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両刃の悲しみ  作者: ひふみん
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第1章「異変」④

 朝、目が覚めると、私は机に座っていた。


 体のあちこちが痛くて、起こすのが億劫だ。


「刀華ー、おじいちゃんが呼んでるわよー」


 お母さんの声が階下から聞こえてくる。側にあった時計を手繰り寄せて時間を見ると、時刻は六時ちょうどだった。長年続けて身に付いた習慣に、思わず苦笑する。


 昨日、夕食時にお母さんに起こされた私は、晩御飯を食べ終えるとすぐに勉強を始めた。学校でやらなかった分、そして眠ってしまった分を取り戻すつもりでやっていた。


 途中途中、休憩も挟みつつ、お母さんが持ってきてくれる夜食のおにぎりを食べつつ、勉強だけに没頭して、学校での出来事などはすっかり忘れていた。


 そうして、いつの間にか私は机で眠ってしまったらしい。背中には、いつの間に掛けてくれたのか、温かい毛布が掛けられていた。


 丁寧に毛布を畳んで、押し入れに仕舞った。そして、机の上にあった手鏡で軽く寝ぐせのついた髪を整えると、袴姿に着替えて道場に向かった。


 先に道場に来ていたおじいちゃんは、準備体操を始めていた。毎朝毎朝、どうしておじいちゃんはこんなにも元気なのだろうか、とつくづく不思議に思う。


「おはよう、おじいちゃん」

「おう、おはよう、刀華」


 いつものように挨拶を済ませると、おじいちゃんの横で同じように準備体操を始めた。


 いつもと全く変わらない朝だった。


「ところで、刀華」


 おじいちゃんが、声を掛けてきた。


「昨日は、どうしたんだ?」

「えっ?」


 おじいちゃんの言葉は、唐突過ぎた。


「…何が?」


 私は、本当に意味が分からずに聞き返した。


 しかし、次のおじいちゃんの一言で私は凍り付いた。


「昨日、学校で何かあったのか?」


 おじいちゃんは、静かにそう言った。


 意味が、分からなかった。


 なぜ、おじいちゃんがそんなことを言ってくるのか。


 そして同時に、昨日の学校での不可解な出来事が、どうしようもなく蘇ってきた。

「…どうして、そんなこと聞くの?」


 私は、努めて冷静に聞き返した。


 何か、悩んでいるような素振りをみせた覚えはなかった。昨日、おじいちゃんと顔を合わせたのは、夕食のときだけだったし、あの時は寝起きでぼけーっとしていたから、むしろ気付かれるはずはなかったはずだ。


 それなのに、どうして?


 おじいちゃんは、しばらくじーっと私の眼を見つめていた。まるで、そこに嘘があるかないかを探るようにして、おじいちゃんはじっと私の眼だけを見つめていた。


 そして、一言何かを呟いた。


「……のかもな」


 一体、何を言ったのかは分からなかった。声が小さかったせいもあるし、私の頭が混乱していたせいもあるが、おじいちゃんの言葉は聞き取れなかった。


 固まっている私を余所に、おじいちゃんはそれで話は終わりだとばかりに防具を付け始めた。私は、まだ訝りながら、同じく防具を付け始めた。


 そして、朝の稽古がいつも通り始まった。

もちろん、今日で二九七戦二九七敗目だった。


ーー


 教室に入ると、そこにはいつもの光景が広がっていた。先生が来る前のほんの一時、それぞれのグループで一つの机を囲んでいる。


 私が入ると、クラスメイトの数人が一瞬私の方を見て、何か意味ありげな視線を送ってきたが、私はそれを無視して、窓際の一番先頭、佐藤さんの席に視線を向けた。佐藤さんは、相変わらずその席に座ったまま、外を見つめていた。


