光の前でじっと動かなかった身体が、ゆっくりと踏み出そうとしている。
それを見た瞬間、走り出していた。
咄嗟に階段を駆け上がっていた。とにかく、あいつから離れたかった。少しでも早く、少しでも遠くに行きたかった。
三階まで辿り着くと、廊下を駆け抜けていった。さっきのように、あいつの姿は廊下には無かった。
あいつの足音は、聞こえてこない。おそらく、じっくりと階段を上がって来ているのだろう。
逃げられるはずがないと、分かっているのだ。
三階の奥まで行くと、何のプレートも付けられていない教室に入って、鍵を掛けた。普段、入ることなどない教室だが、この教室だけ鍵が掛けられるようになっているのだ。鍵を掛ける、カシャという音が響いた。
扉に手を付きながら、腰を下ろして荒々しく息を吐き出す。ハァハァと、息が止め処なく口から吐き出されていく。肺が、心臓が、苦しかった。
フラフラな頭でその教室を振り返った。そして、そこに見える風景に茫然とした。
教室内は、殺風景だった。机も椅子も置かれていない部屋。この部屋は、もはや教室という機能を果たしていない、ただの部屋となっていた。かろうじてあるものは、黒板とロッカーと、後ろの隅に置かれた掃除ロッカーぐらいだった。
そんな、教室ですらなくなった部屋。それなのに、この部屋はどういうことだろうか。
--どうして、こんなに綺麗なのだろう。
その場所は不自然なほど綺麗だった。窓から差し込む光は碧く、その光が部屋一杯に差し込んでいた。光を遮るものは、窓の枠のみだ。それ以外に、この幻想的な光を邪魔するものが、この部屋にはなかった。他の教室のような無駄な物が、この空間にはないのだ。
ただただ、夜の美しさを部屋の中に招き入れている。
扉に手を付きながら、ゆっくりと立ち上がった。胸に手を当てて、生きた爆弾のように脈動している心臓を押さえながら、碧の空間の中を歩きだした。
後ろの掃除ロッカーのところまで来ると、掃除ロッカーから一本の箒を取り出した。
そして、窓枠のところに座って、また息を吐き出した。
「…もう、逃げられない」
手に持った箒をグッと握り締めた。
「だったら、やるしかないよね」
ふと、窓の外に目を向けた。
相変わらず、外は静けさに包まれた穏やかな月夜だった。
それを見た時、私はなぜかこんなことを思った。
--なんで、今日はこんなに月が綺麗なのだろう。
次回は、土曜日に更新します!