第1章「異変」④
――どうして、あんな夢を見てしまったのだろうか。
相変わらずの教室の喧騒の中で、私はそんなことを考えていた。
昨日は、佐藤さんのことに更に佐々木君のことが加わってきて、私の頭を悩ませた。しかし、一昨日に考えたことを昨日改めて考えてみても、大して良い結論が浮かぶわけもなく、結局昨日は今まで通りに過ごした。
やはり、一昨日のことがまだ尾を引いているために、私のことを奇異の目で見る人は何人かいたが、そんなものは気にしなかった。そんな目で見られることに、私はもう慣れ過ぎていた。
そうして、これまでと同じ様な日常を過ごした後に見た夢が、あんなわけの分からないものだった。
――あの人影は、一体誰だったんだろう?
夢というのは、瞼を閉じているときは、その夢の中に自分を投影させておくことができる。そこでは、私はその世界の主人公で、創造主で、構成主だ。
そんなわけだから、その夢の内容や前提なんていうものを全て私は知っていて、当然それまでに起きた出来事も全て私は知っている。
ところが、目を開けた途端、その見ていた映像,記憶といったものが、どういうわけか一切頭の中から抹消されてしまう。
自分がどんな夢を見ていたのか全く分からなくなってしまい、またそれを思い出すこともできなくなってしまう。目を閉じているときはあんなに明確だった夢の内容や映像が、目を開けた途端に全て消え去っている。この感覚は、いつになっても不思議だ。
しかし、昨日の夢は微妙に違っていた。それまでの流れは全て覚えているのに、あの影の顔だけが思い出せない。
夢の中で、確かに私はあの顔を見ていた。そのはずなのに、目を開けた途端にそれを忘れてしまった。そして、それ以来全く思い出せない。
そんなことをずっと考えていたら、いつものように恵子が声を掛けてきた。
「刀華、また考え事?」
そうして、いつもの通り私の机に体を預けてくる。
「…うーん、まぁね」
何気なく恵子の顔を見ると、その目には明らかに心配の色が見て取れた。おそらく恵子は、「居ない人」のことで私が悩んでいると思っているのだろう。
「実は、昨日の夜変な夢見ちゃってさー」
誤魔化すつもりで言った。恵子には、一昨日から色んな心配を掛けていたから、これ以上余計な心配は掛けたくなかった。
私が言うと、恵子は見るからに安心したような溜め息をついた。やはり、私が懸念していた通り、視えることの心配をしていたようだ。
「分かるなー。私も、たまに変な夢見て、それについてあれこれ考えちゃうことあるよ」
それから、私の話に合わせてきてくれる。こういうときに、恵子と親友になれていて本当に良かったと、心から思う。
恵子と会話をしつつ、私の意識は度々左斜め前の席と、右隣の席に向けられた。無論、そこにいるのは佐藤さんと佐々木君だ。
この二人は、変わらず、一切微動だにせずただ外を見つめていた。今日の外も、生憎の曇り空だ。
そのとき、ふと昨日の恵子との会話を思い出した。
「そういえば恵子」
「うん?何?」
「昨日の夜って、晴れてた?」
それは、本当に何気ない疑問だった。
この疑問に対して、私は一体どんな回答を期待していたのだろうか。
恵子は、昨日と同じ遠い目をして言った。
「ああ、そういえば、昨日の夜も晴れてたよ。一昨日の夜、本当に月が綺麗だったから、今日はどうかなー、って思ってベランダに出たら、不思議なことに昼間はあんなに曇ってた空が、嘘のように夜には晴れてて、月もとても綺麗だったよ」
それを聞いて、ドキリとする私がいた。
――そういえば、あの夢の中で、あの男子は何と言っていただろうか。
『今日はさ、』
『月が、』
キーンコーンカーンコーン。
突然のチャイムの音に思わずビクリと身体を震わせる。
先生が入ってきて、いつものように皆は席に戻っていく。恵子も、手を振りながら自分の席へと戻っていく。
先生は、教壇に着くなりいつものように朝の連絡を行っていた。ここだけ見れば、本当に何も変わらない日常なのに。
先生の話もろくに耳に入ってこず、私は頬杖をついて横を向いた。
この行動に、特に意味は無かった。
ただ、先生の話を聞く気がなかった。ただ、何気なく外を眺めようとした。ただ、あの二人が、見ている景色がどんなものか改めて見てみようと思った。
そう、ただそれだけのことだったのだ。
それだけだったのに、
私は、愕然とした。
もはや、わけが分からなくなっていた。
私は、気付いてしまったのだ。
――隣の席の男子が、ずっと外だけを見続けていたことに。
ーー
深夜、私は学校に向かうことにした。
今、私の身の回りで起こっている出来事、私だけに視えている出来事を、確かめたかった。
『絶対に、夜の校舎には入らないで』
月夜君の言葉を思い出す。
夜の校舎には、何かがあるのだ。
結局、私は月夜君に言われたことを破ってしまうことになる。そのことに、幾許かの罪悪感は覚える。
だが、それ以上に今起きていることを、真実を知らなければならないと、そう思った。
誰にも気付かれないように、細心の注意を払って家を出た。外は、思った以上に寒かった。
まだまだ、冬には早い季節。だが、Tシャツの上に上着を羽織るだけでは、秋の夜は少し寒かった。
外に出て、最初に驚いたことがある。
恵子の言っていたことは本当だった。昼間はあんなに雲で覆われていた空が、今はこんなにも晴れ渡っている。
気が付くと、私は空を見上げていた。
確かにそれは、はっきりとした存在感を持ってそこに在った。
街灯の向こうに見える光。
闇夜に輝く眩い光。
夜に現れる一点の光。
夜の空に穴が空いてしまったような光。
それを見上げて、私は思った。
ああ、いつからだろう、
思わず、溜め息が漏れる。
――夜、外に出ると、月を見上げる癖がついたのは。
ようやく、第一章が終わりです。
ここから、物語は本編に入っていきます。