 小さくため息をつきながら、自分の席へと向かった。


 席に着いて、勉強道具を鞄から出していると、恵子がすぐにやってきた。


「おはよう、刀華」


 いつもと変わらない笑顔で、声を掛けてくれた。


「うん、おはよう、恵子」


 私も、笑顔で挨拶を返した。


 恵子は、いつも通りに私の机に寄り掛かると、早速楽しげに話を始めた。


「ねぇ、刀華。昨日、夜に外出たりした?」


 いきなり、よく分からない質問をされたことにキョトンとする。


「えっ?別に出てないけど、どうかしたの?」


 今日は、変な質問をよくされる日だな、と思った。


「昨日さ、勉強の気晴らしにちょっと夜にベランダに出たんだよ。そしたら、月がとっても綺麗だったんだー。私、思わずしばらく見惚れちゃった」


 そうして、恵子は昨日のことを思い出したのか、どこか遠くを見つめるような目をした。どうやら、そんなに綺麗な月だったらしい。


「へぇー、そうなんだ。そんなだったら、私も勉強の合間に外出ても良かったかなー」


 昔から、月を見るのは好きだった。私の苗字が「月詠」というも、もしかしたら関係があるのかもしれないなんて思うけど、夜に空を見上げてふと月を見つけると、何だか嬉しくて、しばらく見惚れることもある。


「そうだよー。本当に綺麗だったんだから!あーあ、こんなことなら刀華に教えてあげたかったなー」


 恵子は、本当に口惜しそうに言った。


 私も恵子も、携帯電話を持ってはいなかった。最近は、高校生にもなれば携帯電話なんて、持っていて当たり前という世の中だが、私と恵子はその必要性がいまいち見出せず、いまだに持っていない。しかし、実際にこれで苦労したことなどなかったので、今しばらくはまだ持たないと思う。


「そうなんだ。てっきり、夕方も曇ってたから夜も天気悪いと思ってたよ」


 そう言うと、恵子はうんうんと頷いた。


「それがね、夜になった途端に急に晴れてきたんだよ。私も、てっきり曇ってるんだと思ってたんだけど、いざ外に出てみたら、星まで見えていて、本当に良い天気だったんだ。月も、本当に綺麗だったし…」


 そして、また心ここにあらずといった様子で、恵子はまた遠くを見つめた。


 そんな恵子の様子に、思わず苦笑してしまった。


 チャイムの音が、教室に響き渡った。先生が教室に入って来て、教壇に歩いていく。その足音で、ハッと我に返った恵子は、少し苦笑いを浮かべながら、手を振って私の席を後にした。私も、恵子に手を振って見送った。


 朝のホームルームが始まった。今日は、配り物がないらしく、いきなり連絡事項からのホームルームになった。昨日のこともあり、そのことに思わずホッとした。やはり、つい先程のクラスメイトの反応を見ても、昨日のことはまだ気にしてしまう。


 先生の言うことを軽く聞きながら、私はふとまた佐藤さんの後姿を見つめていた。佐藤さんは、全く変わらず、外を見つめていた。そして、ふと佐藤さんの視線の先が気になった。


 佐藤さんは、外というよりは、ほんの少し上、空を見つめているようだった。


 灰色の空。雲り空。


 それを、じっと見つめていた。


 先生の話が終わると、授業開始五分前のチャイムが鳴り響いた。今日の一時間目の授業は、移動教室だ。いつものように、恵子は授業道具を持って私のところまで来た。


「刀華、行こう」

「うん、行こう」


 私は、そう言って立ちあがった。授業道具を持って恵子の後に付いて一緒に行こうとした。


 ところが、うっかり椅子に躓いてしまった。


「あっ…!」


 思わず声が上がって、慌てて右隣の席に手を付いた。勢いで、ズッと机がずれた。


「ああ、ごめんなさい!」


 慌てて、その席に座っている男子に謝った。恥ずかしさと申し訳なさで顔は上げられない。確か、ここの席に座っていたのは佐々木君だったはずだ。話したことはない。


 ところが、


 顔を上げた瞬間、私は寒気を感じた。



――佐藤さんと、一緒だーー


 感覚的に解った。私が見ているこの佐々木君は、佐藤さんと同じように外を見つめたまま微動だにしない。私が躓いたことにも、私が佐々木君の机をずらしたことにも、全くの無関心で、ただただ外を見つめていた。


