事なかれ天国
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやは今、冒険が欲しいか? それとも平穏が欲しいか?
がきんちょの時は、世の中、知らないこと、見ていないことがたくさんあった。ちょっと足を伸ばせばそこには別世界が広がっている。しかも、親に連れてこられたとあれば、とどまれる時間も有限だ。一世一代のチャンスのように認識して、あっちゃこっちゃ探検したくなる気持ちが、湧いたりしなかったか?
だが、成人した今はどうだ? 自分がなじんでいる世界から外に出ずとも、生活することが可能と分かるや、新しいものをさりげなく遠ざけたくなる……そんな気持ちにはならないか? ここにあるものさえあれば、十分だと。
まるで甲羅の中へ引っ込む亀のように、頭も手足も縮こまらせて、事なかれ主義に徹する。何かしら言ったり、動いたりしてぶつかったり、対立したりすることを避けたい、そう考えることはないか?
俺も逃げを考えたのは一度や二度じゃないんだが、そのうちに妙な出来事を経験したことがあったんだ。その時の話を聞いてみないか?
俺は昔から我の強い人間だった。自分のやり方にこだわりがあって、他の人の指示や助言もそのまま受け入れず、自己流にアレンジするのが常だった。
「他人からもたらされる情報を、鵜呑みにしてはいけない」って、前に聞いていたからな。自分なりのアイデアをどっかしらに取り込まなきゃ、気の済まない性格だった。
だが、俺の上司は結果重視の人間でな。プロセスなんかどうでもよくて、最終的に成功したか、失敗したかで評価を下す人だった。部下が自分のしたアドバイスに従おうと従うまいと、良い結果さえもたらしてくれれば満足。「勝てば誰も文句は言わない」が信条な人だったからなあ。
で、俺のアレンジ戦術は、ものの見事に外れを繰り返す。後になって思い返せば原因は色々とあったが、体感で成功率は3パーセントってところ。残り97パーセントは失敗か、痛み分けでトントンといったところ。当然、上司にはガンガンに叱られたよ。
こいつが俺には、格別に響いた。唯々諾々と指示通りにやって失敗した奴なら、「指示出したのあんたじゃん。俺は悪くねえし」で、放り投げることができるだろう。当事者としてその意識はどうかと思うけど。
だが、曲がりなりにも工夫を凝らした自覚のある俺に、こう重ねられると辛い。しかもそれに端を発するクレームの処理も任される。べこべこ頭を下げるだけじゃなく、よりよくしていく方法も一緒に提示しないと、印象は悪くなるばかりだ。そうして提案したことも、正解かどうかは、時間が経たないと分からない。
褒められた記憶なんて、もう数ヵ月も過去に置いてきてしまっている。
そうやって日々、打ちのめされているとな。家に戻ってふとした拍子に思うんだわ。「ああ、帰りてえなあ」って。
今、ここの暮らしている空間じゃない。べたべたに甘やかしてくれた環境。その時、その時でめいっぱい友達と遊べたあの時間。これだったら、自分は誰にも負けねえっていう自信が持てた、大海を知らなかった頃の、井の中の蛙。
どれほどその時期に戻りたいと思ってもさ、戻れねえんだわ。今、頑張っていることにどれだけの努力を上乗せしてもさ、このバカげた望みは叶わねえ。そう考えると、どうせ結果は変わらないんだからと、休みの日に動きたくなくなる。
その日の晩も、大学時代の友達からケータイに連絡が入っていた。「今度の休みに、飲みに行かないか?」と。場所はここから電車で1時間ほど移動したお店だ。そこで食べ飲み放題の2時間コースを過ごすという。
頭の中で計算する。最低限の身なりを整えつつ、電車に乗るとして1時間半。そこから2時間を経て、下手をすると2次会以降にもつれ込む。1次会で帰るとしても駅まで歩いて、来た電車に乗るとして、またも1時間半。少なくとも5時間以上の拘束。
休みの日の5時間があれば、何ができる? 昼寝に、買い出しに、積んだビデオの消化に……むちゃくちゃ貴重な時間じゃないか。その自分が好き勝手に使えるはずの時間を、わざわざ人に会って、安くて済むはずの飯を高値で食い、適当にだべる。それによってもたらされるのは、家で過ごす時にも手にできる、刹那の快楽なんだぜ? いずれもこなしたからってあの頃には戻れない、繋がらない、泡のようなひとときさ。
俺は断りの返事を入れる。それを受け取った側からすれば、付き合いの悪い奴とか思われるかもしれないが、俺の中での優先順位は変わらない。
飲みが行われるはずだった当日も、昼間で布団の中でごろごろして、適当にケータイいじってビデオを見つつで、あっという間に日が暮れる。買い出しはめげた。あるものだけで、今週はどうにか生きられる。
――また明日も仕事か……嫌だな。
それでも休むのはなしだ。給料減らされちゃ困る。
ならばせめて次の日は、怒られもせず、クレームもなく、ただ平穏に過ごしていきたい。苦にされず、呼び出されることもなく、だ。
