再会からの頼み事
「その格好、一体何よ……」
沢は目の前のライバルを見つめ、首をかしげる。
解せぬ。
間違いなく、眼の前にいるのは甲本久その人である。
根拠はないが、そういう確信があった。
だって、こいつの顔がマウンドに立っているのを、それこそ飽きるほど見てきたのだ。
サヨナラを許してしまったあの試合だって、それだからこそ、こいつの顔を穴が空くほど睨みつけた。
そんな記憶がある。
だから、沢が久を見間違えることなどない。
それは久もおなじだったようで、
「うるせー。男の服はさ、もう肩とかスカスカで入んないんだよ。好きでやってるんじゃねえ」
可愛らしい声で告げた。
その声色はなんだ。
沢は戦慄する。
最近見始めた、深夜帯のアニメから飛び出してくるような声ではないか。
少なくとも、球場で聞いた、久の声ではない。
「……一体、何があったのよ……!? お前、それ女物だし。こえ、まるっきり女っていうか日向よりも女っぽいし」
「そもそも女っぽいってなんなんだよ? 基準はなんだよ? ああ、もう」
久はむくれると、ベンチに腰を下ろした。
それが明らかに、女の子の動作ではなく、荒っぽい男の動きだったから、沢は確信するわけなんである。
ああ、こいつは甲本だ。
たとえ、座った反動で胸元のあたりが無視できない程度に揺れたりしても、彼は甲本久で間違いない。
つまり、彼に起こったことを簡単に言うならば、
「お前、女になったのかあ」
「おう……。まだ信じられねえけどな……」
「そうかあ。甲本お」
「なんだ」
「お前……おっぱい大きいな」
拳が飛んだ。
「おぎゃあああ」
鼻を押さえて地面をのたうち回る沢。
「羽木はよ。デリカシーってもんがねえよな」
「い、いきなり殴る奴があるかよぉ! ひいー、日向以上の馬鹿力だあ」
「それでも男のときより、随分腕力落ちたんだぜ? お陰で野球が無理になっちまった」
「そうかー」
「で、まあな。地元にも居づらくなってこっちに引っ越してきたんだよ。ちょうどお前がいたなと思ってさ。俺の分もやれって、どやしに来たんだよ」
「そうかー。俺もなー。野球は無理になってなあ」
「……はあ!?」
久がすごい顔をした。
彼……いや彼女の中で何か葛藤があったようで、腕組みをして唸っていたが、すぐに答えは出たようだ。
がっくりと頭を落として、ため息をついた。
「なんだよ……俺らどっちもダメになったのか……。そりゃないぜ……」
「まあなあ。野球肘ってやつで……あいたたた」
沢は思わず、曲がりにくい右を使って起き上がろうとして、上手くいかない。
「ほれ。お前、すげえフォームで投げてたもんなあ。矯正すりゃ良かったろうに」
久が手を差し伸べた。
沢はそれを握り返す。手のひらは女子としてはやや大きく、柔らかだったが、一部にはまだ消えないたこがあった。
ああ、こいつは間違いなく甲本なんだな、と実感する沢。
「あれじゃなきゃダメだったんだって、俺。あー、もう。いつまでも吹っ切れなくてなー」
「それは俺も一緒だよ。お前はまだいいだろ、男なんだから。俺なんか性別まで変わったぞ!」
「いや、甲本は肘が無事だろうよ」
「肘は無事だがアレはなくなったぞ!」
「あっ……」
「だーかーらー、見るな! 凝視するな!」
「おぎゃあああ」
また沢は地面に転がることになった。
久はとにかく、手が早い。
いや、相手が沢だからこそ気安くなっているのかもしれない。
「まあ、今のは俺も悪かった。姉貴から下品なことを言うなってよく言われててな」
また沢を助け起こす久。
二人ならんで、バス停のベンチに座った。
日向が去ってから、もう二十分ほど過ぎている。
次のバスは、後四十分後だ。
「いやあ……しかし田舎だ田舎だと思ってたが……想像を絶する田舎だな……」
「そうだぞ。お前がどこ引っ越すのか知らんけど、地元にはスーパーも無いぞ」
「げえ。コンビニくらいは」
「コンビニまで車で三十分だぞ」
「げええ。きつすぎる……」
麦わらごと頭を抱える久。
ここに来て、やたらとセミの声がうるさくなってきた。
なんとなく会話が途切れて、ぼーっとする時間になる。
初夏のころだというのに、遠くに見える舗装されていない道の先は、蜃気楼で揺らいでいた。
「……そうだ」
「うわあっ、何よ」
突然、久が言葉を発した。
ぼーっとしていた沢はビクッとする。
「お前さ、羽木、俺を案内しろ」
「はあ?」
いきなりの言葉に、沢はよく理解できないでいる。
すると、久は繰り返した。
「あのな。俺はお前の土地に不慣れなわけ。だから、土地のこと案内してくれよ。どうせ暇なんだろ?」
「暇とは失礼なやつだなー」
「忙しいのか?」
「暇だけど」
いかん、自ら断る理由を失ってしまった。
「だけど、なんで俺」
「そりゃもちろん……」
ここでちょっと、久は言いよどんだ。
何やら顔が赤い気がする。
沢もまた、彼……いや彼女の顔を見て頬が熱くなるのを感じた。
顔の面影は、大部分見知っている甲本久だとしても、細部が女の子のそれになっているのだ。
そして少なくとも、甲本久の顔立ちは、すかした奴だと沢が感じた程度には整っており。
つまりは結構可愛い女の子が、目の前で頬を赤らめて何か言おうとしている。
それは決して、ネガティブな言葉ではない。そう感じられる仕草。
「……しかいねえからだよ」
「はい?」
最初の部分が聞こえなかった。
思わず聞き返す沢。
すると、久は目を三角に吊り上げて、足を踏み鳴らした。
可愛らしい白いサンダルを履いているのに、そんな仕草をしたら台無しだ。
「お、お前しか、知り合いがこっちにいないからだっつってんの!! あと、事情知ってるのお前だけだし!!」
「おお、おおう」
いきなり大ボリュームで言われた。
事情を知ってるも何も、いきなり現れたライバルが女だった、という衝撃から、まだ立ち直ってすらいないのだが。
「だから、次のバスで、お前と一緒に帰る。で、帰ったらすぐに案内な」
「は? あれ、お前、俺と同じ村なん?」
「言ってなかったか? 俺、お前の家の隣に住むんだ」
「はああああああ!?」
大きなショックを受け、仰け反る沢。
「色々さ、俺も不慣れだから、フォローとかよろしく」
堂々とこんな事を頼んでくるあたり、彼女は大変に図太い。
そして、沢はこれを断る正当な理由を持たないのだ。
かくして、瞬く間に三十分が過ぎ、バスがやって来るのであった。