 まるで、佐藤さんと同じものを探しているかのように、


「刀華、どうかしたの?」


 恵子が、不思議そうに尋ねてくる。


 私は、じっと佐々木君の顔を見つめたまま、恐る恐る聞いた。


「…恵子、佐々木君って知ってる?」


 すると恵子は、昨日のように「えー」と不思議な表情を浮かべ、こう言った。


「…うーん、分かんないなー。隣のクラスの子とか?」


 当たってほしくなかった予感が当たった。


 やっぱり、恵子たちには見えていないんだ。


 私は、改めて佐々木君の顔を見つめた。


 その眼には、生気が欠落していた。ただただその先の何かを見つめているかのように、その眼は微動だにせずただ一点のみを見つめていた。


「その佐々木君がどうかしたの?」


 恵子は、素直にそう聞いてきた。本当に、忘れたとかではなく、知らないのだ。


「…ううん、何でもない。さぁ、早く行こう」


 私は、ドクドクと鳴っている心臓の音を恵子に気付かれないように、胸に道具を抱えて、先立って歩きだした。


ーー


 授業なんて、上の空だった。


 一体、これはどうなっているのか。


 ますます、わけが分からなくなってきた。


 授業が終わり、私はまだ頭を悩ませたまま、恵子と一緒に自分たちの教室に戻っていた


 その時、意外な人物に出会った。


「ああ、月詠さん」


 唐突に掛けられた声に、驚いてそちらに顔を向けた。


「…何だ、月夜君か」

「何だとはひどいなー。結構、話すのも久しぶりなのに」


 隣の教室から顔を出していたのは、元剣道部の月夜暉君だった。


 月夜君は、男子剣道部の主将を務めていた男の子だ。男子剣道部の中では抜きんでて強くて、男子剣道部においてなくてはならない存在だった。


 剣道部の主将を務めていて、男子剣道部の中で最強と呼ばれている男子ならば、当然想像するのは少しゴツ目の強面な男子が一般的だと思う。実際、私も話だけを聞いていればそんな男子を想像していたと思う。


 ところが、実際の月夜君は、細身でスッとした顔立ちをしている男子だった。格好良いというよりは、可愛いと言われるようなタイプで、女の子からの評判もなかなか良い。


 そんな月夜君と私は、剣道部時代から仲が良かった。


 入部初日に、女子部員全員を瞬殺した私は、すぐに顧問の先生に呼び出された。

 

 てっきり、怒られると身構えていた私は、その場で女子剣道部のコーチに任命された。先生は、私の一連の立ち合いを見て、女子剣道部ではとても私の相手は出来ないと判断して、選手というよりはコーチという立場で部活に参加してほしいと言ってきた。断る理由もなかったので、私はその頼みを聞き入れ、女子剣道部のコーチになった。だが、その代わりに、私は男子剣道部に混じって試合をさせてもらえることになった。


 そして、入部して一週間後、初めて男子剣道部の人たちと試合をすることになった。やはり、全国大会常連の強豪校なだけあって、男子剣道部も誰もが強そうな面構えをしていた。


 先生が部員を集め、私と試合をしてもらうことになったことを伝えると、部員たちは一瞬呆然とした。野次馬根性であの試合を見ていたのが、まさか自分たちとこうして試合をすることになろうとは、考えていなかったのであろう。男子部員といえども、その顔は見るからに強張っていた。


 私は、そんな反応をさして気にも留めず、防具を付けた。


 最初の相手は、男子剣道部の中でも一番弱い男子だった。その子には悪いけど、おそらく、最初の生贄として差し出されたというのが周りの男子の反応で分かった。悪いという気はしたものの、私はその男子を完膚なきまでに叩き潰した。


 大の字になって倒れている男子部員をそのままに、「次は?」と何気なく向いただけなのに、男子部員はすっかり尻込みしてしまい、「ひっ!」なんて、怯えた声まで聞こえてくる始末だった。