翌朝。俺が出勤した時、まだオフィスにあまり人はいなかった。先に来ていた人は挨拶を済ませると、すぐに自分の仕事へ戻っていく。いつもは誰かしら愚痴や世間話をしているものだが、今日はない。やがて人が集まってくるが、すぐにみんなそれぞれのデスクでパソコンを広げて、淡々と作業を始めてしまう。
始業前の朝礼も、それぞれが抱える仕事の期限が確認されただけ。これまで少なくとも、今日の天気については話題に上がり続けていたのに。
「いやにシンプル過ぎないか?」と思いつつも、俺は口に出さない。下手な波は立てたくない。実際、俺自身が抱えている仕事もいくつかあるし、少しでもそちらに集中したいところだった。
データはこれまでの仕事で集めたから、後は文章やレイアウトを考えるだけ。やはり自分の思考は止めないものの、これまでに注意され続けた経験から、いざ整ってもすぐには上司へお伺いは立てない。印字して、細かいところに問題がないか確認する。
仕事が前に進まなくても、俺はこのチェックの時間を個人的に気に入っていた。これをしている間は、叱られるかどうかの「まな板」の上に乗せずに済むからだ。それでいて、必要な仕事だから外すわけにはいかず、それでいてある意味「足踏み」状態が続く。向こうから迫ってこない限り、いくらでも注意されるかもしれない瞬間を、先延ばしにできるというものだ。
期限までにはまだ何日もある。ぎりぎりまで引き延ばそうと、俺はその日、残りの時間を確かめと微調整を繰り返しながら、実質、ほとんど仕事を進めないまま退社したんだ。
次の日も、その次の日も、俺のほぼサボりに近い、仕事の時間が過ぎていく。
上司も周りのみんなも、俺の仕事になど気にも留めず、各々のパソコンのディスプレイから顔をあげない。もしくはデスクに広げた紙や本にマーカーを引いていて、俺がしている作業と大差がなかった。
初めのうちは、それが正に天国だった。なんとなく仕事をし、誰にも構われることなく時間を過ごして、家に帰れば存分にだらける。
誰も俺に声を掛けない。声を掛けられないということは、叱責を受ける可能性もゼロパーセント。完璧に自由とまではいかないが、これまでの叩きのめされた時間を思えば、天国も同然。この状態のまま、ずっと続いてほしい……と思っちまったくらいだが、やがて俺は、おかしなことに気がつく。
このだらけた仕事をし始めて一週間。一度もオフィスの電話が鳴ることがなかったんだ。加えて、お客様や配達業者が姿を見せることもゼロ。これまでこれらが全くないことなんて、この一週間以前にはあり得なかったことだ。
例の課題も、提出の期限は明日のはず。これまでの上司だったらどんなに遅くとも、この前日までには「この件、どうなった?」と進み具合を確かめてきていた。俺の課題の遅れは全体の遅れにつながり、上司が嫌う「失敗」に直結するからだ。もうすでに本日の業務時間も残り半分を切っているが、音沙汰なし。
俺は思い切って、修正に修正を重ねた資料を手に、直接上司のデスクへ向かう。上司自身はパソコンに向かいっぱなしで、「お仕事中失礼します」と、俺が声を掛けても顔をあげない。何度試みてもそれは変わらなくて、やむなく席へ戻ろうとした時、ちらりと上司のパソコン画面をのぞいて、目を疑ったよ。
上司は空白のエクセルの図表を、ひたすら「↓」キーを押して下っていたんだ。横の行数を見ると、すでに90万を超えている数字がどんどん加算されていく。かと思うと、上司は不意に「↑」キーを押し、行数を瞬く間に減らし出した。
――まさか、仕事をしているように見せかけて、エクセルの上下移動ばかり続けていたんか? 時間中、ずっと?
口もきかず、わき目もふらず、エクセルを上り続ける上司。普段の熱意もやかましさも千里先へ置いてしまったかのようで、俺は鳥肌が立ったよ。
上司のカーソルは止まらず、広漠とした白いワクの左上を、ひたすらに駆け上っていく……。
「あーあ、起きちゃったよ。もう少しだったのにさあ」
子供と思われる声が耳に響いて、俺ははっと目覚めた。
喉と頭の痛み。そして胸につかえるような、嘔吐一歩手前の強烈な吐き気。以前、脱水症状に見舞われた時、同じような状態に陥ったことがある。
立ち上がることはできなかった。前にそれをしたら、立った瞬間に吐き戻した記憶があったからだ。布団の中から芋虫のように這いずり出し、冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取りながら、どうにかトイレへたどり着く。中で水分を摂りながらしばらく籠城する羽目になった。
何時間もかけて症状が楽になった後、布団へ戻る前に枕元の時計を見たら、日付は一週間前。ちょうどあの「平穏に過ごしたいな」と願って眠った晩から、ひとつ日付が変わっただけの未明だったんだ。
もし、あの夢の中で上司のところへ行かずに、事なかれを望み続けていたら、どうなっていたのかねえ。