 なんだ、やっぱりこんなものか。


 実際に試合をする前から、他の男子部員たちもすっかり私に対して恐怖心を抱いているようで、次の生贄は誰かという押し付け合いだった。


 そんな様子に、内心でため息が漏れる。


 こちらが強いのか、あちらが弱いのか。


 正直、この時の私には判断がつかなかった。


 ただ、一つ抱いた率直な感想は、「がっかり」だった。


 高校生って、もっと強いと思ってたんだけどなー。


 と、その時だった。


「うわー、これは凄い」


 やけに場違いなおどけた声が道場に響いた。


 声のする方に顔を向けると、面越しに、目を丸くした細身の可愛らしい男子が見えた。袴姿で、出口のところに立っている。


「…あなたも、男子剣道部?」


 あんなことを考えていたので、掛ける声はどうしようもなくぞんざいになってしまった。


 しかし、その男子は、そんな私の態度も特に気にする様子もなく、道場に上がってきた。


「うん、まぁね」


 男子は、おもむろに肩から掛けていた竹刀袋から竹刀を取り出して、私に言った。


「他の部員全員とやったんでしょ?だったら、最後は僕だね。月詠さん」


 その男子は、そのまま正眼の構えを取った。無駄のない、とても綺麗な構えだった。しかし、そんなことはどうでもいいとすぐに頭を振る。


 私は、構えることもせずに、じっとその男子を見据えて言った。


「…何で、防具を付けないんですか?」


 私がそう言うと、その男子は首を傾げてキョトンと惚ける仕草をした。


「だって、」


 その後の言葉に、私は面食らった。


「面倒くさいじゃないですか」


 それは、何と単純にして明快な回答だっただろうか。


 私が呆気に取られていると、さらに一言。


「それに、月詠さんならきっと僕に当てることなく寸止めしてくれるでしょ?どうやら、めちゃくちゃ強いみたいだし」


 そう言って、試合場の中心に素早く摺り足で進んできた。自然と、私も自分の立ち位置に移動する。


「おい、月夜」


 審判をしていた先生が慌てて注意する。さすがに、怪我をさせるわけにはいかないだろう。


 そんな先生に向かって、月夜と呼ばれた男子は、にっこりと微笑んで言った。


「怪我したら、僕の責任ですから、ご心配なく」


 そう言いながら、月夜君はちらりとこちらを見た。その視線には、まるで、怪我をしたら私の責任にもなるとでも言いたげな雰囲気があった。


 「だが…」と渋る先生を余所目に、月夜君は構えを解くことなく、じっとこちらを見据えている。


 私は、そっと溜め息を吐き出した。


「…先生、大丈夫です」


 私の言葉に、先生は目を丸くしてこちらを見つめた。


「当てずに倒しますので」


 今思うと、我ながら随分天狗になっていたものだな、と思う。だが、この時の私は、思わずこんなことを言ってしまうほど、月夜君に対して苛立っていた。


 何なんだ、この子は?


 しかし、そんな私の様子に、月夜君はニッコリと微笑んだ。


 私たちは、改めて対峙した。お互い、正眼の構えで一切微動だにしない。


「本当に、良いんですね?」


 最終通告のつもりで、私は言った。


「うん。でも、お手柔らかにお願いします」


 月夜君は、まだ笑みを浮かべていた。


 先生は、まだ少し渋っている様子だったが、諦めたようにふっと息を吐き出すと、「本当に、怪我だけはするなよ」と言い残し、手に持った紅白の旗を前で揃えた。


 そして、「始め!」の掛け声が上がった。


 試合開始の合図。


 その瞬間、


「…えっ?」


 思わず、そんな声が漏れた。


 目の前の現実が、信じられなかった。


 すぐ目の前に月夜君の笑顔があった。


「小手!」


 そんな掛け声と共に、手首に鋭い痛みを感じた。思わず、顔を顰めた。


「…い、一本!」


 そして、次に聞こえてきたのは、先生の判定の声だった。


「……」


 信じられないようなものを見る目で、私はじっと打たれた自分の手首を見つめた。まだ、自分のされたことが理解できてなくて、理解できるのはジンジンと手首に痛みを感じていることだけだった。


 後ろを振り返ると、そこには笑みを浮かべた月夜君がスッと横目でこちらを見ながら立っていた。


 その笑顔に、なぜか恐怖を覚えた。


「…さぁ、次は本気できてくださいね」


 そう言って、月夜君は私の横を擦り抜けて自分の立ち位置へと戻っていった。


 その態度に、私は初めて自分の中の何かが切り替わるのを感じた。


 本気で、いく。


 私は、ゆっくりと構えを取った。


 そして、再び先生の旗が振り上げられた。


「二本目、始め!」


ーー


 その後、私は何とか月夜君から二本を取ることができた。少し本気になりすぎて、思わず直接打ち込んでしまいそうになるのを我慢して、全てを寸止めで決めた。


 この二人の試合に、先生も剣道部員たちも唖然としていた。


 しかし、私が三本目を決めた時、月夜君はただ微笑んでいるだけだった。


「やっぱり、月詠さんの本気には勝てなかったか」


 そんな呟きを残して、私たちの初めての試合は終わった。


 後になって知ったことだが、月夜君は私たちの町にあるもう一つの剣道場の一人息子だった。私と同じ境遇にあった月夜君は、幼い頃から剣道の腕を鍛え上げられていて、そうして私と同じくこの剣道部に入ったというのだ。


 それから、私たちは何度も手合わせをした。だが、初めての試合の最初の一本以来、私が月夜君から一本を取られることはなかった。


 だが、月夜君との試合は他の誰との試合より楽しかった。気を抜けば、負けるのは確実に私だったから、いつも本気でやらなければならなかったからだ。その緊張感、真剣さが、とても心地よかった。


 そうして、部活を通じて私たちは仲良くなり、こうしてクラスが離れても顔を見合わせれば話をするくらいにはなった。この学校で私が喋る唯一の男子だ。


 私の薄情な反応に、月夜君は見るからに不服そうな顔をしていた。こんな風に分かり易い表情変化をこの子はよくする。


「久しぶりって言っても、夏まではしょっちゅう喋っていたじゃない」

「うーん、まぁ、確かにそうだけどさー」


 私の言葉に、月夜君は言葉を詰まらせる。


 しかし、すぐに首を振って言い返してきた。


「でも、確かにそうだけど、最近は全然話してなかったじゃないか」


 そう言われると、否定はできない。確か、月夜君と最後に話をしたのはもう一ヶ月くらい前だった気がする。


「まぁ、言われてみればそうかもね」


 さも興味がないというように言葉を返す。なんで、この子とこんな話をしているのだろうかとふと疑問に思った。


 私は、今それどころじゃない。


「それじゃあ、月夜君、また今度ね」


 そう言い残して、恵子を連れて歩きだそうとした。


 すると、


「月詠さん」


 また、声を掛けられた。しかし、今度はその声に何か真剣なものが込められているような気がした。


「何?」


 振り返って聞くと、月夜君は何か渋る様子で顔を俯けていた。声を掛けたはいいが、言おうか止めようか迷っている様子だ。


 そんな月夜君の様子に、呆れたが、月夜君はようやく意を決っして私の眼を見て、言った。


「…絶対に、夜の校舎には入らないで」

「えっ?」


 言われている意味が分からなかった。


 どうして、私が夜の校舎に入らないといけないのだろうか。


「絶対に、来ちゃ駄目だからね」


 もう一度、噛み締めるように月夜君は言った。その一言一言に、何か重みを感じた。


 そんな月夜君の真剣な様子に、しばらく固まっていた私だったが、不謹慎だと思いながらも笑ってしまった。


「…あはは、行くわけないでしょ、夜の校舎になんて」


 そう言って、私は改めて恵子を連れて廊下を歩きだした。


 月夜君の視線を、ずっと背中に感じたまま。



●●●



――ここは夢の中だと、なぜだか解ってしまった。


 感覚的に、今居るこの空間は、現実世界とは隔絶された全く別の世界なのだと、理解した。そして、ここが夢の中だということも。


 こんなこと、今までなかったのに。


 私は、教室に居た。多分、自分の教室なのだと、これも感覚的に分かる。


 静かな夜だった。教室は、電気一つ付いていなかったけど、そこまで暗くはなかった。窓から差し込んでくる淡い光が、教室の中をぼんやりと碧く照らし出してくれていたからだ。


 私は、後ろの方から教室を眺めていた。廊下側の列の一番後ろ。その場所に立って、教室の中を眺めていた。


 教室には、私以外にもう一人の生徒がいた。窓側の列の二番目の席に、その子は座っている。後姿だが、男子の制服を着ているので男子生徒だということは分かる。


 その子は、ずっと窓の外を一心不乱に見つめていた。微動だにせず、ただただ外を眺めていた。


 不思議というか、何となく幻想的な光景だった。


 整然と椅子と机が並んだ夜の教室。


 窓から降り注ぐ淡い碧の光。


 誰もいない教室にたった一人でいる男子生徒。


 そんな光景に、しばらく見惚れていた。ただ、何となく綺麗だと思った。今、私が居るこの空間が、どうしようもなく、綺麗だと思えた。


 そのときだった。


 音が聞こえた。


 突然、静寂の中に響いてきた音は、どうやら足音だ。廊下から、ゆっくりとその音は響いてきていた。廊下を、誰かが歩いて来ていた。こちらに向かって、ゆっくりと歩いて来ていた。


 一体誰だろうか、こんな時間に。


 乱れることなく、均一にその足音は続いていた。一定のリズムを刻み、その足取りはただ真っ直ぐで純粋だった。


 リズムは変わらない。ただ、音だけが大きくなっていく。


 近付いてくる。


 ここに、向かっている。


 そう理解した時、私の居る教室の前で、その音は止まった。


 そして、僅かな静寂が流れた。


「……」


 溜め息を、聞いた気がした。


 扉が、ゆっくりと開かれた。まるで、大きな音を立てるのを憚っているように、教室の扉は開かれた。


 そこには、影が立っていた。


 顔は見えない。ぼうっと地面から浮かび上がっているかのような、現実感のない影が教室の向こうで立っている。顔が見えないので、何とも判断し難いが、背格好や雰囲気からして、おそらく男性であろう。


 影が、ゆっくりと歩き出した。しかし、こちらから見ていると、それは「歩く」と形容するには、どことなく不自然だ。不気味な影といえど、あれは人間。宙に浮いているわけではなく、確かに地に足付けて「歩いて」いる。


 だが、どうしても、


ーーそこに在るように思えないから。


 だから、あれを「歩く」とは言えない。


 影は、ゆっくりと窓際の男子生徒に近付いていった。


 その時だった。


「…俺だけじゃ、なかったんだ」


 ふと、男子生徒が声を上げた。そんなに大きくない声だが、静寂に包まれたこの空間に、その声はよく響いた。


 しかし、影は一切の反応を示すことなく、止まることなくただその男子生徒に近付いていった。


 その時に、初めて気が付いた。それまで、影に隠れて見えていなかったが、影は何かを手に持っている。細長くて黒い、傘のようなものを手に持っていた。


「…今日はさ、」


 男子生徒は、影からの反応がなかったことも気にせず、話を続けた。当然、影からの返事はない。だが、男子生徒は続けた。


「月が、」


 まだ、男子生徒は続ける。


 影が、男子生徒に近付く。


 もう一歩で手が届く。


 それだけの距離だ。


「とても綺麗だ」


 そう、男子生徒が呟いたとき、影は男子生徒のすぐ側にいた。手を伸ばせば触れられる。その距離に、影は立っていた。こちらから見ていると、まるでその男子生徒の影が立体化したような、そんな光景に見える。


 窓から降り注ぐ光が、影の足元を照らし出していた。履いているズボンは、どうやら本校の男子生徒の制服だ。


 影は、じっとその男子生徒のことを見下ろしていた。


 いや、この表現は正しくない。


 あれは、どう見ても見下している。


 そう、思った。


 影は、手に持った傘をゆっくりと振り上げていった。


 窓から降り注ぐ光が、その物体を照らし出し、私はその物体の正体を見た。


 そして、絶句した。


 それは、日本刀であった。


 影は、何の躊躇いもなく日本刀を振り上げ、男子生徒もただ外のみを見ている。


 その時、なぜか私は冷静に考えていた。


ーーきっと、あの子はコロサレルんだろうな、と。


 シュッという鋭い音。


 ドサッという鈍い音。


 私は、ただじっとその場に立ち尽くしていた。


 私の目の前に広がるのは、夢という名の非現実の中での出来事。これは、現実ではないのだ。


 教室を包み込む碧の光。


 立ち尽くす人影。


 その手に握られた一筋の光。


 そこから流れ落ちる場違いな色。


ーーアカかった。


 碧いこの空間の中で、その色は明らかに場違いだった。


 赤。

 紅。

 朱。

 丹。

 緋。

 あか。

 アカ。


ーー逃げなければならない。


 頭の中では、そう思っているのに、足が動いてくれない。まるで、足が「動く」という機能をそのまま忘れてしまったかのように、今私に付いているこの足は、ビクともしない。


 と、


 その誰かが、ゆっくりとこちらを振り返った。


 碧い光、月明かりがその顔を徐々に映し出していった。


 その顔を見て、私は思った。


――ああ、どうしてだろうか。


 こんな現実は、有り得ない。


 なぜなら、これは夢なのだから。


 だから、こんなことは、有り得ない。


――何で、


――アナタナンダロウカ。

次回は、来週土曜日に更新します!

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